林家三平 (初代)

日本の落語家、初代林家三平
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初代林家 三平(はやしや さんぺい、本名:海老名 泰一郎(えびな やすいちろう。旧名:栄三郎(えいざぶろう))、1925年11月30日 - 1980年9月20日)は、落語家。社団法人落語協会理事。

初代 林家 三平はやしや さんぺい
初代 林家 三平
花菱は林家三平一門の定紋であり林家こん平に移門しても同じである。
本名 海老名 泰一郎(旧名:栄三郎)
生年月日 1925年11月30日
没年月日 (1980-09-20) 1980年9月20日(54歳没)
出身地 日本の旗 日本東京市下谷区(現:東京都台東区
師匠 7代目林家正蔵
7代目橘家圓蔵
弟子 一門弟子参照
活動期間 1946年 - 1980年
配偶者 海老名香葉子
家族 7代目林家正蔵(父)
海老名美どり(長女)
泰葉(次女)
9代目林家正蔵(長男)
2代目林家三平(次男)
所属 東宝名人会(1946年 - 1949年)
落語協会(1949年 - 1980年)
主な作品
源平盛衰記
備考
落語協会理事(1968年 - 1980年)

東京市下谷区(現在の東京都台東区根岸出身。旧制明治中学卒業、明治大学商学部入学。通称は「根岸」。出囃子は『祭囃子』。

目次

家族編集

東宝名人会専属7代目林家正蔵の実子で長男。長女海老名美どり峰竜太夫人)、次女泰葉春風亭小朝元夫人)、長男は9代目林家正蔵(前名:林家こぶ平)。次男(前名:林家いっ平)が2代目を継いだ(妻は国分佐智子)。妻は海老名香葉子教育再生会議委員)。義兄は釣竿職人の中根喜三郎(妻・香葉子の兄)、孫は下嶋兄(美どりと峰の息子)、林家たま平(9代目正蔵の息子)。

来歴・人物編集

1925年11月30日、7代目柳家小三治(後の7代目林家正蔵)(海老名竹三郎)と母・歌の長男として東京根岸に生まれる。海老名榮三郎と名づけられる。

1945年3月、本土決戦部隊として陸軍に徴兵される。土木作業への従事を経て肉弾特攻を命じられる[1]が、終戦を迎えた同年10月、敗戦により兵長として復員。

復員後、本名を海老名泰一郎に改名。初舞台は松竹演芸場での通行人役。明大明治中学校を経て、明治大学入学。

1946年2月、東宝専属である父正蔵に入門し東宝名人会の前座となる。父の前座名柳家三平を貰い、芸名を林家三平と名づけられる。落語家は真打になった時などの区切りの場面で改名することが通例だが、この名を生涯名乗り続けることになる(このため、前座名のまま亡くなるまで通した落語家の代表例として三平が取り上げられることもある)。現在の公式プロフィールでは、林家甘蔵は名乗らなかったことになっている[2]。同年4月、父親の独演会で初高座。翌1947年秋、東宝名人会において二つ目に昇進。

1949年10月20日、父正蔵死去。芸界の孤児となる。同年、かつて父の弟子だった4代目月の家圓鏡(後の7代目橘家圓蔵)門下に移る。二つ目である事実は取り消され、新師匠圓蔵が所属する落語協会で改めて前座からやり直す。

1950年4月22日5代目柳家小さん襲名トラブルの余波で、正蔵の名跡を貸して欲しいという騒動が起きた。

1951年3月、二つ目昇進。

1952年、妻・香葉子と結婚[3]。仲人は3代目三遊亭金馬(東宝の父正蔵の同僚で、香葉子と中根の育ての親)。同年、病気で1か月の入院生活を送る。このころ、父正蔵から相続した土地を半分手放す。

1953年2月14日、第一子・美どり生まれる。

1954年文化放送「浪曲学校」司会。

1955年、出口一雄により、KRテレビ(現:TBS)『新人落語会』(後に『今日の演芸』と番組名変更)の司会者に抜擢される。三平大ブームが巻き起こる。経済的に苦しい生活からテレビ界の寵児に一夜にして変身。以後、死ぬまで大スターであり続ける。

1957年10月中席、上野鈴本演芸場で、2代目三遊亭歌奴(現3代目三遊亭圓歌)と共に、二つ目身分のままでトリを取る。

1958年10月、真打昇進(初代林家三平として)。口上は大師匠8代目桂文楽が務める。なお、この真打披露興行もKRテレビで生中継された。前座名である三平の名を一枚看板までに大きくし、初代林家三平の名を生涯貫く。

1961年1月17日、第二子・泰葉生まれる。

1962年12月1日、第三子・泰孝(後の9代目林家正蔵)生まれる。待望の長男誕生であった。

1965年日本テレビ踊って歌って大合戦」司会。

1967年、日本テレビ「笑点」師弟大喜利、鶴亀大喜利、演芸コーナーに出演。以後、1979年まで不定期に出演。私生活では家を新築。

1968年、落語協会(6代目三遊亭圓生会長)理事就任。終世、同職に。

1970年12月11日、第四子・泰助(後の2代目三平)が、末っ子として生まれる。

1975年 - 1976年フジテレビ三平・美どりのドキドキ生放送』を娘・美どりと司会。

1978年5月、落語協会分裂騒動が起き、師匠の圓蔵が新団体参加を表明する。だが、三平自身は新団体への移籍の意志を見せず、圓蔵の落語協会脱会撤回の説得に成功する。

1979年正月、脳溢血で倒れて東京逓信病院に入院。1週間の昏睡を経て右半身が麻痺し、言語症が生じたがリハビリを重ね、10月に奇跡の復帰[4]

1980年9月7日、上野鈴本演芸場が最後の高座になった[4]

1980年9月18日肝臓癌で入院した[4][2]

1980年9月20日、死去。54歳没[2][4]。妻・香葉子、長女・美どり、次女・泰葉、長男・泰孝(9代目正蔵)、次男・泰助(2代目三平)、義兄・中根など家族・親族、一門弟子が見守る中息を引き取った。最後の言葉は泰孝に対する「なんでもまじめにやれよ」であった[2]法名は、志道院釋誠泰。墓所は父と同じ足立区常福寺。

同じ時期にテレビ、ラジオで活躍した落語家に、弟弟子5代目月の家圓鏡8代目橘家圓蔵)、7代目立川談志5代目三遊亭圓楽2代目三遊亭歌奴(現3代目三遊亭圓歌)らがいる。

名前編集

海老名榮三郎編集

海老名榮三郎は本名の初名。長男なのに「榮三郎」と名付けられたのは父正蔵の本名が海老名竹三郎だから。

しかし大人になった時に長男らしい名の泰一郎と改名している。

自らの子供達の名には「泰」の字をつけている。(長女の美どり(本名は全て平仮名の「みどり」)は例外)

林家甘蔵編集

多くの資料ではこれを彼の初名としている。父正蔵が「こいつ(三平)は根が甘ちゃんだから甘蔵にするか」としてつけたという。しかし公式プロフィールではこの名を実際に名乗ったという事実はないとされる。

林家三平編集

なぜ「林家」なのか編集

もともと、海老名家は「林家」という名と関係がなかった。それは以下の理由による。

父正蔵の前名は7代目柳家小三治である。当時人気のあった初代柳家三語楼の一門であった。やがて落語協会内部で派閥抗争が起こり、初代三語楼一門は全員落語協会を脱退し、新たに初代三語楼を会長とする「落語協会」(いわゆる「三語楼協会」)という、つまり全く同名の組織を別に結成するという挙に出た。抗争は、互いに独立した二つの協会間の争いに変質したのである。

7代目柳家小三治(7代目正蔵)も師匠に従い三語楼協会に加わった。ところが、「柳家小三治」という名は柳派にとって重要な出世名で、柳派の総帥4代目柳家小さんは従来の協会(区別のため「東京落語協会」と呼ばれる)に残留したままである。東京落語協会は、三語楼協会に「小三治の名を返せ」と迫った。しかし三語楼協会が従うはずもなく、逆に東京落語協会は同じ柳派の柳家小ゑん(高橋栄次郎)に柳家小三治を襲名させてしまった。つまり、同時に2人の「柳家小三治」が発生したのである。この異常事態に対し、別団体睦会の5代目柳亭左楽の差配で、三語楼協会の小三治に柳家とは全く関係ない名「林家正蔵」を襲名させた(7代目)。この名は留め名であり、小三治より格上であった。これにより本来海老名家とは縁のない「林家」の屋号を名乗ることになったのである。[5]

なぜ「三平」なのか編集

三平は、父正蔵がかつて名乗っていた前座名である。師匠が柳家三語楼なので「三」の字を採った。ただし、上記のように父は柳家なのでその名は「柳家三平」であった。ゆえに父は三平の初代には数えられていない。
また、上方落語の五代目林家正三の弟子、初代露の五郎の若名乗りが「林家三平」だったが、系譜的に別であるため、三平の初代には数えられていない。

林家三平を名乗り続けた理由編集

三平は二つ目の時点で既に時代の寵児、そして落語協会の次代を支える若手の筆頭となっていた。真打への昇進ともなれば、落語協会としてもやはり前座名でない立派な名を与える必要があった。5代目小さんは、自らの前名「柳家小三治」を三平に譲る事を考えた。小三治は柳派の出世名である。これをもって彼を柳派の正式な一員とし、ホープとして育てる事を約束するようなものである。そして都合のいいことに、三平本人の父の前名でもある。

一方、師匠7代目橘家圓蔵もまた、自らの前名「月の家圓鏡」を三平に名乗らせたいという意向を持ち、さまざまな画策を行った。圓蔵は圓蔵で三平を橘家のホープ、そして自らの後継としたかったのである。

三平は師匠圓蔵案(師匠の名を襲名)を一貫して拒み続けた。しかも小さん案(父の名を襲名)も受け入れず、結局どの名跡も襲名することはなく「林家三平」のままで真打となったのである(5代目柳家小さん『咄も剣も自然体』)。そして、三平の名を一代で大看板にした。

結局月の家圓鏡の名は弟弟子の橘家舛蔵が襲名した。三平がテレビで人気を博していたころ、舛蔵改め圓鏡は、主にラジオのトーク術で人気を博し、三平同様演芸界のスターダムにのし上がってゆくことになる。のちの8代目橘家圓蔵である。

林家正蔵の名跡編集

父正蔵没後6か月後の1950年4月22日、正蔵の名跡を貸して欲しいという騒動が起きた。

5代目柳家小さんの名跡をめぐり、兄弟子5代目蝶花楼馬楽(後の林家彦六)と弟弟子9代目柳家小三治が争い、馬楽が負けたからである。

小さんの名跡争いで馬楽が負けた原因は、小三治が三平の大師匠で実力者8代目桂文楽の預かり弟子であり強力な後援を受けていたことと、元々馬楽が三遊派から柳派に移籍した「外様」であったことが影響している。

当然、馬楽は不満である。4代目柳家小さんは4代目馬楽襲名後に4代目小さんを襲名した経緯から、馬楽を名乗った後は小さんになるのが通例であったが、襲名があっても香盤は変わらないので、“小さん”の名前が馬楽より格下となる「ねじれ現象」を生じてしまう。これでは差し障りがあった。

小三治には4代目小さん未亡人や文楽が後盾になっており、また折角の好機でもあるため馬楽に譲ろうとはせず、むしろ馬楽に自分より格上(又は同等)の名跡を襲名するように促す。

一方馬楽は空席の名跡を探していた時、怪談噺を得意とする「正蔵」が丁度空いている、と周囲に促され、急遽「一代限り」の約束で父同様5代目左楽を仲立ちに海老名家から正蔵の名跡を借り、8代目林家正蔵を襲名した。

父正蔵の一周忌すら済んでいないこの時期に、関係の薄い馬楽に名跡を譲らなければならなかったことは、当時の三平の境遇をよく表している。名跡は貸与しただけであり、勿論馬楽が三平の後見となってくれるというようなことは一切なかった。一方、8代目正蔵側から見れば、7代目正蔵襲名に至る経緯を知っているために、この名跡を「貸与」とする扱いには釈然としなかったらしい(「7代目林家正蔵」参照)。

なお、三平が正蔵を名乗ることは遂に叶わず、8代目正蔵よりも先に死去してしまう。三平没後、8代目正蔵は自ら「正蔵」の名跡を海老名家に返上し、「彦六」に改名した。

ここまでの経緯は新宿末廣亭元席亭・北村銀太郎の説明によるものであるが、8代目正蔵よりも小さんを可愛がった北村の証言だけに、幾分かは割り引いて聞く必要もあろう。

実際、8代目正蔵は自伝『正蔵一代』(青蛙房、2001年新装版)で、生前三平に正蔵を返上しようとしたところ、三平から「師匠の宜しい(亡くなる)まで(正蔵を)お名乗り下さい」と説得されたことを明かしている[6]。また、8代目正蔵は、自らの弟子の真打昇進時には、亭号を「林家」から他のものに変更させ、三平への配慮を見せていた[7]。三平生存中に亭号を変更しなかった8代目正蔵の弟子に3番弟子林家枝二がいるが、現在は7代目春風亭栄枝を襲名して他の亭号に変更している。なお、4番弟子初代林家木久蔵(現:林家木久扇)は、三平に気に入られていたことからその肝入りもあって亭号を変えることはなかった。このため、現在林家は二流あるものの、木久扇は9代目正蔵襲名の際にその後見になっている。

師匠編集

初めの師匠編集

初めの師匠は、父正蔵である。

父正蔵の死編集

父正蔵の死後、父正蔵と同じく東宝名人会専属の初代柳家権太楼に入門する話が進んでいた。

7代目橘家圓蔵に入門した理由編集

7代目橘家圓蔵は、師匠8代目桂文楽に破門された後、7代目林家正蔵一門に弟子入りし、2年間を過ごし、その後社会の最底辺で職業を転々とする文字通りの「てんてん人生」に甘んじた。圓蔵は、生涯を通じて落語が下手で、後世の評価でも三平の下手を遥かに上回るといわれている。

しかし、三平と母・うたは、丸きり他人の権太楼に入門するよりは、関係が多少でもある圓蔵のところに入門した方が良い扱いを受けるだろうと考えた。

だがその実、圓蔵は師匠正蔵にかなり冷遇された身であった。しかも最後は破門されており、正蔵に対し恨みを強く残していたのである。そのためか、東宝名人会における三平の前座経験と二つ目昇進を圓蔵は全く考慮しなかった[8]ので、落語協会で前座をやり直すことになった。

従ってこの時点では最悪の選択をしたように見えるが、最終的な結果として特段悪い道ともいえなかった。落語協会での修行を積むことで、落語家として正統な出世コースを歩むことができた[9]。そしてTBSの出口一雄は大師匠文楽に心酔しており、その孫弟子三平に喜んでチャンスを与えた。そのため同局のレギュラー番組(今日の演芸)を射止めることができたのだ。

加えて、晩年の権太楼は認知症の発病もあり、凋落が著しかったので、その弟子になっていたら出世の可能性は相当に狭められていたであろうと考えられている。

芸風・エピソード編集

テレビ時代の申し子と謳われた三平は、テレビが生んだ最初のお笑いブーム、「(第一次)演芸ブーム」の火付け役かつ中心的存在であり、また「爆笑王」の盛名をほしいままにした(今は当然のように在京のテレビ局ではそのように呼ばれているが、存命時はそれほど飛びぬけていたわけではない。当初爆笑王と呼んだことには何らかの意図がうかがわれる。)[2][10][11]

売れる前は父・正蔵と同じく古典落語を主に高座で行っていたものの、「囃の途中で言葉につまる」、「登場人物の名を忘れる」などの致命的なミスが目立つことが多かったため、仲間内から「大変下手な奴」、「鷹が生んだ鳶」、などと馬鹿にされていた。観客の中にも「この人は本当に落語を喋れるのか」と思うものは少なくなかった[2]。だが3代目三遊亭金馬だけはその素質を感じ、「あいつはいつか大化けする」と将来の大成を予言していた。

時事ネタを中心に、「よし子さん」「どうもすいません」[2]「こうやったら笑って下さい(と額にゲンコツをかざす)」「身体だけは大事にして下さい」「もう大変なんすから」「ゆうべ寝ないで考えたんすから」[2]「坊主が二人で和尚がツ―(お正月)。」などの数々のギャグと仕種で一気にたたみかける爆笑落語で人気を博した。そして、「――このネタのどこが面白いかと言いますと……」と現在でいう「スベリ芸」を先駆けるネタも用いたことでも知られている。因みに「どうもすいません」、額にゲンコツをかざす仕草は、元々は父の7代正蔵が客いじりで使用し、息子たちも時折見せる、海老名家のお家芸とも言えるポーズである。なお、「どうもすいません」について三遊亭圓歌は、『NHKアーカイブス』の中で、東京タワーからのテレビ放送で司会をしていた三平が台詞を忘れてしまい、「どうもすいません」と額にゲンコツをかざしたところ、お客に大いに受けたのが始まりであると語っている。子供が泣けばあやす、客がトイレに行けばそれをいじるなど、客いじりにも造詣があった[2]。 持ち時間制限が厳しいテレビでの露出が目立ったという事情もあり、小話を繋いだ漫談風落語が一般の印象に強く、本格的な古典は苦手と受け取られがちである。しかし、実際には古典落語もきっちりこなせるだけの技術と素養を持っている噺家であり、弟子入りした長男の泰孝[12]は、古典の稽古をつけてもらった際、噺を上手くできない度にゲンコツを喰らっていたという。これを見ていた次男の泰助[13]が、「兄ちゃんはゲンコツばかり受けて、こぶばっかりだね」と言ったため、泰孝は「林家こぶ平」と名付けられてしまう。ただ、このエピソードには諸説があり、泰助が「兄ちゃんは小太りだから、こぶ平という名前がいいんじゃないか」と言ったことからこぶ平と名付けられたという説もある。

なお、このエピソードなどを挙げてこぶ平改め9代目正蔵は、「うちの親父は弟子の名前を付けるのが下手だった」と回顧している。実際、種子島出身だから林家種平北海道出身だから林家とんでん平という調子で、安易な名前を付けられた弟子も多い。もっとも、安易な名前だが落語家の定型的な名前からは逸脱しておりインパクトはあって覚えられやすい、また三平の弟子だと判りやすいという一面もあり、弟子たちにとって決してマイナスになるものではなかった。

この様なエピソードばかりが目立ってしまうきらいはあるが、江戸落語の噺家としてを大変に重んじる人物であった。服装は常に折り目正しく、高座には必ず黒紋付き袴で上がり、他の多くの噺家のように色つきの着流しで簡単に済ませるようなことはしなかった。洋装をまとうにしても高価なタキシードやスーツをきっちりと着こなしており、いい加減な服装・普段着で客の前やテレビに登場することはなかった。この点についていえば、テレビ本格普及以降に台頭した落語家のみならず芸能界で活躍したタレント・芸人を見渡しても希有な存在である。

自身の小噺に入っていた下ネタに放送禁止用語は一切使われておらず[14]、そうしたものを「外道の芸」「芸を腐らせる」として徹底的に嫌っていた。

テレビの漫談では、ニコリとも笑わないアコーディオン弾きの小倉義雄との対比的なコンビが特に人気を博した。加えて、高座では、正座が当たり前だった常識を覆し、歌を立って歌うといった革新的なことから、「立体落語」という言葉を大衆に認知させた。 また、弟子の林家ペーパー子夫妻と共に数々の珍芸を披露。ペーは一時期三平のバックギタリストとして高座を共に務めていたことがある。

なお、7代目立川談志の回想によると(『談志楽屋噺』より)、三平は談志のような芸人仲間相手の酒席の場でも、寄席などで披露していた「すべり芸的なギャグ」をサービスとして連発していたという。談志がたまりかねて三平に意見をしても、一向にその調子を変えず、談志は三平の「本音をけっして見せない姿」に不思議な思いを抱いたという。しかし、3代目三遊亭金馬同様に、「(大化けして、)モンスターならぬ大スターになった」と言わしめるほどだった。

私生活編集

売れ始めた当初は、遊びが過ぎて家にほとんど金を入れず、妻香葉子は内職に追われていたという。内職片手に子供に授乳するため、左乳のみが垂れてしまったという逸話もある。

同時期に活躍した石原裕次郎とは親交が大変深く、その付き合いは家族ぐるみのものであった。三平が1980年に、裕次郎が1987年にそれぞれ没した後もその親交は続いており、長男こぶ平の9代正蔵および次男泰助の2代三平の襲名披露に際しては石原プロモーションによる全面的なバックアップが行われ、大変に豪華なものとなった。

1971年7代目立川談志参議院選挙に立候補した時には、「ご町内の皆様、おはようございます。林家三平がご挨拶にあがりました。奥さんどうもすいません、三平です。こうやったら笑って下さい(と、額にゲンコツをかざす)。皆さん、ここにいる圓歌さんは、十年に一人出るか出ないかという芸人です。この談志さんは五十年に一人。この私、三平は百年に一人の芸人と、文化放送の大友プロデューサーが言ってくれました。そして、こちらの円鏡さんは一年に一人という……」と言ったところ、円鏡が「兄さん、そりゃあシャレにならねぇ。」と止めに入るような応援演説だったため、誰が立候補したのかわからないような無茶苦茶なものだったという。

かような応援演説のせいで勘違いした者がおり、この選挙で「林家三平」と書かれた無効票が、圓歌によれば24票入っていたという(5代目鈴々舎馬風は28票という数字を挙げている)。いずれにしても基本的には選挙で無効票の個別内容とその票数までもが詳細に公開されることはないので[15]、これらは噺家たちによるネタと見るべきものである。とはいえ、三平の応援演説が原因で、実際にこのような「事故」が多少なりとも発生したであろうことは想像に難くない。

ネタづくりのとき、仕事仲間から自宅の仕事部屋が暑くて困ると言われ、唐突にエアコン(当時は高級品)を購入したが、下の窓につけたのでちっとも涼しくならずみんな寝転がってネタを作ったり、移動が大変なので自家用車を買うことになり、夫人に相談もなしに運転手つきの車を購入するなど、値の張る衝動買いをしばしば引き起こしている。

息子の林家正蔵の回想によると、子どもの頃の父・三平に対するイメージは典型的な優しいお父さんという印象だったそうだが、落語家として弟子入りした直後からそれまでの態度が嘘のように厳しい態度をとるようになり、下積み修行時代には容赦なく殴られることも少なくなかったとのこと。このことに関して正蔵は「父には僕を一人前の噺家にするために人並み以上の責任感と言うものを背負っていたのだろう、だからあのときの拳骨の一発一発が僕に対する愛情だった」と語っている。これは三平自身が大正生まれでまだ前近代的な価値観を持ってたが故、そして自身の跡継ぎとなる実子が一門の誇りと信頼を汚さぬよう立派な落語家に育て上げるという責任感の強さからこのような非常に厳しい指導を正蔵に行っていたのであろう。

その反面、非常に付き合いを重視しており、弟子達を連れて飲みに行き、奢ることがたびたびあった。父親である正蔵が吝嗇と呼ばれ、出費を伴う付き合いを嫌ったと言われたのとは対照的であった。

晩年編集

1978年6代目三遊亭圓生が主導して引き起こした落語協会分裂騒動の際には、師匠圓蔵は三平・圓鏡も含む一門を挙げて新団体に参加する予定で、新団体旗揚げの場には圓蔵が三平を連れて来る手はずであったと言われている。当代1番人気の噺家であり落語界きってのテレビスターでもある三平を新団体へと参加させることができれば、彼こそが新団体にとって最大の切り札となるはずであった。

だが、赤坂プリンスホテルで行われた新団体の旗揚げの記者会見に現れたのは圓蔵・圓鏡だけで、三平はついに姿を現さず、新団体の参加者たちを動揺させることとなる。三平は、圓生が裏で三平とその門下たちを徹底的に敵視・軽視し、冷遇していた実態[16]を十分に把握しており、その圓生が中心人物となる新団体に移籍したところで、自身とその一門にとっては百害あって一利なしと[17]考え、自身の中では当初から「落語協会残留」に方針を定め、それは一貫して揺らぐことはなかった。

なお、三遊亭圓丈の著書『御乱心 落語協会分裂と、円生とその弟子たち』などで語られるところでは、この時、三平は弟子を集めて「私は新協会に誘われているがみんなはどう思うか」と聞いたところ、総領弟子こん平が三平の足にしがみ付き「師匠の行く所ならどこまでもご一緒します」と泣いたという。圓丈によれば、クサイ芝居で嫌われたこん平でもあれは酷かったともっぱらの評判であったというが、三平とその門下の結束の強さを示すエピソードである。なお、この本の著者である圓丈がいた圓生一門はこの一件が尾を引き、最後は圓生の急死で事実上の空中分解に近い形で消滅しており、文中の端々からはこの一件で揺らぐことのなかった三平一門の結束の固さに対する羨望も窺える。

また、興津要の『落語家』(旺文社文庫)によれば、そればかりでなく師匠圓蔵に落語協会脱退を撤回させたのも、三平の説得によるものであったという。興津はそれは相当に粘り強い努力であったろうと推測している。三平の不参加、そして三平が圓蔵を「脱落」させたこと、さらに圓蔵の「脱落」によって圓鏡もまた協会脱退を撤回したことは、圓生を中心とする新協会(落語三遊協会)にとっては相当の痛手になったと言われている。

落語の世界では芸がこれから円熟すると言われる50代半ばで肝臓癌によって早世した三平ではあるが、周囲の証言によればその最期もネタできっちり締めたという。

ベッドの上にあっても亡くなる数時間前まで、新聞や週刊誌から面白いネタや情報を仕入れようとしていたと言われる。

死ぬ間際になっても、なおその芸人根性を指し示した様子を描いた文章に以下のものがある[2]

しかし、容体が急変、三平は垂死の床にあって意識が混濁してきた。そこに、医師が呼び掛けた。

医師「しっかりして下さい。あなたのお名前は?」
三平「加山雄三です」

父・三平のこのような芸人根性を目の当たりにした長男の泰孝と次男の泰助は、その際「天才だ。かなわない」と驚愕したと語っている。また、義兄の中根は「泰一郎さん(三平の本名)はお笑い芸人に向いているだろう」とこの時思ったという。

三平一門の結束と矜持編集

三平の一門弟子たちは、三平没後久しい現在もなおその結束の固さで芸能の世界に知られている集団である。

落語の世界においては、師匠の死去を区切りとして一門が解散するのが通例となっている。だが、三平の門下たちは、林家こん平を中心人物として三平の死後も長らく「三平一門」として事実上の一派を成してきた。三平は落語家以外にも林家ペー林家パー子林家ライス・カレー子といった漫談家・漫才師も育てているが、何れも三平門下として三平の芸の系譜を受け継いでいることを大切にしており、この一門の結束の固さは落語界でも特筆すべき存在である。

これらの背景には上述の落語協会分裂騒動がある。三平が逝去した1980年秋当時の落語協会にはこの騒動の後遺症がまだ色濃く残っており、以降、騒動の経緯から三平とその一門と、三平の師匠(こん平たちから見れば大師匠)である7代圓蔵の一門などの間にはある種のわだかまりが残っていた[18]。また7代圓蔵も三平に先立つ1980年5月に死去しており、その一門は事実上の解散となっていた。そこに来て三平が50代半ばで死去したから、修行中の三平の弟子たちは同系の師匠を頼るに頼れず行き場を失った事実上の「落語界の孤児」とでも言うべき状態となり、結果として総領弟子で当時三平一門生え抜きでの唯一の真打でもあった林家こん平が一門をそのまま継ぎ、弟弟子たちはそのままこん平の弟子になった。そして、その背後には海老名家(未亡人の海老名香葉子)と義兄の中根喜三郎が依然としてバックに付き、事実上のオーナー的存在となった。既に真打となって8年を経た身であったとはいえ、この様な形で三平に代わり年若くして[19]一門を率いて否応なく独立独歩の道を歩む事になったこん平が、分裂騒動でギクシャクした落語協会の人間関係の中で如何に辛酸をなめさせられたかは、香葉子の著書『おかみさん』に描かれているとおりである。

その様な過酷な状況を一門は一丸となって乗り越えながら、三平の弟子・孫弟子から数多くの真打を誕生させた。そして、一門に名を連ねた三平の息子2人も落語家として育て上げ、ほぼ四半世紀を費やしながらついには泰孝に正蔵、泰助に三平の名跡を襲わせるまでに至った。

また、三平の「下ネタは芸を腐らせるもの」という考え方も、一門の伝統として受け継がれている。三平の没後久しい現在でも、三平門下は元より孫弟子に当たる者達まで三平系列に属する芸人の殆どが、「三平一門の不文律」として下ネタを避けている事は芸能界でも有名である。実際、このために9代正蔵(当時こぶ平)はWAHAHA本舗の旗揚げ公演時のメンバーでありながら、早々に脱退する事になった。ただし、希有な例外として、こん平が『笑点』の大喜利で時折出していた「肥溜めに落っこちた」などの肥溜めネタがある。また、三平本人も「性教育」「感じやすいの」などのような性を連想させるネタをいくつか持っている[14]。ただし前者は「こん平=田舎者の権助」という大喜利でのキャラクター要素の一つの象徴としての田舎者ネタとしての意味合いが強く、後者は性とは一切関係のない内容のオチがついているものがほとんどなため、下ネタとは方向性や意図が大きく異なるものともいえる。

ネタ編集

寄席での演目名は必ず『××月の唄』となっていた。××月のところには上演の月が入る。そして、何月だろうが関係なく、何時も同じく、小噺を羅列するだけで終わってしまうのだった。

落語は物語(ストーリー)から成り立つ、という固定観念を持つ者には、理解できないどころか耐えられないのが三平落語で、ストーリーもシチュエーションもない。三平落語ははなから物語を捨てている。

落語家は高座で「つかみ込み」をやるのは絶対的禁忌とされている。三平は他のジャンル(歌謡界(西城秀樹……)などから「つかみ込む」ことはあっても他の落語家のギャグをパクることはなかった。つかみ込みを禁ずる理由は同業者からの剽窃を防止することにあるので、三平は最低限のルールを守っていたのである。

多くの小噺・ギャグは、実は自作ではなく、以下の人たちをライターとして起用し作成したとされている。

他にも存在する可能性があるが、これらのギャグは三平のために新たに書かれたもので、その意味ではオリジナルであるといってよい。

持ちネタは『有楽町で会いましょう』『源平盛衰記』『源氏物語』などであるとされるが、『有楽町〜』はともかく、『源氏物語』もひどい(三平らしい)もので、話を全く進ませようとせず、いつものたわいのない小噺で時間を埋め尽くすのであった。よく演じた古典ネタは「湯屋番」「たらちね」のほか「浮世床」などで、ところどころに彼独自のカラーが見られるが、全編を通してきっちりと演じていた。

三平は全盛時代から「歌謡曲やコントばっかりやってないで、古典落語をやったらどう?」とからかわれるのが常であったが、死ぬまで堂々と三平流を押し通した。

『源平盛衰記』編集

源平盛衰記』は講談で知られた軍記で、父正蔵が落語に取り入れた。取り入れた、とはいえ大胆な改作で、何しろ常盤御前カフェー(現在のカフェとは意味が異なる)の女給として接待をするというもの。時代を現代(といっても昭和初期)に合わせ、昭和初期の風俗(円タク、コーヒー、カツレツなど洋食)を描き切るというものだった。これら流行の最先端にいた人は軍記とのギャップが可笑しさとなり、和服で昔ながらの生活をしていた人(当時そういう人はかなりいた)には(その人にとって)未知の未来構図を垣間見ることが出来るという、かなり秀逸なものだった。

三平は父の芸を受け継いだが、父のギャグを部分的に取り入れるも、出てきた内容はいつもと同じで小話の羅列である。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…三平も一生懸命勉強してきたんすよ、もう大変なんすから」から小話が延々と始まり、話が展開しない。それでも観客は爆笑していた。

なお義経のひよどり越えを「日傭取り越え」(費用取り越えではない・日雇取り、とは日雇い労働のことである)のギャグは父正蔵が始めたもの。また、後年の三平のアコーディオン落語と同じく、父正蔵も洋楽バンドによるバックミュージックをつけていた。もっともこれを最初にやったのは、父正蔵の弟弟子柳家金語楼の「ジャズ落語」である。

三平以外に源平盛衰記を演じたのは7代目立川談志等がおり、三平から話を教わった談志が話を大幅に作り替え、[20]全編を社会風刺として演じている。これはこれで一つのスタイルであり、現代ではこちらの方が主流になっている。

レコード編集

CM編集

一門弟子編集

※なお、初代三平の死後は、俳優業に転じていた一番弟子の珍平、元々が他の一門からの移籍でなおかつ既に真打の身であった勝二、夫婦として漫談に専念していたペー・パー子およびライス・カレー子、東京演芸協会所属のペタ子・英平を除く全ての弟子が、そのまま二番弟子林家こん平の門下に直った(クーペと大平の廃業時期は不明)。

戦争編集

三平は戦時中には陸軍に徴兵されている。この軍隊経験について本人は黙して語らなかったが、上官からは相当のいじめしごきに遭ったと伝えられている。また、夢であった医大への進学、医師への道も、戦争と終戦後の社会の混乱の影響で断念しなければならなくなった。[独自研究?]

しかし、三平と戦争ほどミスマッチな取り合わせもない。この史実を後年の高座で取り上げた落語家曰く、

  • 「あの三平さんまで兵隊にとったんですよ。(それだけひどい事態になって)どれだけ日本軍の戦況が追い詰められていたかわかるでしょう」「三平さんなんて(戦地から)太って帰ってきたって。どこの戦争に行ったんだ?」(川柳川柳「ガーコン」)。
  • 「あの人が戦争に行ったのだから日本は勝てるわけない。敵はびっくりしただろうね、『三平ですどうもすいません。ズドン(鉄砲の音)』」(3代目三遊亭圓歌)

妻・香葉子は、著書・講演・評伝などで再三強調されている通り、1945年の東京大空襲で一家のほぼ全員を失っている(香葉子の三兄にあたる中根喜三郎はただ一人空襲を生き延びている。)。以降は流転の末に落語家(3代目金馬)の家で育てられた。

林家三平を描いたドラマ・舞台等編集

出典・脚注編集

  1. ^ 林家三平さん:「肉弾特攻要員」だった…二代目取材で判明 - 毎日新聞
  2. ^ a b c d e f g h i j 『昭和55年 写真生活』p18-19(2017年、ダイアプレス)
  3. ^ 香葉子は中根喜三郎の妹であり、三平は当時釣竿職人になったばかりの中根に対して資金援助をしていた。
  4. ^ a b c d 「時代を駆ける:林家正蔵:SHOZO HAYASHIYA(3)」 『毎日新聞』 2009年10月21日、13版、9面。
  5. ^ なお、東京落語協会の8代目小三治は戦後落語家を廃業し、落語協会事務員に転向した(本名高橋栄次郎で活動)。そして9代目柳家小三治が後の5代目柳家小さんである。また、奇しくも5代目小さん襲名時も同様の諍いがあり、名跡を断念した側に代わりに与えられた名が「林家正蔵」の8代目であった。
  6. ^ この際正蔵は尊敬する三遊一朝の名を襲名することも考えていた。『正蔵一代』216頁
  7. ^ 林家照蔵→春風亭柳朝、林家勢蔵→橘家文蔵など。『正蔵一代』240頁
  8. ^ 圓蔵はこの時の三平を前座見習にもなっていない男と認識していた。
  9. ^ 東宝は既存の落語家を出演させる場であり、前座をどれだけ長く続けようとも舞台に上がれないシステムとなっていた。
  10. ^ 昭和の爆笑王と専ら呼ばれる様になったのは、没後しばらく経ってからのことである。
  11. ^ 戦後に「爆笑王」と呼ばれた存在として三平に先立つ者には3代目三遊亭歌笑がいるが、この歌笑はテレビ時代の到来を前に交通事故で夭逝している。
  12. ^ 後の9代目林家正蔵
  13. ^ 後の二代目三平。当時はまだ小学生で噺家として入門する以前である。
  14. ^ a b 「昭和の爆笑王 ご存じ 林家三平傑作集」編集 ねぎし三平堂 出版 毎日新聞社
  15. ^ ただし、スウェーデンドナルドダック党に見られるように、無効票でも集計を行う事例も存在する。
  16. ^ 落語界の古いしきたりを重んじる明治生まれの圓生と、爆笑型テレビスターで大正生まれの三平は、最初の落語観からして全く異なる完全な対極的存在であり、特に圓生は三平とその一門を嫌悪・誹謗する発言を日頃から繰り返していた。
  17. ^ 落語協会会長時代の圓生は、真打昇進の基準として自身の古典絶対主義の落語観を強力に用いたため、新作落語や爆笑落語を専門分野とする若手の真打昇進をほとんど認めなかった。この実例を鑑みれば、圓生が健在である限り、新団体では三平の弟子たちが昇進すらままならなくなることは、火を見るより明らかであった。
  18. ^ 詳細は落語協会分裂騒動の項を参照。分裂騒動に加担して落語協会内部での力を喪失した圓蔵一門の中で、三平とその一門だけが圓蔵の意に背き落語協会残留の姿勢で一貫し、騒動後も落語協会内部での存在感をそのまま維持していた事などが背景にある。
  19. ^ 落語界の30代は、真打格でもまだ若手の内として扱われることも多い。
  20. ^ 談志は、吉川英治の「新・平家物語」を読み、これまでの落語「源平盛衰記」を改作した。落語として口演するに当たり、林家正蔵の元ネタを伝承されたという形を作るべく三平に習ったと述べている。なお、談志版の源平にはサゲは無いが、三平版や10代目 桂文治が演じた源平には地口落ちのサゲがある。(バンブームック 落語CDムック立川談志1 談志「芝浜・源平盛衰記」2010年、竹書房より)
  21. ^ 一般社団法人東京演芸協会 会員紹介
  22. ^ 一般社団法人東京演芸協会 会員紹介

関連項目編集

外部リンク編集