文久2年(1862年)パリにて]]]]

文久2年(1862年)オランダにて。右から柴田剛中、福澤諭吉太田源三郎福田作太郎
Shibata Sadataro by Robillard, Paris, France, Edo period, dated 1862 AD, albumen print - Tokyo National Museum - Ueno Park, Tokyo, Japan - DSC09049

柴田 剛中(しばた たけなか、文政6年1月17日1823年2月27日)-明治10年(1877年8月24日)は、江戸時代末期(幕末)の江戸幕府旗本外国奉行文久遣欧使節。通称は貞太郎・日向守雅号は恬斎。

生涯・人物編集

江戸小石川徒目付・柴田良通の長男として生まれる[1]。10歳のときに父が急逝し、天保13年(1842年)に徒目付となる。嘉永6年(1853年)に評定所配属となり、安政元年(1854年)に留役助、翌年には留役になった。安政5年(1858年)8月に外国奉行支配組頭となり100俵を給され、神奈川開港問題の交渉にあたって、横浜開港を実現させた。その後も外国人殺傷問題や通貨問題などで欧米外交団との交渉の窓口となり、文久元年(1861年)には100俵の加増を受ける。 実弟は永持亨次郎(長崎奉行所在勤中の勘定格徒目付)甥の永持五郎次明徳は文久の遣欧使節で柴田の従者。

文久遣欧使節編集

文久2年(1862年)12月に幕府が派遣した遣欧使節(文久遣欧使節)の組頭としてヨーロッパに渡り、開港開市の延期交渉にあたった。翌年12月に帰国後直ちに外国奉行並に任じられ、翌年11月に外国奉行として箱館派遣が決定され、翌月には諸大夫に任じられた。慶応元年(1865年)閏5月に製鉄所建設及び軍制調査の正使として再度フランスイギリスに派遣された。7月にフランスに入った柴田らはフランスとの製鉄所建設と軍事教練に必要な協定を締結することに成功するが、薩摩藩との関係を強めつつあったイギリスとの交渉には成功しなかった。11月にフランスを出発し、翌年1月に帰国した。

帰国後編集

帰国直後、外国奉行並(場所高千石)に昇任し、文久3年に外国奉行として函館に赴任し、諸太夫になった[1]。慶応元年、製鉄所建設と軍事調査のため再び仏英に派遣され、同年末帰国[1]。慶応3年(1867年)5月13日には大坂町奉行、7月9日には兵庫奉行を兼務して、当時八部郡二茶屋村にあった善福寺を宿所とし、もっぱら外国人居留地問題などの外交問題を担当した。神戸港に関しては、運上所や埠頭・居留地の造成、西国往還の付け替え工事(徳川道の造成)などを進め、慶応3年12月7日(1868年1月1日)、大坂・兵庫開港市の式典を迎えている。開港当日、柴田剛中は、まず税館(運上所)を開き、英、米、仏、晋、蘭等の公使・領事等出席の下、開港式典が行われ、西洋の新年への賀と兵庫開港・大坂開市の賀を申し述べる旨の宣言書を読み上げた。

慶応4年(明治元年/1868年)の鳥羽・伏見の戦いでの幕府軍の敗北と徳川慶喜江戸城引揚に際して運上所施設の明け渡しなど対外的な事後処理を終えた後の1月17日に外国奉行以下を罷免され、隠居願を提出、同年4月に認められて所領のある上総国山辺郡富田幸谷村に退いた。その後もその見識と人物を評価されて明治政府より出仕要請が出されるが、これを辞退する。ただし、政府に請われて上京して外交問題に関する諮問に応じたという。

引退後、東京では神田淡路町に屋敷を構え、こちらで亡くなっている。 墓は台東区下谷の随徳寺にあったが、関東大震災で損壊し、現在は過去帳のみにその名前が記載されている。

柴田家は三河の忍を配下に持つ家系[要出典]で、 英国人学者クリストファー・ストームによると柴田剛中はグラバーに対抗するために隠密を暗躍させており、それらの中には廻国者集団の「柴田連中」などがあった[要出典]

家系編集

柴田周防(1582に徳川家康の伊賀越えに随従,同年、徳川に召し抱えられる。)柴田弥五右衛門(3代将軍の時代、御臺所小間遣) 柴田崎右衛門(4代将軍の時代、小間使組頭)柴田崎右衛門(8代将軍の時代、表御臺所人)  柴田甚四郎(10代将軍の時代、学問所勤番) 柴田順蔵(良通)(11代将軍の時代、御歩目付)

参考文献編集

関連項目編集

脚注編集

  1. ^ a b c 『柴田剛中欧行日載』より君塚進、京都大学、史林、1961-11-01