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栖原 角兵衛(すはら かくべえ)は江戸時代中期から明治にかけて活躍した商人の一族。「角兵衛」は代々の当主によって襲名されている。

本姓は北村であり、源義家の子孫と伝えられる。しかし一般には屋号の「栖原」のほうで知られており、10代目角兵衛のときに正式に栖原姓に改めた[1]

5代目角兵衛から蝦夷地に進出するようになり[2]北海道神宮末社・開拓神社の祭神37柱に名を連ねるに至った。

栖原屋歴代当主編集

初代
1615年元和元年)、紀伊国有田郡吉川村から栖原村に転居し、後に当地の名をとって屋号とする[1]
房総半島での漁業経営を手がけた[1]
2代目
漁業経営を続ける一方で、元禄年間には江戸の深川で薪炭・木材問屋を始める[1]
3代目
漁業から撤退し、木材を商売の中心とする。宝暦年間には陸奥国下北大畑村に支店を設け、桧山産の木材を取り扱うようになる[1]
4代目
詳細不詳[2]
5代目(茂勝)
1765年明和2年)、松前藩に渡航し小松前町に支店を開設。漁業経営を再開するとともに、蝦夷と本州の交易を手がけるようになる[2]
6代目(茂則)
場所請負人となる。1786年天明6年)にテシホテウレヤンゲシリを、翌1787年(天明7年)にはトママイルルモッペを請け負った[2]
7代目(信義)
1806年文化3年)、石狩13場所のうち5場所を請け負うが、1815年(文化12年)に返上する。代わって同年には根室場所を請け負っているが、これも2年後に返上した[3]
一方、1809年(文化6年)に伊達林右衛門と共同で請け負った北蝦夷地(樺太)は、その後も長く1875年明治8年)まで経営を続けることになる[3]
8代目(茂信)
1841年天保12年)、伊達林右衛門とともに択捉島の漁場経営を請け負う[4]
9代目(茂寿)
1855年安政2年)、松前藩の沖ノ口収納取扱方に就任する[4]
10代目(寧幹)
1860年万延元年)、天塩・天売・焼尻・苫前・留萌が庄内藩領となって以降も、引き続き経営を任せられる[4]
1881年(明治14年)、北村から栖原に改姓する[1]

脚注編集

  1. ^ a b c d e f 伊藤 2008, p. 71.
  2. ^ a b c d 伊藤 2008, p. 72.
  3. ^ a b 伊藤 2008, p. 73.
  4. ^ a b c 伊藤 2008, p. 77.

参考文献編集

  • 伊藤孝博 『北海道「海」の人国記』 無明舎出版、2008年7月30日。ISBN 978-4-89544-478-1
  • 近世期~明治初期、北海道・樺太・千島の海で操業した紀州漁民・商人 田島 佳也