中標津空港
中標津空港(なかしべつくうこう、英: Nakashibetsu Airport)は、北海道標津郡中標津町にある地方管理空港である。設置管理者は北海道が担当している。
中標津空港 Nakashibetsu Airport | |||||||||
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IATA: SHB - ICAO: RJCN | |||||||||
概要 | |||||||||
国・地域 |
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所在地 | 北海道標津郡中標津町 | ||||||||
種類 | 商業 | ||||||||
運営者 | 北海道 | ||||||||
運用時間 | 8:30 - 18:30 | ||||||||
標高 | 65.2 m (213.9 ft) | ||||||||
座標 | 北緯43度34分39秒 東経144度57分36秒 / 北緯43.57750度 東経144.96000度座標: 北緯43度34分39秒 東経144度57分36秒 / 北緯43.57750度 東経144.96000度 | ||||||||
公式サイト | 根室中標津空港 | ||||||||
地図 | |||||||||
中標津空港の位置 | |||||||||
滑走路 | |||||||||
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リスト | |||||||||
空港の一覧 |
種類 | 株式会社 |
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市場情報 | 非上場 |
本社所在地 |
![]() 〒086-1145 北海道標津郡中標津町北中16番地9 |
代表者 | 代表取締役社長 西村 穣 |
資本金 | 4億9800万円 |
純利益 | 4129万9000円(2019年03月31日時点)[1] |
総資産 | 10億0600万3000円(2019年03月31日時点)[1] |
決算期 | 3月末日 |
定期路線を就航している全日空グループでは根室中標津空港(ねむろなかしべつくうこう、英: Nemuro-Nakashibetsu Airport)の名称を使用し、空港ビル運営会社名も根室中標津空港ビル株式会社である。
概要編集
中標津空港は北海道[2]かつ日本最東端の空港[3]で、中標津町市街から北西約4 km(バスで約10分)の平坦な牧草地に位置する。JR北海道標津線廃止後の交通空白を埋める空港として、根室管内の玄関口としての役割を担ってきた。
ただし空港建設の経緯が他の道内空港と異なり、周辺は酪農地帯に立地する。根室振興局が置かれる根室市中心部へは80 km以上離れている。当空港から100 km圏内で摩周湖や知床など自然景観に恵まれた観光地が多数あり、観光需要を支えている。札幌市や東京への時間距離が長いこの地域において、高速交通手段として航空の果たす役割は非常に大きい。
年間乗降客数は、2007年頃までは20万人台前半で推移していたが[4][出典無効]、新型インフルエンザや世界金融危機などによる旅行客の減少により、2008年以降は18万人前後となっている。2013年度は、国内192,852人[5]。
空港の周囲が大酪農地帯で、石垣空港と並び日本を代表する「香り立つ」空港の1つとなっている。過去に日本テレビのドラマ『星の金貨』や、映画「釣りバカ日誌20ファイナル」[6]のロケ地にもなった。
歴史編集
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。1978年撮影の4枚を合成作成。
- 1944年(昭和19年) - 【開基】旧日本海軍の標津第一航空基地(中標津飛行場)として開港。
- 1945年(昭和20年) - 米軍の空襲を受ける。戦後、閉港となり、農地として払い下げられ、放置される。
- 1957年(昭和32年) - 北日本航空(後の日本国内航空→日本航空)が、放置された飛行場跡を利用して、根室一円の遊覧飛行を行う。
- 1959年(昭和34年) - 北日本航空が、遊覧飛行事業を開始。中標津 - 札幌線開設、ダグラス DC-3型機が1962年(昭和37年)まで運航する。
- 1962年(昭和37年) - 【指定】飛行場跡が滑走路長1,200 m×30 mの第3種空港に指定され、再開港となる。
- 1965年(昭和40年) - 【開港】西春別空港から丘珠便の定期航空路線が移り、供用開始(西春別よりも中標津のほうが、当時存在した国鉄標津線を利用した根室市方面への移動が便利だったため)。
- 1973年(昭和48年) - 8月1日、設置管理者の指定変更。中標津町から北海道に移管される。
- 1974年(昭和49年) - 日本近距離航空(NKA 後のエアーニッポン→全日本空輸)により丘珠便運航開始(DHC-6)。
- 1980年(昭和55年) - NKA 千歳便運航開始(YS-11)。
- 1983年(昭和58年)3月11日、NKA497便(札幌丘珠発中標津行)YS-11型が着陸に失敗、中標津空港付近の林に墜落する事故が発生。幸い機体が炎上しなかったため、乗客53人に死者はでなかった。
- 1989年(平成元年) - 新滑走路供用(1,200 m)。現空港ビルが「国内初の木造空港ビル」としてオープン。
- 1990年(平成2年) - 1,800 m×45 mの滑走路を供用開始と共にジェット化。エアーニッポンによる東京便の就航開始。初のソウルへの国際チャーター便が運航される。
- 1993年(平成5年) - 中型機対応ターニングパッド供用開始。この年以降、夏季期間限定で東京便にボーイング767が就航し現在に至る。
- 1997年(平成9年) - 2,000 mの滑走路を供用開始。
- 2003年(平成15年) - 丘珠・千歳線の運航がエアーニッポンネットワークに移管され、YS-11・B737に代わりDHC-8-Q300が就航する。
- 2008年(平成20年) - 空港ビルが増築・リニューアル(床面積が約1.6倍になる)。
- 2010年(平成22年)- 3月14日 利用者400万人達成(1989年の新ターミナル利用開始後より数えた利用者数)。
- 2010年(平成22年)- 6月30日をもって丘珠便が廃止され、札幌方面は7月1日より新千歳空港線へ一本化された。使用機材もDHC-8-Q300からDHC-8-Q400へと大型化された。
- 2013年(平成25年)- 3月31日をもって現地の有人による飛行場対空通信業務終了。新千歳インフォメーションによるリモート監視に変更(レディオからリモートへ格下げ)。
- 2016年(平成28年) - 3月31日、東京航空局中標津空港出張所閉所。
- 2017年(平成29年) - 9月23日、北方四島交流事業の出発地となり、ロシアのオーロラのDHC-8-Q400によるチャーター便が運航された。当初、日本政府は1泊2日での日程を主張したがロシア政府側の同意が得られず、[要出典]日程は日帰りで計画され、中標津空港から出発した一行は、国後島で墓参団は入域手続きをし、国後島の墓参者を降ろし[7]、択捉島で択捉島の墓参者を輸送し折返し、択捉島から国後島へ向かったが、国後島は霧により着陸できず、帰国時の手続きも国後島で行う予定だったため、ユジノサハリンスクへ向かい択捉島墓参者はユジノサハリンスク、国後島墓参者は国後島の友好の家でそれぞれ宿泊し、翌日ユジノサハリンスクから国後島経由で帰国となった[8]。
施設編集
空港ターミナルは根室中標津空港ビル株式会社が運営している。地上3階建て。日本の空港ビル唯一の集成材を利用した木造建築(一部鉄筋コンクリート造を併用)である。
- 1階 - ANAカウンター、到着ロビー、レンタカー受付カウンター
- 2階 - 出発ロビー、搭乗待合室、レストラン・売店
- 3階 - 送迎デッキ
- 駐車場 - 383台
出発するボーイング767
関連機関編集
廃止された関連機関編集
路線編集
空港への交通手段編集
レンタカー編集
到着ロビーに営業所までの送迎受付カウンターが設置されている。店舗名は「中標津空港」または「中標津」。なお、トヨタレンタリースを除き根室振興局管内に他の営業所がない。
その他編集
中標津VORDME/ILSは、整備されているものの、2016年3月31日までは中標津空港航空管制技術官、4月1日以降の保守官所は新千歳空港システム運用管理センターへ変更。
脚注編集
- ^ a b 根室中標津空港ビル株式会社 第32期決算公告
- ^ 北方領土を含むと、択捉島のイトゥルップ空港が東にある。
- ^ 最東端は南鳥島航空基地であるが、民間機は利用していない。
- ^ “管内空港の利用状況概況集計表(平成25年度速報値)” (PDF) (プレスリリース), 国土交通省東京航空局
- ^ “管内空港の利用状況概況集計表(平成25年度速報値)” (PDF) (プレスリリース), 国土交通省東京航空局
- ^ 釣りバカ日誌20ファイナル
- ^ 初の空路墓参 国後、択捉両島に到着 4カ所で慰霊式
- ^ 初の空路墓参、霧で戻れず ユジノに着陸、現地に宿泊
- ^ 新千歳線はANAウイングスの機材・乗務員にて運航
関連項目編集
- 北海道の関与団体の一覧 - 根室中標津空港ビル株式会社は北海道の「関与団体」として指定されている。