根津神社(ねづじんじゃ)は、東京都文京区根津にある神社旧社格府社で、元准勅祭社(東京十社)

根津神社
Nezu Shrine 2010.jpg
拝殿(重要文化財)
所在地 日本の旗 日本
東京都文京区根津一丁目28番9号
位置 北緯35度43分12.77秒
東経139度45分38.50秒
主祭神 須佐之男命
大山咋命
誉田別命
社格府社
准勅祭社
創建 不詳
本殿の様式 権現造
札所等 東京十社
例祭 9月21日
テンプレートを表示
表参道鳥居

古くは「根津権現」とも称された[1]

目次

概要編集

日本武尊が1900年近く前に創祀したと伝える古社で、東京十社の一社に数えられている。境内はツツジの名所として知られ、森鴎外夏目漱石といった日本を代表する文豪が近辺に住居を構えていたこともあり、これらの文豪に因んだ旧跡も残されている。

現在の社殿は宝永3年(1706年)の創建である。宝永2年(1705年)江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の養嗣子に家宣(第6代将軍)が入ったため、元の屋敷地が献納され、「天下普請」と言われる大工事で社殿が造営されたものである[2]権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作とされている[2]。社殿7棟が国の重要文化財に指定されている[2]

祭神編集

主祭神
相殿

歴史編集

1900年ほど前に日本武尊が千駄木に創祀したとされる。文明年間(1469年-1486年)には太田道灌により社殿が造られた。

万治年間(1658年-1661年)に同所が太田氏の屋敷地となったため東方に移り、のちさらに団子坂上(現文京区立本郷図書館周辺、元根津)に遷座した[3]

宝永2年(1705年)江戸幕府第5代将軍徳川綱吉が兄綱重の子・綱豊甲府藩主。のちの第6代将軍・家宣)を養嗣子に定めた。綱豊が江戸城に移ると、当社が家宣の産土神とされていたことから、綱豊の屋敷地(旧甲府藩邸、現在地)を当社に献納して普請を開始した[3]。社殿は宝永3年(1706年)に完成し、同年遷座した。

根津権現」の称は明治初期の神仏分離の際に「権現」の称が一時期禁止されたために衰退したが、地元では現在も使われる場合がある。単に「権現様」とも称される[4]。文学作品では「根津権現」として出てくることが多い。

東京大学の移転にともない、門前に形成されていた根津遊郭は廃され、江東区の州崎遊郭へと移転した。

境内編集

社殿編集

社殿は江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉による造営で、本殿・幣殿・拝殿が1つにまとめられた権現造の形式である。

その他編集

境内には「徳川家宣胞衣塚」として、第6代将軍・家宣の胞衣(胎児を包んだ膜と胎盤)を埋めた塚がある。当地が甲府藩邸であった時に家宣が生まれたことに由来する。

また、塞大神碑として、本郷追分(東大農学部前の中山道日光御成街道分岐路)に祀られていた道祖神が立っている。境内のつつじは、徳川綱重が屋敷の庭に植えたことに始まる。そのほか、境内には6代家宣公の産湯井戸(非公開)や庚申塔などがある。

摂末社編集

祭事編集

 
つつじまつりの様子
 
大祓

文化財編集

重要文化財(国指定)編集

建造物
  • 根津神社 7棟
    • 本殿・幣殿・拝殿(1棟)
    • 唐門
    • 西門
    • 透塀(3棟)
    • 楼門
    • (附として)銅灯籠2基
工芸品
  • 太刀 銘長光
  • 太刀 銘備州長船秀光 康暦二年二月 日

文京区指定文化財編集

  • 神楽面 16面(彫刻) - 平成6年指定
  • 神輿 3基(附 獅子2頭)(工芸) - 昭和55年指定
  • 徳川氏朱印状 8通(古文書) - 昭和49年指定
  • 徳川家宣胞衣塚(有形民俗) - 昭和49年指定

氏子地域編集

文京区根津
文京区千駄木一~二丁目全域、三丁目37~51
文京区本駒込一丁目2~4・9~25、二丁目1~9・13~17(このうち旧駒込曙町の部分)、三丁目1~9(このうち旧駒込浅嘉町の部分)
文京区向丘
文京区弥生
文京区本郷五丁目30~32(このうち旧本郷森川町の部分)、六丁目全域
文京区西片二丁目23~25
台東区池之端一丁目2~6・二丁目全域

登場作品編集

小泉純一は芝日蔭町の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留場から上野行の電車に乗った。目まぐろしい須田町の乗換も無事に済んだ。さて本郷三丁目で電車を降りて、追分(おいわけ)から高等学校に附いて右に曲がって、根津権現の表坂上にある袖浦館という下宿屋の前に到着したのは、十月二十何日かの午前八時であった。
団子坂上から南して根津権現の裏門に出る岨道に似た小径がある。これを藪下の道と云う。
従来神田明神とか、根津権現とかいったものは、神田神社、根津神社というようになり、三社権現も浅草神社と改称して、神仏何方(どっち)かに方附けなければならないことになったのである。
かれは強情にかんがえた末に、同町内の和泉という建具屋の若い職人を誘い出すことにした。職人は茂八といって、ことしの夏は根津神社の境内まで素人相撲をとりに行った男である。かれは喜平の相談をうけて、一も二もなく承知した。
その人は根津権現の裏門の坂を上って、彼と反対に北へ向いて歩いて来たものと見えて、健三が行手を何気なく眺めた時、十間位先から既に彼の視線に入ったのである。そうして思わず彼の眼をわきへ外させたのである。
こうした無事の日が五日続いた後、六日目の朝になって帽子を被らない男は突然また根津権現の坂の蔭から現われて健三を脅やかした。それがこの前とほぼ同じ場所で、時間も殆どこの前と違わなかった。
句会は大抵根津権現さんの境内に小さい池に沿うて一寸した貸席がありましたので、其処で開きました。
  • 岡本綺堂『深見夫人の死』 - 下記引用以外にも多数の記述あり
その住宅は本郷の根津権現に近いところに在って、門を掩(おお)うている桜の大樹が昔ながらに白く咲き乱れているのも嬉しかった。
わたしはその賑わいを後ろにして池(いけ)の端(はた)から根津の方角へ急いだ。その頃はまだ動坂(どうざか)行きの電車が開通していなかったので、根津の通りも暗い寂しい町であった。
根津権現の境内のある 旗亭 で大学生が数人会していた。 夜がふけて、あたりが静かになったころに、どこかでふくろうの鳴くのが聞こえた。 「ふくろうが鳴くね」 と一人が言った。
  • 佐々木味津三『旗本退屈男(第三話)後の旗本退屈男』
しかも、その六本の白刄を、笑止千万にも必死に擬していたものは、ほんの小半時前、根津権現裏のあの浪宅から、いずれともなく逐電した筈の市毛甚之丞以下おろかしき浪人共でしたから、門を堅く閉じ締めていた理由も、うしろに十数本の槍先を擬しているものの待ち伏せていた理由も、彼等六人の急を知らせたためからであったかと知った退屈男は、急にカンラカンラ打ち笑い出すと、門の外に佇んだままでいる京弥に大きく呼びかけました。
森鴎外が住んでいた家は、団子坂をのぼってすぐのところにあった。坂をのぼり切ると一本はそのまま真直に肴町へ、右は林町へ折れ、左の一本は細くくねって昔太田ケ原と呼ばれた崖沿いに根津権現に出る。
  • 林不忘『丹下左膳(乾雲坤竜の巻)』
江戸は根津権現の裏、俗に曙の里といわれるところに、神変夢想流の町道場を開いている小野塚鉄斎(おのづかてっさい)、いま奥の書院に端坐して、抜き放った一刀の刀身にあかず見入っている。
  • 三遊亭圓朝(鈴木行三校訂・編纂)『敵討札所の霊験』
ちょうど根津権現へ参詣して、惣門内を抜けて参りましたが、只今でも全盛でございますが、昔から彼の廓は度々たびたび潰れましては又再願をして又立ったと申しますが、其の頃贅沢な女郎がございまして
その次は井の頭で、これはどちらかと云えば高級なのが多いらしい。但、夜は高級か低級か保証の限りでない。根津権現はその又次という順序である。その他大小の公園、神社、仏閣、活動館、芝居小屋、カフェー、飲食店なぞが、色魔式の活躍場所である事は云う迄もない。
肴町から電車通を横断して、左手に大観音(同じ宗派のその寺には、よく父親の命令でお使いに行った)を見て、根津権現の坂道にかかる。下宿屋の多い急な坂道を下りきって、上野山へと裏側から上って行く。そのあたりには、画学生の匂いがあり、やがて、美術学校や、美術館、博物館の建つ、上野山の西洋風のひろがりの中へ入る。

現地情報編集

所在地
  • 東京都文京区根津一丁目28番9号
交通アクセス
周辺
  • 日本医科大学
  • 団子坂上 - 現在の文京区立本郷図書館や東洋大学のある辺りが当社の旧鎮座地で、「元根津」とも呼ばれる。

脚注編集

  1. ^ 江戸時代は山王神道の権現社であった。
  2. ^ a b c 根津神社 - 境内・ご由緒
  3. ^ a b 『東京都の地名』根津神社項。
  4. ^ ただし、現在では山王権現は祭神とはされず、大山咋命が祀られている。
  5. ^ 細木香以青空文庫

参考文献編集

  • 『日本歴史地名大系 東京都の地名』(平凡社)文京区 根津神社項

外部リンク編集