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桂 小文吾(かつら こぶんご)は、上方落語名跡。当代は6代目。

なお、4代目(高田卯之助)と5代目(坂田種造)の間に小文吾になった人物がいる。当代が7代目と呼ばれることがあるのは、この小文吾を代々に勘定しているためと思われる。

目次

初代編集

初代 桂小文吾生没年不詳)は、本名、享年とも不詳。

3代目桂文吾の実子で、その門下。活躍時期は明治中期。

2代目編集

2代目 桂小文吾1859年 - 1891年5月7日)は、後の2代目桂文三。本名不詳。享年32。

3代目編集

3代目 桂小文吾1864年 - 1915年9月17日)は、後の4代目桂文吾。本名: 鈴永幸次郎(鈴木孝次郎、幸吉など諸説あり)。享年51。

4代目編集

4代目 桂小文吾1886年 - 1921年10月10日)は、後の4代目桂文三。本名: 高田卯之助。享年35。

代外編集

桂小文吾(生没年不詳)は、本名、享年とも不詳。

初め2代目桂梅枝の門下で桂梅之助。次に初代桂扇枝(後の3代目桂文三)門下で扇之助を経て、小文吾となる。

5代目編集

5代目 桂小文吾かつら こぶんご
本名 坂田種造
生年月日 1872年
没年月日 1914年10月
出身地   日本・大阪
師匠 3代目桂文三
名跡 5代目桂小文吾
活動期間 明治20年代 - 1914年?
所属 桂派
大正派

5代目 桂小文吾1872年 - 1914年10月)は、本名: 坂田種造。享年不詳。

元は大阪北堀江の貸座敷「播卯樓」の主人。鼻が高かったため「天狗」とあだ名された。何不自由ない結構な身分だったが、芸事に熱中し、明治20年代に錦影絵師の4代目富士川都正の門下で富士川都若を名乗る。独学で稽古を積み、奇術師の初代歸天齋正一が経営する余興屋に出入りしたり、1902年に桂家都若の名で半玄人として端席や余興屋で活動した後、1903年12月に3代目桂文三の門下で5代目小文吾を名乗った。

後に初代桂枝雀大正派を結成してからは幹部となり、得意の絶頂であったが、最後に脳を病み、治療の甲斐なくそのまま引退した。

1910年に『食道楽』『絵葉書屋・鰻屋』の2枚のSPレコードを出している。

6代目編集

6代目 桂小文吾かつら こぶんご
 
1955年正月、「宝塚若手落語会」
後列左から4人目が小文吾[1]
本名 寺田成行
生年月日 (1940-07-24) 1940年7月24日(79歳)
出身地   日本・京都
師匠 2代目文の家かしく(後の3代目笑福亭福松
5代目桂文吾
活動期間 1952年 - 1956年、1995年 -
所属 宝塚新芸座
フリー

6代目 桂小文吾1940年7月24日 - )は、本名: 寺田成行。 京都市生まれ。子供の時にラジオから流れてくる落語に興味を持ち、落語の創作も行っていた。12歳の時、2代目文の家かしく(後の3代目笑福亭福松)に入門するが、父の反対により挫折。14歳の時、5代目桂文吾に再入門。少年落語家として宝塚落語会三越落語会、京都の小屋などの高座に上がっていたが、1956年、21歳の時、宝塚新芸座に役者として参加。1965年鳥取県米子市にある皆生温泉ヘルスランドに就職し、定年まで勤務。

定年後、1995年より桂米朝の励ましを受けて再び落語家に正式に復帰した。戦後間もなくの京都落語界で修業を積んだこともあり、現在の上方ではあまり高座に掛からない貴重なネタを多く引き継いでいる。現在は地元のテレビ局への出演、落語会の開催、米子市児童文化センターにて子供向け落語教室の開講、NPO法人ひまわり倶楽部の理事など、さまざまな活動をしている。

2009年9月29日、「枝三郎百席 ~幻の噺家小文吾を迎えて~」において天満天神繁昌亭に初めて登場、「二日酔い」を披露し、若々しい高座姿を見せた。

主な創作落語に、地元の昔話を取り入れた『日野川の河童取り』などがある。

入門の経緯などは、瀧口雅仁の著書『噺家根問』(ISBN 978-4779112973)に詳しく書かれている。

出典編集

  • 『落語系圖』(月亭春松編)
  • 『古今東西落語家事典』(平凡社、1989年) - 4代目の本名を坂田種造としているのは誤り。
  • 『ご存じ古今東西噺家紳士録』(CD-ROM、APP、2005年)
  • 瀧口雅仁『噺家根問』(彩流社、2007年)

脚注編集

  1. ^ 前列左より桂春坊(二代目露の五郎兵衛)笑福亭松之助、橘家円二郎、四代目桂文枝三代目桂米朝笑福亭小つる(和多田勝)三代目桂米之助。後列左より見浪よし(五代目笑福亭松鶴夫人)、桂あやめ(五代目桂文枝)旭堂小南陵(三代目旭堂南陵)、六代目桂小文吾、桂麦團治、奥野しげる(宝塚若手落語会世話人)。(桂米朝『桂米朝 私の履歴書』日経ビジネス人文庫、2007年、p.93)