桂文紅 (4代目)

4代目 桂 文紅(4だいめ かつら ぶんこう、1932年4月19日 - 2005年3月9日)は、大阪落語家出囃子は『お兼晒し』。大阪府生まれ。寝屋川高等学校立命館大学文学部出身。本名:奥村 壽賀男(おくむら すがお)。72歳没。上方落語の世界初の大学卒業の噺家[1]

4代目 桂文紅かつら ぶんこう
本名 奥村 壽賀男
別名 青井竿竹
生年月日 1932年4月19日
没年月日 (2005-03-09) 2005年3月9日(72歳没)
出身地 日本の旗 日本大阪
師匠 4代目桂文團治
名跡 桂文光(1955年 - 1959年)
4代目桂文紅(1959年 - 2005年)
出囃子 お兼晒し
活動期間 1955年 - 2005年
活動内容 上方落語
新作落語
備考
上方落語協会会員(1957年 - 2005年)

目次

芸歴編集

寝屋川高等学校高校卒業後、立命館大学に通いながら電線会社でアルバイトしていたその時に組合の文化祭で落語を演じ、後に素人コンクールで2位なった[1]

1955年3月、4代目桂文團治に入門。桂文光を名乗り、同年8月に大阪松島福吉館で初舞台。

1959年2月、4代目桂文紅を襲名。1970年から1975年にかけて、3代目桂文我と「文文の会」を開いた。

「上方落語四天王」(6代目笑福亭松鶴5代目桂文枝3代目桂米朝3代目桂春団治)に次ぐ世代として、戦後の上方落語復興期をともに良く支えた。

人物編集

弟子を取らず孤高の存在であったが、渋い味のある芸風で、ファンも多かった。色黒で背が高く、自称「エチオピアの煙突掃除」。師匠の文團治のあだ名が「ゴジラ」だったので、入門当時はゴジラ映画の敵役の怪獣の名から「アンギラス」とも呼ばれていた。

得意ネタは『鬼薊清吉』『島巡り』『胴取り』『初天神』『米揚げ笊』『ふたなり』『植木屋娘』など。また、文才があり、「青井竿竹」のペンネームで、テレビ、ラジオの構成、脚本の執筆や上方落語の研究を行い、『ぜんざい公社』『テレビ葬式』などの改作・新作も物にした。余芸で紙切りが得意だった。他にも顔のしわにタバコを何本もはさむ珍芸があった。

晩年は上方落語協会の理事を務め、特に笑福亭鶴瓶笑福亭瓶太笑福亭三喬(現:7代目松喬)笑福亭喬若らとは、稽古を付けたり、共に落語会を開くなど、公私に渡り交遊があった。

駆け出しの頃の2代目桂ざこばは、文紅の東住吉時代から数度の転居につきあって居候を続け、「社長」と呼んで慕っていた。

また、ざこばの師匠、3代目米朝にとっては系図上唯一の従兄弟弟子にあたる(3代目春団治・5代目文枝・東京の4代目桂米丸10代目文治一門はそれより以前に枝分かれした系統である)ことや、米朝の師・4代目米團治早世後、米朝が文紅の師・4代目文團治にも多く落語を教わっていたこともあり、米朝一門全体との交流も深かった。ただし、米朝事務所所属ではなかった(存命中はよく勘違いされた)。

全くの下戸で、酒が飲めなかった。一度、腹に据えかねることがあって、そのときはざこばにバナナの束を買ってこさせ、「自棄酒」ならぬ「自棄バナナ」をあおった。その数時間後に腹痛を起こして病院に担ぎ込まれ、診断の結果は腸捻転だった。この「文紅の腸捻転」といえば有名な語り草である。

師・文團治逝去の時点で、存命かつ現役落語家である唯一の弟子であった。文團治の襲名を周囲から勧められたが、「まだ尚早」として拒み、40年に渡ってその名を封印し続けた。

2005年3月9日肝硬変のため、死去。これによって4代目文團治の直系は断絶した。

現在「紅寄席」と題して定期的に天満天神繁昌亭などで追善の落語会が開催されている。

著書編集

脚注編集

  1. ^ a b 桂 文紅”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンク. 2015年1月2日閲覧。

出典編集

  • 『古今東西落語家事典』(平凡社、1989年)
  • 『上方落語家名鑑』(やまだりよこ著、出版文化社、2006年)

関連項目編集