桂米團治 (3代目)

日本の落語家 (1869-1943)

三代目 桂 米團治(さんだいめ かつら よねだんじ、1869年 - 1943年11月18日)は上方噺家。本名:早田 福松。

三代目 かつら 米團治よねだんじ
三代目 桂(かつら) 米團治(よねだんじ)
ラジオ放送に臨む(1933年10月ごろ)
本名 早田 福松
生年月日 1869年
没年月日 1943年11月18日
出身地 日本の旗 日本大阪府大阪市北区堂島
死没地 日本の旗 日本奈良県
師匠 三代目桂文團治
弟子 四代目桂米團治
名跡 1.初代桂米歌子
(? - 1894年)
2.初代桂米之助
(1894年 - 1896年)
3.二代目桂米朝
(1896年 - 1910年)
4.三代目桂米團治
(1910年 - 1943年)
活動期間 ? - 1943年
活動内容 上方落語
所属 三友派
吉本
主な作品
『手切れ丁稚』

経歴 編集

大阪堂島生まれ。三代目桂文團治門下で、初代米歌子1894年初代米之助1896年1月に二代目米朝を経て、1910年3月、三代目米團治を襲名。当時「三代目」と言えば師匠の三代目桂文團治であったので、三代目米團治は「シンサン(新3)」と呼ばれ、これがあだ名となった。

昭和に入ると一時吉本興業を離れ、お座敷で贔屓の客相手の落語や時々ラジオに出演するのみだった。奈良で隠居生活し、同地で1943年に死去した。

人物 編集

米相場のあった堂島生まれで、入門時からずっと「米」の付く名前を名乗ってきたため、堂島の旦那衆の贔屓を受け、二代目米朝時代から中堅として活躍した。師匠の三代目桂文團治に可愛がられ、嫌味や小言の言い方までそっくりであったため、師匠が「大毛虫」、米團治が「小毛虫」と呼ばれた。口の悪さや気障な態度は若い時からのようで、1907年7月の落語相撲見立番付には「いやみ灘米朝」の名で出ている。

後輩の指導にも熱心で、晩年は五代目笑福亭松鶴が主催する「楽語荘」同人の長老格であった。

演目 編集

上方落語の絶頂期に修行を積んだだけあって、舞踊音曲も巧みで、人情噺芝居噺怪談噺・旅ネタまであらゆる噺に通じており、いずれも名人の域であったという。

十八番は『手切れ丁稚』。その他にも『逆さま蚊帳』『深山がくれ』『大黒頭巾』など。特に『古手買い』は絶品で、弟子の四代目桂米團治でさえ、生涯の間に遂に手掛けることができない程であった。SPレコードは『一枚起請』『大安売』『ぬの字鼠』『月並丁稚』等を1925年から1926年頃に吹き込んでいる。

芸歴 編集

弟子 編集

破門 編集

出典 編集

  • 『落語系圖』(月亭春松編)
  • 『古今東西落語家事典』(平凡社、1989年)
  • 『上方落語ノート』シリーズ(桂米朝著、青蛙房) - 全4巻に3代目米團治のエピソードが多数掲載されている。また、3集の冒頭に1907年7月の落語相撲見立番付が掲載されている。
  • 『古今東西噺家紳士録』