桐ノ花 光之助(きりのはな みつのすけ、明治30年(1897年1月2日 - 平成5年(1993年8月24日[1])は、大正時代の大相撲力士春日山部屋立浪部屋所属。本名は冨永 惣治。最高位は西十両2枚目。

経歴 編集

千葉県天羽郡湊町(現・富津市)出身[2]高等小学校卒業後、14歳の時家出同然で上京[3]。畳屋で働いた後、春日山部屋へ入門し、緑嶌友之助の内弟子となる[3]。明治45年(1912年)5月場所「湊浪」の四股名で初土俵を踏む[4]。大正3年(1914年)1月、序ノ口に上がり、初めて番付に載った[4]。翌大正4年(1915年)5月に師匠緑嶌が引退し、立浪部屋として正式に独立したのに伴い移籍した。大正7年(1918年)1月、三段目で「桐ノ花」に改名[5]。大正9年(1920年)1月新十両。立浪部屋初の関取となった。十両に3場所連続いた後、大正10年(1921年)5月幕下に落ち、大正11年(1922年)5月東十両6枚目で復帰した。翌大正12年(1923年)1月には最高位となる西十両2枚目まで進んだ。この場所前に三河島事件が起こり、桐ノ花は十両力士代表として団体交渉に当たった。同年9月1日関東大震災により両国国技館が焼損、開催が不可能となった。そのため、協会は翌大正13年(1924年)1月場所を名古屋で開催すると発表。これに対して桐ノ花は猛反対、同場所を欠場し、帰京、東十両3枚目に名前を残したまま入幕目前で廃業。事実上の破門となった[6]

廃業後は東京で酒屋を開き、その後は郷里の上総湊で余生を過ごし、平成5年(1993年)に96歳で死去した。96歳235日は元力士の最長寿記録である。

妹は出羽海部屋の女中頭で、出羽ヶ嶽文治郎の妻であった。

改名 編集

湊浪→桐ノ花

脚注 編集

  1. ^ 三宅充 「大相撲なんでも七傑事典」220頁(講談社+α文庫)
  2. ^ 『VANVAN相撲界』1988年11月号 79頁
  3. ^ a b 『VANVAN相撲界』1988年11月号 80頁
  4. ^ a b 『VANVAN相撲界』1988年11月号 81頁
  5. ^ 『VANVAN相撲界』1988年11月号 83頁
  6. ^ 『VANVAN相撲界』1988年11月号 85頁

参考文献 編集

  • 『VANVAN相撲界』1988年11月号 石井代蔵『豪傑伝』

関連項目 編集