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桐生高等工業学校
(桐生高工)
創立 1915年
所在地 桐生市
初代校長 大竹多氣
廃止 1951年
後身校 群馬大学
同窓会 群馬大学工業会
群馬大学工学部同窓記念会館(旧桐生高等工業学校本館・講堂の一部)。新山平四郎設計。1915年竣工。1972年現在地に移設

桐生高等工業学校(きりゅうこうとうこうぎょうがっこう)は、1915年大正4年)創立の桐生高等染織学校が改称した旧制専門学校(実業専門学校)。略称は「桐生高工」。英語名称は「Kiryu Technical College」。

概要編集

沿革編集

明治政府生糸から付加価値を高めた織物生産へ転換するために全国6都市(桐生足利米沢京都福井富山)に模範撚糸工場を設置した。模範工場設置に伴い教育機関が必要となったため、本校や京都高工米沢高工福井高工に繊維系学科が設置された。設立には渋沢栄一から当時の首相へ進言もあったという[3]。設立当時の桐生市は繊維業の最盛期で国内GDPの1/4-1/3を占めたといわれ、初代校長大竹多氣は入学式において「當地には隨分青年を墮落せしむべき誘惑物が少なからぬやう認めらるゝ」と注意を促したほどに賑わっていた[2]

二代目校長である西田博太郎は、異例といえる27年間という長きにわたり奉職し学生と寝食を共にした。このため、官立校でありながら「西田塾」の異名で知られ[4]、学生に対し英国流の紳士の素養を求めた[5]。また、技術者は管理・経営的な感覚を持つ べきであるとして、専門とする染色化学関係の他に、工場管理学や工場経営法など経営工学に関する講義も行った[6]

第二次世界大戦中の1944年、本校は「桐生工業専門学校」と改称された。理科系である高工生は学徒出陣に際して徴兵が猶予されていたが、中島飛行機のお膝元であるためか同窓の戦没者は429名を数えた[7]。またこの時期には、横須賀から疎開してきた海軍航空技術廠材料部が本校の施設を使用している[8]

戦後の学制改革による新制大学への移行にともない、本校は1949年群馬師範学校群馬青年師範学校(旧制)前橋医科大学前橋医学専門学校とともに新制群馬大学に包括されて同大学の工学部の母体となり、1951年に廃止された。

前史編集

 
桐生織物学校跡の碑(桐生市仲町一丁目、桐生市青年の家敷地内)
  • 1896年1月:徒弟学校規程による町立桐生織物学校設立認可(4月開校)。
  • 1899年2月:町立桐生織物学校、実業学校となる(修業年限3年)。
  • 1900年4月:町立桐生織物学校を群馬県桐生織物学校に改称。
  • 1905年4月:県立伊勢崎染織学校を合併し群馬県立織物学校となる。
  • 1907年:群馬県立織物学校、4年制(予科1年・本科3年)となる。
  • 1909年12月:群馬県、県立織物学校の廃止を決定。
    • 県立工業学校を伊勢崎に統合し、高等工業学校誘致に注力のため。
  • 1911年2月:第27回帝国議会、群馬県への高等染織学校設置建議を可決。
    • 群馬県、現金35万円及び土地15000を国に寄附。
  • 1912年:県立織物学校在校生を県立工業学校に転入。
  • 1913年3月:群馬県立織物学校、廃止。

桐生高等染織学校時代編集

  • 1915年12月27日:桐生高等染織学校設置(勅令第235号)。
    • 本科(修業年限3年)に色染科・紡織科(紡績部・機織部)の2科を設置。
  • 1916年4月10日:第1回入学式。
  • 1919年3月:第1回卒業。開校式挙行。
    • この年、校歌制定(大須賀績作詞・萩原英一作曲『畏き大神忌屋に立たし』)。
  • 1920年1月:本科に応用化学科を増設(4月開設)。

桐生高等工業学校時代編集

 
群馬大学工学部守衛所。1915年竣工
  • 1920年3月29日:校名を桐生高等工業学校に改称。
  • 1920年11月:新校歌制定(土井林吉作詞・弘田龍太郎作曲『関東八州』)。
  • 1921年3月:同窓会設立。
  • 1921年4月:附属工業補習学校(2年制)を附設。
    • 1923年3月:附属商工補習学校、1926年4月:附属商工専修学校と改称。
    • 6月、高工生を「学生」、補習校生を「生徒」と呼称。
  • 1924年12月:寄宿舎全焼。
    • 1926年5月:新築落成。1937年2月:「啓真寮」と命名。
  • 1929年3月:本科に機械科を増設。
  • 1931年2月:本科色染科を色染化学科と改称。別科(1年制、色染・機械)を設置。
  • 1933年4月:同窓会、旧桐生織物学校卒業生(昶窓会)を客員として迎える。
  • 1934年5月:県立桐生工業学校が隣接地に開校。
    • 高工校長らによる織物学校復活運動の成果。
  • 1937年8月:臨時別科として工業技術員養成科(応用化学科)を設置。
  • 1939年4月:臨時別科として機械技術員養成科(2年制夜間校)を設置。
  • 1939年5月:本科に電気科を増設。
  • 1943年3月:本科に造兵科を増設。
  • 1943年4月:別科(色染化学・紡織・応用化学・機械)を休止。
  • 1944年1月:臨時工業技術員養成科(機械科)を設置(4月入学)。

桐生工業専門学校時代編集

  • 1944年4月:校名を桐生工業専門学校へ改称。
    • 設置学科改組:化学工業科(旧応用化学科+旧色染化学科)・機械科(旧機械科+旧紡織科)・電気科・火兵科(旧造兵科)。
  • 1945年3月:附属商工専修学校を廃止。
  • 1945年8月:終戦により、火兵科を機械科第三組に編入。
  • 1946年3月:本科に紡織科・色染化学科を復活。
  • 1949年5月:新制群馬大学の発足にあたり包括され、群馬大学工学部の母体となる。
  • 1951年3月:旧制桐生工業専門学校、廃止。

歴代校長編集

  • 初代&創立者:大竹多氣(1916年1月8日 - 1918年7月死去)
  • 第2代:西田博太郎(1918年8月 - 1945年11月19日[9]
  • 第3代:平田文夫(1945年11月19日[9] - 1951年3月)

著名な出身者編集

群馬大学の人物一覧を参照のこと。

校地の変遷と継承編集

脚注編集

  1. ^ 高工卒業生は旧制高校を経ることなく東京工業大学や地方の帝国大学の受験が認められた(傍系入学)。『学歴貴族の栄光と挫折』 78頁。また、官吏制度においては、帝国大学卒は奏任官である技師、高工卒は判任官である技手採用だった。旧海軍を例に取ると、ここの官吏は事務系と技術系に大別され、技術系の上級官吏(高等官)である技師に対し、技手は下級官吏(判任官)である。技師同様、技手には工廠ごとに定員があり、欠員によって任用が行われる。氏家康裕(「旧日本軍における文官等の任用について」防衛研究所紀要第8巻2号、2006年2月)によれば、判任官は軍人の階級に照らすならば下士官に相当する。
  2. ^ a b 仙台大学紀要 Vol. 45, No.2: 69-80, 2014 近代の群馬県桐生地方の産業化と修養主義―ある企業経営者の軌跡―
  3. ^ 渋沢栄一の書簡公開 工業学校設立「首相に進言」 桐生の実業家宛て 5日から|社会・話題|上毛新聞ニュース” (日本語). 上毛新聞. 2019年9月14日閲覧。
  4. ^ 仙台大学紀要 Vol.30,No.2:61-71,1999 1920年代の実業教育と地域社会;群馬県桐生地方の修養主義に関する一考察[1]
  5. ^ 2015年2月6日 朝日新聞<群馬版>群大工学部100年 卒業生4万人 着々と成果[2]
  6. ^ HiKaLo News!!” (日本語). 特定非営利活動法人北関東産官学研究会. 2019年9月15日閲覧。
  7. ^ 2013年10月22日 桐生タイムス 理工学部、戦没者の碑[3]
  8. ^ 2013年8月13日 桐生タイムス 兄を思う妹の言葉[4]
  9. ^ a b 『官報』第5660号、昭和20年11月22日。

関連項目編集

外部リンク編集