桑山 一晴(くわやま かずはる)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名大和国新庄藩初代藩主。官位従五位下修理大夫。大和新庄藩桑山家2代。

 
桑山一晴
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 天正3年(1575年
死没 慶長9年2月28日1604年3月28日
改名 小藤太(幼名)、一晴
別名 正活(法名)[1]
戒名 機伯活逢春院
墓所 京都府京都市北区紫野大徳寺町大徳寺内の清泉寺
官位 従五位下修理大夫
幕府 江戸幕府
主君 豊臣秀吉秀頼)→徳川家康秀忠
大和新庄藩
氏族 桑山氏
父母 桑山一重
兄弟 一晴一直
女(摂津国住吉の神職津守氏某室)、女(桑山貞利室)、一直
特記
事項
一直は実弟だが、養嗣子となった。
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生涯 編集

桑山一重の長男。桑山重晴の嫡孫。幼名の小藤太は通称としても用いられる。

天正10年(1582年)4月、父・一重が死去。

文禄・慶長の役では叔父・桑山貞晴 (小傳次)と出征し、加藤嘉明藤堂高虎らと共に水軍の将として敵船を撃破して功を挙げたが、戦闘で傷を負った[2][1]

慶長元年(1596年)5月11日に従五位下・修理大夫の官位を祖父・重晴から譲り受ける[2]。このとき家督と所領も受け継いだとする史料と慶長5年とするものの2つがある。

慶長2年(1597年)の紀州山地一揆の際には、杉若氏宗の田邊城[3]を救援し、一揆勢の包囲を解いて、鎮圧に貢献した[1]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、重晴と共に和歌山城にいて、徳川家康の密使を受けて東軍に属する[2]。和歌山城を守っていたが、本戦決着後には、命令を受けて叔父・貞晴や、西軍から東軍に転じた杉若氏宗と共に、西軍方の堀内氏善新宮城を攻めて、大野に逃げた堀内を降伏させた[2]。戦後、杉若氏宗は改易となったが、重晴・一晴は所領安堵となった。

同年、祖父・重晴は隠居して一晴に和歌山2万石を継がしめ、叔父・元晴には1万石に分知し、谷川1万石の領地のみを保持したが、一晴は4,000石を、元晴は2,000石を養老料として戻したので、一晴は和歌山1万6,000石(和歌山藩)を、重晴は和泉谷川1万6,000石(谷川藩)を領有することになった[2]

慶長6年(1601年)、和歌山藩37万石の大名として浅野幸長が封じられたので、一晴は和歌山藩大和国葛下郡布施に移封され、新庄藩1万6,000石の初代藩主となった。

慶長9年(1604年)2月28日に伏見で死去した。享年30。世継はいなかったが、関ヶ原での有功者であり、弟の一直が養嗣子となって継ぐことが許された。

脚注 編集

  1. ^ a b c 斎木一馬、林亮勝、橋本政宣 編『寛永諸家系図伝 11』続群書類従完成会、1987年、40-41頁。ISBN 9784797102468 
  2. ^ a b c d e 堀田 1922, p. 167
  3. ^ 浅野幸長が洲埼に移設する前の旧田邊城(山城)のこと。

参考文献 編集