桑田 武(くわた たけし、1937年1月5日 - 1991年1月21日[1])は、神奈川県横浜市鶴見区[1]出身のプロ野球選手内野手外野手)。

桑田 武
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 神奈川県横浜市鶴見区
生年月日 1937年1月5日
没年月日 (1991-01-21) 1991年1月21日(54歳没)
身長
体重
176 cm
87 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手外野手
初出場 1959年4月11日
最終出場 1970年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

経歴 編集

プロ入り前 編集

1937年1月5日神奈川県横浜市鶴見区で生まれる。横浜市立寺尾中学校では、のちに大相撲小結まで昇進する金乃花武夫と同僚としてプレーしていた。荏原高では2年生で「3番・三塁手」のレギュラーを獲得し、1953年夏に全国高等学校野球選手権東京大会決勝へ進出するが、石田雅亮を擁する明治高と延長11回を戦ってサヨナラ負けを喫した。1954年は「4番・一塁手」として2年連続で東京大会決勝に進出するが、榎本喜八を擁する早稲田実業に大敗を喫し、甲子園出場は叶わなかった。

中央大学進学後は東都大学野球リーグでの4年間で通算87試合に出場し、84安打・4本塁打・40打点・打率.288の成績を残した。1958年春季リーグでは小栗秀夫、若生照元ら3年生両投手陣の活躍で5年ぶりの優勝に貢献し、最高殊勲選手とベストナイン(三塁手)に選出されている。同年の全日本大学野球選手権大会では決勝戦で立教大学に惜敗した。大学同期に森田斌らがいた。大学生時代は、同じ大学の3年先輩の穴吹義雄の異名を引き継ぐ形で「ゴジラ2世」と呼ばれていた[2]

プロ入り後 編集

中央大学卒業直前の1958年の年末に大洋ホエールズと契約を交わした。確実性を備えた長距離打者として「4番・三塁手」を任され、1959年には新人選手としては歴代最高となる31本塁打を放ち、同数だった森徹中日ドラゴンズ)と本塁打王を分け合い、桑田は新人王にも選出された[3]。桑田が同年に放った安打数は117で、これは2021年牧秀悟が破るまで球団新人最多安打記録だった[4]

1960年は開幕こそ出遅れるも、4月24日の対広島カープ戦のダブルヘッダーで8打数8安打1四球を記録する。ここから桑田の勢いが増していき、最終的に打率.301を記録し、リーグ初優勝に貢献した。しかし日本シリーズ(対大毎オリオンズ戦)では第2戦で適時打を放つものの、第3戦以降は徹底的にマークされ、シリーズ通算15打数3安打1打点と存在感を発揮できなかった。1961年には打点王を獲得して長嶋茂雄読売ジャイアンツ)の三冠王を阻止した[1]。打率.280、25本塁打の好成績を挙げ、2試合連続のサヨナラ本塁打を放つなど、当時の日本記録である1シーズン3本のサヨナラ本塁打を記録している。

桑田の守備については、投手・捕手を除く全ての守備位置で出場している。桑田の定位置は三塁手だが、1963年シーズンでの遊撃手だったマイク・クレスの負担軽減のために、1964年1965年は遊撃手で起用された。だが、慣れない守備位置のために2年連続でリーグ最多となる失策数を記録している。走力もあり、入団後3年間は毎年20盗塁前後を記録していたが1962年春の銚子キャンプで走塁練習中に足首を捻挫して以降[5]、盗塁は激減した。

1964年は20試合連続安打を放つなど調子を戻し、3割にあと一歩届かなかったものの打率.299の好成績を残し、中心打者として活躍した。ところが、1966年頃から足のケガに悩まされるようになり、1967年には対読売ジャイアンツ戦での12本を含む27本塁打を放つが、守備面での不安から三塁手を松原誠に譲り、主に右翼手として起用された。

1968年開幕から急激な打撃不振に陥って打率1割台に沈みしばしばスタメンを外れ、さらに故障もあって6月頃から欠場。月末には復帰するが、以降の出場機会は大幅に減少した。桑田は自身を重要視しない監督の別当薫の起用法に立腹し、シーズンのある日に別当と掴み合いの大喧嘩をした。これが尾を引き、7月17日の対読売ジャイアンツ戦第2打席から全く安打が出なくなり、トレード候補とされた。かつて大洋の監督を務めていた三原脩がこの状況を見かねて、自身が率いる近鉄バファローズへの移籍を打診する。しかし、桑田自身がパシフィック・リーグへの移籍に難色を示したことから、同年オフに大橋勲とのトレードで読売ジャイアンツへ移籍[1]。長嶋・王貞治に続く5番打者として活躍を期待されたが、足の古傷が再発したこともあって打撃フォームが崩れ、巨人では1本も安打を打てないまま戦力外通告を受けた。

1970年ヤクルトアトムズでプレーしたが[1]、ここでも安打を打てず、9月8日に黒い霧事件に関連するオートレース八百長に関与したことが判明し、逮捕される[6]。10月1日にコミッショナー委員会から3ヶ月の出場停止処分(失格選手への指定)を受けたが[1]、この後にヤクルトから自由契約を通達され、そのまま現役引退を表明した。桑田は結局、大洋時代の1968年から47打席連続で無安打のまま現役を退いた。

引退後 編集

引退後は会社員として一般企業で勤務したのち、喫茶店ガソリンスタンドの経営を経て、群馬県の「小幡郷ゴルフ場」の支配人を務めていたという。1991年1月21日にくも膜下出血により死去。54歳没。

詳細情報 編集

年度別打撃成績 編集

















































O
P
S
1959 大洋 125 499 435 64 117 20 3 31 236 84 25 8 0 2 58 21 4 99 13 .269 .359 .543 .902
1960 114 443 392 50 118 15 7 16 195 67 16 3 0 4 44 12 3 72 10 .301 .376 .497 .873
1961 130 532 471 70 132 25 3 25 238 94 20 5 4 3 53 7 1 108 10 .280 .354 .505 .860
1962 112 466 431 50 112 18 0 22 196 48 2 1 0 1 34 2 0 83 11 .260 .314 .455 .769
1963 139 564 493 65 118 25 1 25 220 76 7 6 2 8 58 0 3 72 21 .239 .323 .446 .769
1964 140 596 539 75 161 30 1 27 274 96 5 6 0 5 49 2 3 81 13 .299 .360 .508 .869
1965 132 520 480 65 128 21 3 24 227 75 5 3 0 4 36 1 0 84 11 .267 .318 .473 .791
1966 119 465 441 48 105 12 0 25 192 64 3 2 2 3 18 1 1 70 13 .238 .270 .435 .705
1967 118 444 400 62 106 14 1 27 203 63 5 2 2 1 35 2 6 73 9 .265 .333 .508 .841
1968 49 131 114 5 15 2 0 1 20 7 1 1 2 1 13 1 1 34 5 .132 .227 .175 .402
1969 巨人 13 17 14 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 3 0 0 8 1 .000 .176 .000 .176
1970 ヤクルト 3 4 4 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 3 0 .000 .000 .000 .000
通算:12年 1194 4681 4214 554 1112 182 19 223 2001 674 89 37 12 32 401 49 22 787 117 .264 .331 .475 .806
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル 編集

表彰 編集

  • 新人王(1959年)※本塁打王との同時受賞は史上2人目

記録 編集

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1963年6月28日、対読売ジャイアンツ12回戦(後楽園球場)、7回表に城之内邦雄から左越同点ソロ ※史上30人目
  • 150本塁打:1965年5月6日、対広島カープ5回戦(広島市民球場)、5回表に森川卓郎から左越ソロ ※史上19人目
  • 1000試合出場:1966年9月21日、対サンケイアトムズ23回戦(川崎球場)、4番・三塁手で先発出場 ※史上119人目
  • 1000安打:1967年4月25日、対読売ジャイアンツ1回戦(川崎球場)、1回裏に城之内邦雄から中前適時打 ※史上63人目
  • 200本塁打:1967年5月18日、対読売ジャイアンツ8回戦(後楽園球場)、2回表に渡辺秀武から左越先制ソロ ※史上13人目
その他の記録
  • 新人最多本塁打:31(1959年) ※最多タイ(後に1986年に清原和博が同数を記録)
  • 2試合連続サヨナラ本塁打 ※NPB史上初[7]
    • 1961年4月8日、対広島カープ1回戦(川崎球場)、10回裏に長谷川良平から左中間へサヨナラソロ
    • 1961年4月9日、対広島カープ2回戦(川崎球場)、9回裏に大石清から左中間へ逆転サヨナラ3ラン
  • オールスターゲーム出場:6回(1959年 - 1962年、1964年、1965年)

背番号 編集

  • 8(1959年 - 1968年)
  • 7(1969年 - 1970年)

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、209ページ
  2. ^ 桑田武「もしプロに入ったら狙おうと思っていたんです”. 週刊ベースボール ON LINE (2013年11月11日). 2024年3月15日閲覧。
  3. ^ 本塁打王を分け合った森は同年がプロ2年目で、1年目の昨季は112試合に出場して23本塁打・73打点を記録したが、新人王は29本塁打・92打点の長嶋茂雄読売ジャイアンツ)が獲得した。
  4. ^ DeNA・牧、球団新人新記録118安打 62年ぶりの更新 新人王争いも負けられん”. デイリースポーツ (2021年9月30日). 2021年10月6日閲覧。
  5. ^ 岩本[1991: 134]
  6. ^ 八百長オート「金を渡した覚えない」『朝日新聞』1970年(昭和45年)9月8日夕刊 3版 11面
  7. ^ 週刊ベースボール2012年5月21日号96ページ

参考文献 編集

  • 『野球に生きて:岩本尭回想録』紀伊民報、2011年

関連項目 編集

外部リンク 編集