桓公 (魯)
桓公(かんこう、?年9月24日 - 紀元前694年4月10日)は、春秋時代の魯の君主。名は允、または軌。恵公の子で、隠公の弟。
桓公 姫允 | |
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魯 | |
公 | |
王朝 | 魯 |
在位期間 | 前711年 - 前694年 |
都城 | 曲阜 |
姓・諱 | 姫允、または姫軌 |
諡号 | 桓公 |
没年 | 紀元前694年 |
父 | 恵公 |
母 | 仲子 |
后妃 | 文姜 |
生涯編集
恵公の正夫人の仲子から生まれて、太子に立てられたが、恵公が世を去ったときにはまだ年が幼く、そこで異母兄の姫息姑(魯の隠公)が即位して摂政した。
紀元前712年に魯の隠公が殺された後、翌紀元前711年に即位。18年の在位の間、賢臣として知られる公族の臧孫達(臧哀伯。孝公の孫)を登用して魯を治めるが、紀元前694年に斉国で不慮の死を遂げてしまう。
『春秋左氏伝』の記載によると、桓公が夫人の文姜とともに斉国を訪問したとき、斉の襄公(姜諸児)が文姜と姦通した(文姜は襄公の妹であった)。それを知った桓公は、文姜と襄公を指弾するが、逆に襄公の怒りを買ってしまい、同年夏4月10日、襄公が桓公の馬車に同乗させた公子彭生によって、桓公は車上で暗殺された[1]。これに憤激した魯国が斉国に圧力を加えると、襄公は公子彭生に全責任を押し付けて処刑し、責任を回避した。
家庭編集
父:
- 恵公姫弗湟
母:
兄弟:
子女:
紀年編集
魯桓公 | 元年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 | 6年 | 7年 | 8年 | 9年 | 10年 |
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西暦 | 前711年 | 前710年 | 前709年 | 前708年 | 前707年 | 前706年 | 前705年 | 前704年 | 前703年 | 前702年 |
干支 | 庚午 | 辛未 | 壬申 | 癸酉 | 甲戌 | 乙亥 | 丙子 | 丁丑 | 戊寅 | 己卯 |
魯桓公 | 11年 | 12年 | 13年 | 14年 | 15年 | 16年 | 17年 | 18年 | ||
西暦 | 前701年 | 前700年 | 前699年 | 前698年 | 前697年 | 前696年 | 前695年 | 前694年 | ||
干支 | 庚辰 | 辛巳 | 壬午 | 癸未 | 甲申 | 乙酉 | 丙戌 | 丁亥 |
脚注編集
- ^ 劉向『列女伝 3』(平凡社、2001年)169ページ ISBN 978-4-582-80689-2
参考文献編集
- 韓兆琦『新譯史記讀本』、台北、三民書局、2008年2月初版
- 程發軔『春秋人譜』、台北、台湾商務印書館、1995年1月二版