初代 桜川唯丸(しょだい さくらがわ ただまる、1938年1月16日 - )は、日本江州音頭取り、歌手詩人大阪府寝屋川市出身。

桜川 唯丸 (初代)
出生名 平田 唯男
別名 平田 唯心・MAD 唯丸
江州音頭のゴッドファーザー
河内のラップ
生誕 (1938-01-16) 1938年1月16日(86歳)
出身地 日本の旗 日本 大阪府
ジャンル 民謡ロックワールドミュージック
職業 江州音頭取り、詩人、女性心理学研究者
活動期間 1947年 - 1995年2006年 -
レーベル テイチク、AZAレコード、DISK MILK
共同作業者 佐原一哉、スピリチュアル・ユニティ、郷土芸術江州音頭桜川唯丸会
著名使用楽器
錫杖

来歴 編集

1938年1月16日、寝屋川市下神田町に生まれる[1]

入門 編集

1947年 - 1973年(入門からの修行時代)

9歳だった1947年(昭和22年)11月上旬、芸事好きだった母方の祖母に薦められて、寝屋川萱島在住の音頭取りの二代目桜川房丸[2] に弟子入り。

翌年8月、寝屋川市太秦の櫓で初櫓(デビュー)。

音頭修行に励み、師匠以外では、1950年(昭和25年)夏、神田天満宮での櫓で共演した中学1年生の時に、当時健在だった大倉壽賀義に初代房丸が学んだ耳に心地良い節(音頭)に深く影響を受けて取り組み、古老たちから河内音頭[3]を学ぶ。

また、後年、寄席(『戎橋松竹』)に出演していた浪曲師近江源五郎の浪曲の節を巧みに江州音頭に取り入れ芸風の幅を広げた『浪曲江州音頭』に接した事にも魅力を感じていた。ほかに『バナナの叩き売り』で知られる啖呵売の口跡も研究した。

『早熟の音頭青年』として二十代の頃より、音頭界でもすでに頭角をあらわしていたが、常に「どうしたら、音頭を自分と同世代の若者の耳に聴いてもらえるんやろうか?」と悩み続ける[4]

独立 編集

1974年

師匠から独立して『郷土芸術江州音頭桜川唯丸会』[5]を結成。記念に『浪花遊侠伝(詩川しぐれ作詞)/ヤンレー節 鈴木主水』(テイチク、50-137)を自主製作発売。

1975年-1983年

以降、『河内音頭[6]が中心の北河内の盆踊り[7]の櫓を『江州音頭』を中心に活躍を続ける。

以後、自らが営業努力しながらレギュラーの櫓を徐々に増やし、自身の出身地である地元の大規模な夏祭り『寝屋川まつり』は基より、東京で毎年催されている『錦糸町河内音頭大会(錦糸町河内音頭大盆踊り)』、『十三どんとこいまつり』といった地元以外の櫓に精力的に出演[4]。一時引退まで口演を勤めた。

1984年

8月30日(木)『郷土芸術江州音頭桜川唯丸会 結成10周年記念納涼盆踊り大会』を中村とうよう平岡正明朝倉喬司らが後援者に名を連ねて開催する。なお、この模様はNHKテレビの夕方のニュースでも中継、報道された[8]

同イベントのゲストに江州音頭の本場滋賀県から三代目桜川梅勇、初代桜川貴美子、『真鍮家 二代目宗家』真鍮家文好(先代)、五代目桜川小龍、大阪江州音頭から入門時から研鑽しあった盟友であった初代河内家光司[9]、元来は天光軒新月を名乗る浪曲師でもある桜川春月、弟弟子の三代目桜川房丸

河内音頭から『河内音頭初音家二代目宗家』[10]初音家賢次[11]といった音頭取りをゲストに迎え開催された[12]

1985年

この年の音頭シーズンより、当時流行中だった香港映画霊幻道士』にヒントを得て、同作に登場するキャラクターのキョンシー(桜川唯正)、道士の代わりに僧侶(桜川唯龍&唯清)が登場する演劇風にショーアップされた他に類をみないステージングは音頭界のみならず大阪の音楽界でも注目を集め、音頭に興味がなくともそのパフォーマンス見たさのファンも櫓に集まりだした。

東京へ 編集

1988年

多くの音頭イベントを手がけたプロデューサー的存在だった持田寿一[13]の紹介で京都のスカファンクバンドとして知られたザ・ノーコメンツのリーダーであり、以前、河内家菊水丸のプロデュース経験のあった佐原一哉と知り合い、プロデューサー兼キーボーディストを勤め、やがて従来の初代唯丸バンド(唯丸会)と、佐原が率いるバンド(スピリチュアル・ユニティ)が合同で伴奏を務める様になり、この事が契機となりライブハウスにも活動の場を広げて次第に東西のロックファンミュージシャンから注目を集めた。

1990年

8月18日『四天王寺ワッソ前夜祭』のイベント『エスノポップ・インオオサカ』出演。

上々颱風のファーストアルバム『上々颱風』では『仏の顔もIt's all light』に参加以後、各種音楽イベントに出演するようになり上々颱風、ネーネーズ照屋林助S-KEN近藤等則&IMA、などと共演する。

一時引退までの活動 編集

1991年

5月6日『関西・沖縄ジャワNITES エグイナイト』(東京グローブ座)出演。

夏、NHK大阪放送局製作のドキュメンタリー『新日本探訪』にて取り上げられ出演する。

道頓堀『大阪キリンビアクラブ内パラノイア』(2018年現在現存せず)にて開催された『エスケンのカメレオンナイト』に出演。ウルフルズと共演。

後楽園ルナパーク』にて開催された『エスケンのカメレオンナイト』のスペシャルイベント『東京ラテン宣言スペシャル'91』に出演。

8月30日、『ウォーマッド91・イン・横浜』に初代桜川唯丸会withスピリチュアル・ユニティ出演。競演、上々颱風スザンヌ・ヴェガなど[14]

12月15日、折からのワールドミュージックブームの波に乗り、佐原一哉プロデュースのアルバム『ウランバン』(WAVE AZAレコード WWCP4006)を"桜川唯丸&スピリチュアル・ユニティ"名義で発表。

従来の民謡や浪曲のファンよりもロックファンに良質のダンスミュージックと評価され、意外にも拍手を持って迎え入れられ、滋賀県や、大阪の北河内地方の民謡に過ぎなかった江州音頭でロック界に旋風を巻き起こし、積年の唯丸自身の夢が叶えられた。

1994年

京都遷都1200年記念イベント ニッポン音楽の水脈』に出演。伊藤多喜雄都はるみ三波春夫と共演する。

その一方、従来通りの地元での盆踊り櫓にも精力的に出演を続けていた。

一時引退 編集

1995年

『ウランバン』に続く次回作を期待されながら、一身上の都合で引退を決意。 同年夏に開催された『劇場飛天前広場での盆踊り』を最後に弟子の唯美智(桜川唯丸 (二代目))に名前を譲り約半世紀に及んだ音頭取り生活から一時引退した。

その後、『黒い雨』はテクノポップユニットのハイポジがミニアルバム『カバのオツム』で(1995年)、ネーネーズ初代リーダーの古謝美佐子が2003年からライブで歌い続け2005年にシングルCDとして発表。

また、『敷座』を大西ユカリと新世界[15]がカバー(2003年)した。

アフリカ大陸エジプトの歌手のアリ ハッサン クバーン(Ali Hassan Kuban[16]が『さのせ』をアルバム『リアル・ヌビア(Real Nubia)』(1995年)の中の収録曲『Sanose (It's Japanese)』[17]としてカバー、発表した。

一時引退後 編集

引退直後から京阪本線大和田駅前で雑貨店[18]を経営したり、還暦を迎えた事を契機に兼ねてから興味のあった精神世界に関する事や東洋占星術(九星気学)を本格的に学び出して修めた後に、平田唯心と名乗り、運勢鑑定士心理療法カウンセラーとして、2020年1月現在も並行して活躍している。

復活 編集

2006年11月12日

東京新橋ヤクルトホールで催された『古謝美沙子唄会スペシャル/沖縄と竹田、河内の伝えウタ』(佐原一哉プロデュース構成)に出演する為、11年ぶりに公的な舞台に登場。

復活以降の活躍 編集

2011年

7月16日

更に5年を経て、東京浅草木馬亭で催された『てなもんや浪漫バラエティー さても一座の皆々様方へ』[19]に出演。芸題『俊徳丸』『刈萱』。

共演、 タイヘイ夢路(元タイヘイトリオ)、春野恵子

河内音頭【初音会】[20]『民謡河内音頭初音家四代目宗家』(初音家秀若[21]

初音家石若[22] 初音家歌月[23])

10月2日11月6日12月4日

上記のイベントがきっかけとなり、トークイベント『河内&江州音頭セミナー「談論モノガタリ ノ キオク」』(於 難波・はなのや)を開催。初音家秀若と出演。

2012年

1月15日2月5日3月4日

河内音頭の初音家秀若、先祖芸とされる『正調河内音頭交野節』[24]美谷川菊若=みやがわ・きくわか(3月のみ)[25]、同じく先祖芸とされる『寺方提灯をどり(または寺方提灯音頭)』[26]会川藤助 (二代目)=かいかわ・とうすけ(3月のみ)[27]と『モノガタリ宇宙 IN 梅田~音頭三昧』(於 扇町 ムジカジャポニカ)に出演。

2月22日

『唯丸流おもしろ音頭塾 VOL.1』(於 高円寺 円盤)。共演 柳家小春(江戸音曲)出演。

2月23日

『モノガタり宇宙 IN 新宿~VOl.2 大衆芸能考-桜川の源流を訊ねる』(於 新宿ゴールデン街劇場)共演 桜川ぴん助社中かっぽれ)出演。

3月30日

モノガタり往来 IN 新宿 『VOl.3 モノガタリのリズム』(於 新宿ゴールデン街劇場)』に出演。

共演、初音家秀若(四代目宗家・河内音頭) 初音家歌月(河内音頭・太鼓)&向島ゆり子(ヴァイオリン)、中尾勘二(クラリネット)、久下惠生(ドラムス)、澤田隆治(司会・監修)。

3月31日

てなもんやローオンバラエティ『第四回 暁照夫モノガタリ万華鏡-うなる・かたる・ひく』(於 浅草木馬亭)に出演。共演 暁照夫(浪曲・三味線・漫談)。初音家秀若(河内音頭初音家四代目宗家・ギター)&初音家歌月(河内音頭・太鼓)&虹友美(浪曲三味線 曲師)。スペシャルゲスト 鉄砲博三郎(河内音頭)。司会進行、澤田隆治(メディア・プロデューサー)。

10月28日

『音頭三昧 ONDO EXODUS! 2012 あき』(於 芦原橋リバティーホール)に出演。

【司会進行】澤田隆治(メディア・プロデューサー)、初代桜川唯丸。

浪曲河内音頭】初音家秀若(音頭・太鼓・ギター 河内音頭初音家四代目宗家)、初音家石若(音頭・ギター)、初音家歌月(音頭・太鼓)他。

江州音頭】二代目 桜川唯丸(音頭、唯丸会会主)、四代目 桜川音丸(音頭、音丸会会主)、桜川唯清(囃子)、桜川唯正(囃子)他。

【交野節】 二代目 会川藤助(音頭、寺方提灯踊り保存会) 美谷川菊若(音頭、正調河内音頭交野節美谷川会会主) 美谷川かえる(太鼓) 吉田昌信(囃子 寺方提灯踊り保存会 江州・河内音頭研究家)他

【為丸節】二代目玉子屋円辰(音頭)他

【歌亀節】吾妻家冨士若(音頭)他

【特別出演】鉄砲博三郎(音頭)他

【演奏】《ちんどん通信社》林幸治郎(チンドン)、小林信之介(クラリネット)、ジャージ川口(バンジョー)、恵美寿家久若(ギター 江州+河内音頭恵美寿会)、華乃家福人(アコーディオン 華乃家)、宮田あずみ(コントラバス)、下村よう子(囃子)。

2013年

3月10日(日曜日)

『音頭三昧 ONDO EXODUS! 2013 はる 鉄砲博三郎CD発売記念コンサート 音頭師一代』(於 (於 芦原橋リバティーホール)。監修・司会(澤田隆治と共同司会)。

出演

【河内音頭 鉄砲節】 鉄砲博三郎

鉄砲菊春[28]+まんだ会+中尾勘二(テナーサックス)

【伝承河内音頭 交野節】美谷川菊若+美谷川会

【浪曲河内音頭】初音家石若+初音家歌月。

2015年

5月頃、交流が以前からあった、歴史的流行歌、演芸の復刻を手掛ける『ミソラレコード』、フリージャズなどを手掛けるレーベル『off note』を運営している神谷一義の仲介で、神谷と日本各地の民謡を研究・習得・実演する音楽サークルで『モノガタリ宇宙の会』を主宰している中西レモンが中心となり『初代桜川唯丸通信講座』を発足。

尚、江州音頭の『唯丸節通信教育』を始めたい構想は、唯丸自身が引退後から常に構想していた。

当初は文字通りの通信講座のみだったが、彼らと江州音頭に興味のあった会員たちに東京に招聘され、桜川唯丸会を独立したばかりの桜川唯正改め辺高正(ほとり・たかまさ)と共に行ない始める。[29]

2018年

4月10日(火)

『ゴトウゆうぞうショー vo.85』(於 京都 丸太町 拾得)に於いてゲスト出演を果たす。

好きな歌手と女優 編集

  • 青年時代は同世代である五月みどりがアイドルだった。

芸題(外題 ネタ)・詩作 編集

唯丸会のネタのほとんどは元来、房丸会などに継承されていたものを初代唯丸が脚色、または作詩し、彼の手掛けた台本(ネタ、外題、芸題)は最初の引退後に郷土芸術江州音頭二代目桜川唯丸会[30]に引き継がれ継承されている。

二代目唯丸の十八番で知られる『木津勘助/ヤンレー節-鈴木主水』の詩は初代唯丸の脚色で、元来は以前から浪曲や落語や浄瑠璃でお馴染みの演目である。

同じ様に初代唯丸十八番の『忠臣蔵抜き読みの内神崎与五郎東下り』は桜川唯正が、また『佐渡情話』は桜川唯清が、『仲乗り新三』は桜川唯玉が、その他の持ちネタも他の弟子たちに伝承、口演されて続けている。

なお、江州音頭は師匠からネタをもらう際、他の伝統芸能のように師匠の節を受け継ぐが、初代~二代目唯丸会は演者独特の節付けが最低限のルールの元、原則的に許されている。

弟子 編集

  • 桜川唯行 桜川唯行会会主 初代唯丸筆頭弟子、1934~寝屋川市、守口市。
  • 二代目 桜川唯丸(唯美智、郷土芸術江州音頭二代目桜川唯丸会会主 門真市、守口市)
  • 二代目桜川房勝(唯香、元二代目桜川房勝会(解散)会主 門真市、守口市)
  • 桜川勝龍 (故人 二代目房勝実弟)
  • 桜川唯彌壽(引退?)
  • 桜川唯龍(寝屋川市出身 京都府綴喜郡宇治田原町)
  • 桜川唯光(引退?)
  • 桜川唯博(故人)
  • 桜川唯華(桜川唯華会会主 1967~ 守口市 門真市)
  • 桜川唯菊(宮崎県延岡市出身。1982年、初代唯丸会入門。桜川唯菊会会主-1999年?頃解散。守口市 門真市 引退)
  • 辺高正(ほとり・たかまさ。前名 桜川唯正 1950~ 大阪府門真市出身)[31]
  • 桜川唯清(1936~、長野県飯田市出身。郷土芸術江州音頭二代目桜川唯丸会)[32]
  • 桜川唯玉(1949年~、和歌山県日高郡美浜町出身、郷土芸術江州音頭二代目桜川唯丸会 初代唯丸最後の弟子。[33]

ほか

(だいたいの入門順。括弧内は肩書き、出身地<判明分のみ>別名、旧芸名 所属、主宰会派名 本拠地域)

関連人物 編集

レコード・CD 編集

  • 浪花遊侠伝(詩川しぐれ作詩)/ヤンレー節 鈴木主水(1974年 EPレコード 『桜川唯丸会結成記念盤』- 自主製作 テイチク TE50-137)
  • 上々颱風(1990年9月30日発売 EPIC SONY ESCB109『仏の顔もit's all light』 詩曲 佐原一哉 ゲスト)
  • ウランバン(1991年12月15日 AZAレコード WWCP4006 WAVE)
  • ウランバンDX(2006年10月26日発売 Disk Milk DM007)※佐原自身のレーベルから発売された、従来盤にライブ録音盤と新たに新録音を含む二枚組CD
  • 世界最強河内系SONGS/続、続々カワチモンド(2012年6月6日発売 テイチク TECH-32296)『浪花遊侠伝(詩川しぐれ作詩)/ヤンレー節 鈴木主水』収録 CD 2枚組
  • 音頭三昧 Ondo Sama-dhi初代 桜川唯丸(DVD+CD ミソラレコードより2023年現在 発売未定)

ビデオ 編集

  • 桜川唯丸会結成十周年納涼盆踊り大会(郷土芸術桜川唯丸会 1984年9月 郷土芸術桜川唯丸会=私家版)
  • ザッツ・河内音頭(1990年10月)

出演 編集

出典 編集

書籍 編集

その他 編集

  • 桜川唯丸会芸題(桜川唯丸 1974-95年 郷土芸術江州音頭桜川唯丸会=私家版)

脚注 編集

  1. ^ 『日本一あぶない音楽―河内音頭の世界』
  2. ^ 初代桜川房丸(本名 西川房吉 ?-1960年代)は寝屋川出身。明治末年頃に、寝屋川など北河内各地に来ていた萬歳師の大倉壽賀義(本名 経歴など不明)に稽古をつけてもらい、その内に門人が集い稽古場を開くようになった人物。 現在は四代目桜川房丸(1942- 初代唯丸の弟弟子)が守口市を本拠地に活動している。
  3. ^ 半音階でうたう音頭と節のこと。現在、世間的に呼ばれている『河内音頭』よりも『交野節』や『正調河内音頭』及び『江州音頭』に節と運び方が近い音頭。
  4. ^ a b 『浪曲的』、『日本でいちばん音楽―河内音頭の世界』
  5. ^ (正式名称)
  6. ^ 河内音頭の祖と呼ばれる初代歌亀(1845-1915)は江戸末期の茨田郡野口村=現在の門真市上野口町~野里町出身(『門真町史』1962年)、『西洋音楽が日本に本格的に入る10年ほど前(明治7=1873~10=1876年頃)に、江戸時代から短音階で歌われていた従来の音頭(正調河内音頭交野節など。江州音頭の節で唄う)を、長音階で何の予備知識も無く唄い出した』と言われている。二代目歌亀(1873-1962)は半世紀以上活躍した音頭取りで初代の門人(『門真町史』1962年)。彼は従来の交野節などの江州調の音頭も、当代の河内音頭も取っていたという。
  7. ^ 北河内の内、門真市、守口市はほとんどの土地が平野であり、戦後に従来の地区(村)よりも開拓された地区の方が多くなり、同じ北河内地区山間部周辺や、中河内及び南河内地区に比べると音頭の盛んな土地ではなく、一般に郷土芸能としては浸透しているとは言い難い。
  8. ^ ニュースワイド (NHK大阪放送局)630』 1984年8月30日木曜日放映。レポーター:杉浦圭子アナウンサー
  9. ^ (1935-2004)河内家宗家。東大阪市を中心に活躍した河内家広春門下の大阪江州音頭の音頭取りで、初代唯丸と幼少期からのライバルにして終生親友関係にあった。青年期には戎橋松竹などに出演していた。なお、コメディNo.1の『アホの坂田』(作曲 キダ・タロー)の作詞家で、元『吉本新喜劇』作・演出家の竹本浩三(1932~2022 生前は『吉本興業』文芸顧問、『帝京平成大学』現代ライフ学部教授、『帝塚山学院大学』文学部講師、大阪市『上方芸能』文化顕彰選考委員などを務めた)と親類にあたる。尚、ワッハ上方が開館するまで吉本興業本社に併設されていた資料館であった『吉本文芸館』には光司寄贈の江州音頭用の錫杖が展示されていた。
  10. ^ 【初音家】の結成は大正中期(大正7年=1918年、大正8年=1919年、大正9年=1920年)など諸説がある。河内音頭【初音家】は大正~昭和(1919~1927)にかけてから初代宗家初音家太三郎(1902-1982)が仲間を募り名乗りだした屋号であり、数多くの逸材を輩出した河内音頭の最大会派として知られている。
  11. ^ (1930-2000)『河内音頭初音家二代目宗家』。初代太三郎から指名を受け、二代目宗家として自らの会と『初音家連合』を率いて河内音頭の口演、指導、普及に尽力した。なお、歌手の中村美律子は幼少時代から初音家小まつを名乗り彼に師事したが、最初の結婚(夫は他会派の音頭取り生駒一だったため。後に離婚)後『初音家』の名前を返上、『小松みつ子』名義で活動した。映画『三文役者』(2000年 新藤兼人監督 竹中直人主演)の河内音頭指導を勤めた。
  12. ^ 『桜川唯丸会結成十周年納涼盆踊り大会(郷土芸術桜川唯丸会 1984年10月 郷土芸術桜川唯丸会=私家版ビデオ)』
  13. ^ (1953.12-1998.8)。当時は八尾市職員。後に退職して江州・河内音頭研究家に転じ精力的に活動中の矢先、1998年の音頭のシーズン中に心不全で急逝した。唯丸会、初音家連合会などの音頭会派の外部アドバイザーを勤め、亡くなる数日前にも二代目桜川唯丸会の門真市打越の盆踊り櫓の打ち上げ参加の席上で「そろそろ、研究者でいるのに飽きたんで、本格的に音頭を習って音頭取りに転じたい!!」と宣言し、二代目唯丸の許可を得て、同会の指導役の一人である唯清に懇願した矢先の出来事だった。
  14. ^ 月刊『ミュージックマガジン』1984~1992年
  15. ^ ライブ限定ながら口演した。彼女のバンドの大西ユカリと新世界のリーダーの夢みのるとベースの森扇背(旧名、森たくみ)は元スピリチュアルユニティのメンバーで、三好ひろあきはスピリチュアル~の代演(石田雄一欠席時)のギタリストだった。また二代目唯丸の弟子の桜川唯由里(あのゆかり)は、2006年頃に、大西ユカリ柴草玲が結成した企画コーラスグループ『MUSIC HAIR』のメンバーだった。
  16. ^ Ali Hassan Kuban(1929年エジプト生まれ - 2001年)ヌビア人(エジプトスーダン共和国の国境に位置する地方出身者の混血人種の子孫の総称)、歌手、作曲家、バンドリーダー、ピアニスト、クラリネット奏者。アスワン生まれだが幼少の頃に家族でカイロに移住。子供の頃から家族で組織された民謡祝い歌)を演奏するファミリーバンドにクラリネット奏者兼歌手として参加してデビュー。成人前後にカイロ歌劇場管弦楽団に在籍しクラリネットと声楽を学んだ後、自分のバンドを率いて演奏しだした。従来の民謡(祝い歌)に西洋楽器、電気楽器を数多く取り入れた彼は『キャプテン』または『ヌビア音楽のゴッドファーザー』として人々から親しまれた。晩年は世界的な各種音楽イベントや自らのツアーに出演するなどの活動をした。なお、彼の事歴は生前人気の高かった地域の言葉であるアラビア語、ドイツ語など5つの言語のウィキペディアのデータベースに掲載されている。
  17. ^ 唯丸も出演した全世界規模の野外コンサート『ウォーマッド』に後年出演したクバーンが、過去の同イベントの出演アーティストの紹介音源として、『ウランバン』を聴き、インスピレーションを得てカバーしたと言われている。このエピソードを唯丸はクバーンの死後、原作者でプロデューサーの佐原から聴かされ「ワシと同じように子供の頃から芸能に身を置いていた事から共感と親近感を覚えた」と語っている。また、唯丸のキャッチフレーズのひとつである『江州音頭のゴッドファーザー』は生前からのクバーンのファンであった佐原が命名した。
  18. ^ 1996-99年 「消費税を取らない100円ショップ」のパイオニアとして府内に知れ渡っていた。
  19. ^ ミソラレコード/オフ・ノート/メタ・カンパニー主催。同イベントのフライヤー(チラシ)に『16年ぶりの初代桜川唯丸の復活』と刷られていたが、これは間違いで前出の2006年のイベント以来5年(4年6ヶ月)ぶりの公的な場への登場である。
  20. ^ 1995年、東京落語に同じ【初音家】の屋号が興されたが関連はない。 尚、太三郎→賢次の薫陶を受け、独立して会派を立ち上げた音頭取り中心に親睦団体『初音家連合』が長年活動しており、秀若没後は五代目宗家を初音家豊若が襲名した。
  21. ^ 1946.9.20-2016.10.22、青年時代に初音家賢次に入門。後、稽古場に来ていた和田香苗のプレイを見て大いに影響を受け『ジャズ河内音頭』を独立後から一貫して標榜していたが、晩年は『秀若節』を確立し、原点に戻り楷書の河内音頭初音家節を取っていた。2000年に二代 賢次→三代 二代目太三郎(襲名直後逝去)→賢次逝去の後、四代目宗家を襲名)
  22. ^ 1939-、 井筒家小石丸 (初代)門下から初音家賢次門下に転じた、秀若の兄弟子でギター兼音頭取り兼漫談家。弟弟子の秀若と共に音頭修行の傍ら、長年師匠の伴奏者を勤め秀若の『ジャズ河内音頭』の奏法の創案に貢献した。オリジナルシングル『ゴルフわからない節』は河内音頭のケレン味をふんだんに載せてコミックソングマニア(幻の名盤解放同盟=根本敬&湯浅学&船橋英雄)の著作の中で『珍盤』として紹介されている。著名な妹弟子に初音家小まつがいる。
  23. ^ 秀若夫人で太鼓叩き兼音頭取り
  24. ^ 交野節…大阪府枚方市郷土芸能無形文化財。諸説はあるが、伊賀街道から清滝街道(現在の国道163号線)と、その道に沿って流れる服部川~木津川を下って西暦1700年代中後期に枚方市尊延寺に伝わったとされる伊賀祭文の節回し(口跡)が残る口伝の伝承芸能。
  25. ^ 昭和16年(1941年)- 平成29年(2017年)1月13日。大阪府枚方市尊延寺出身。子供の頃から音頭取りに憧れ続けて先代会主美谷川菊月(故人)に弟子入り。修行を経て、師匠の没後に美谷川会会主となる。また、音頭取りと並行して「松洋斎滉洋」を名乗る奇術師としても活躍した。
  26. ^ 寺方提灯をどり…寺方村で踊られていた盆踊りと、守口を通る京街道と寺方に面する清滝街道沿いに伝播したとされる交野節が西暦1700年代中後期に合わさったとされる大阪府守口市に伝わる郷土芸能。提灯を手に何種類もある手踊りの形は全国的にも極めて珍しい踊りとされている。第二次世界大戦後長らく廃れていたが、当時健在だった元音頭取りや踊り子だった古老たちを中心に昭和46年(1971年)に『寺方提灯踊り保存会』が結成され、以後も有志により守られている郷土芸能で毎年夏に京阪本線守口市駅前で2日間に渡り開催される『寺方提灯をどり盆踊り大会』などで市民にも親しまれている。
  27. ^ 昭和16年(1941年)- 令和3(2021)年9月? 大阪府守口市寺方出身。1971年の結成時から参加。1991年に寺方提灯音頭の代表的名跡の『会川藤助』を襲名し伝承者の一人として活躍していた。
  28. ^ (1947~)博三郎の弟子で、まんだ会会主。鶴見区、旭区を中心に活躍。初代鉄砲光三郎の生前に彼や博三郎の本名である鉄砲姓を名乗る事を独立の際に唯一許された音頭取りである。2019年頃、コロナ禍と会員の高齢化によりまんだ会解散。解散後も現役の音頭取りとして各地の盆踊り櫓で2023年現在口演を続けている。
  29. ^ 『郷土芸術江州音頭桜川唯丸会』とは無関係の団体だが、2023年現在までに何人かの現役の唯丸会会員が辺の斡旋で過去共演したことがある。
  30. ^ この名前が正式名称であるが意外と知られていない。略称が『春一番 (コンサート)』出演時(2004-15)の『桜川唯丸一座』であるが、これは主催者側が取っ付き易い様に用意した名称で同会自ら名乗った事はなく、盆踊りシーズン、及び各種口演では『江州音頭 二代目桜川唯丸会』名義で活動している。
  31. ^ 1982年、初代唯丸会入門。初代活動期~自身の独立直前までの長年マネージャーを勤めた。 元来は守口市を本拠地とする踊り子チーム『流星会』のメンバーから江州音頭取りに転じた。 唯清と共に初代からの芸題を継承保存している。2015年春頃に独立した後に改名した。
  32. ^ 1982年初代唯丸会入門。長年、桜川唯丸会の全般の指導役、舞台監督を勤めている。初代からの芸題を唯正(辺)と共に継承保存している。設置係、ミキサーとしても活躍する江州音頭取り。 朗らかな人柄で、子供の頃からみんなで楽しむことが大好きでその中心にいて、クラスの茶話会や職場内や町内会などの各種行事のまとめ役で人気者が長じて、江州音頭が故郷、飯田の郷愁を感じさせるという理由で入会した。 尚、唯菊、唯清、唯正(辺)の3人は1982年入門の同期である。
  33. ^ 1995年2月入門。幼年期からレコードやラジオから流れる江州音頭、河内音頭、東西の落語や浪曲などに親しみ、芸人に憧れを抱いていた後に入門した。

外部リンク 編集