梁 啓超(りょう けいちょう、拼音: Liáng Qǐchāo1873年 - 1929年)は、中国清末民初ジャーナリスト学者思想家革命家政治家教育者社会運動家書家。字は宏猷卓如任甫、号は任公飲冰室主人。筆名に中国之新民少年中国之少年滄江愛国者など。「百科事典式」国師級人物。

梁啓超
1901年4月17日撮影

出生 (1873-02-23) 1873年2月23日同治12年正月26日)
清の旗 広東省広州府新会県
死亡

1929年1月19日(1929-01-19)(55歳)

民国18年)
中華民国の旗 中華民国(国民政府)北平市
諡号 一等嘉禾章中卿衔少卿
維新先駆者
民主国士
配偶者 李蕙仙(1869年~1924年9月13日)
王桂荃(1886年~1968年)
職業 中華民国誥授一等嘉禾章中卿銜少卿
国務議会参政院参知政事司法総長
民国貨幣製造局首任総裁
民国財政総長塩務署監督
清華大学国学院授業指導者 など
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梁啓超
職業: 思想家・革命家・政治家・ジャーナリスト・歴史学者・文学者・教育者・社会運動家・新法学者・書家
各種表記
繁体字 梁啟超
簡体字 梁启超
拼音 Liáng Qícháo
和名表記: りょう けいちょう
発音転記: リャン チーチャオ
ラテン字 Liang Ch'i-ch'ao
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若き日の梁啓超。弁髪姿。
梁啓超の書

長男は建築家建築史学者梁思成。次男は考古学者梁思永中国語版。八男は科学者梁思礼は高名なロケット制御システムの専門家で、1993年に中国科学院技術科学部院士に選ばれた。

青年時代に師の康有為戊戌の変法を試みたが、失敗に終わり、日本に亡命。海外から立憲君主制を推進した。辛亥革命の後は、一時袁世凱政府に加入し、司法総長、貨幣製造局の初代総裁を務めたが、袁世凱の皇帝化に不満を持ち、蔡鍔と密謀して護国運動を起こし、袁世凱を倒す。また、張勲復辟を厳しく批判し、段祺瑞と天津馬廠で討逆軍を組織して北京に侵入した。新文化運動を提唱し、五四運動を支持。清華大学国学研究院の四大指導者の首脳である。

家族編集

  • 天祖: 梁流嵩。世族儒学、農業に従事。
  • 高祖父: 梁上悦。字は光桓、号は毅軒。1755年に生まれ、世族儒学、農業に従事。
  • 曾祖父: 梁炳昆。字は饒裕、号は寅斎。1782年に生まれ、世族儒学、農業に従事。
  • 祖父: 梁維清(1815年~1892年)。号は鏡泉。清末の秀才
  • 祖母: 黎氏(1817年~1873年)。新会県都会郷の人。広西提督・武探花黎大剛の娘。
  • 父: 梁宝瑛(1849年~1916年)。号は蓮澗。清末の秀才。
  • 母: 趙氏(1852年~1887年)。三江の人。挙人趙雨亦の孫娘で、秀才趙炳桃の娘。
  • 庶母: 呉氏。
  • 弟: 梁啓勲梁啓文梁啓雄梁啓田梁啓図梁啓業など。

生涯編集

生い立ち(1873-1895)編集

1873年、広東の農村(現在の広東省江門市新会区郊外)に生まれる。貧しいながらも向学心旺盛な家族のもと、四書五経史記を読んで幼年期を過ごす。

15歳の時、阮元によって建設された広東屈指の書院「学海堂」に入学し、戴震段玉裁王念孫に由来する考証学訓詁・名物・制度の学)を修める。

17歳の時、科挙郷試に合格し挙人となった。極めて成績優秀だったことから、この時の試験官李端棻に従妹との縁談をもちかけられて婚約している。中挙後、梁啓超が新会東甲郷祖祠に戻って祖先を拝礼し、祝した。

18歳の時(光緒16年)の春、李端棻が旅費を援助し、父が同行して入京し、宣武門外の永光寺西街新会会館に住み、試験を受ける。朝中の守旧勢力が新しい思潮を排斥したので、中に落ちない。 梁啓超は広東路を経由して上海を経由して、地図「瀛寰志略」を購入。世界に五大陸の各国があることを初めて知った。康有為が広東省南海に帰郷すると、友人の陳千秋とともに面会・歓談し、康有為に勧めて私塾「万木草堂」を開かせた。

それから数カ月間、万木草堂で康有為から公羊学を学ぶと同時に、彼の説く大同思想に感銘を受け、学海堂にもどっては宣伝し老師や学友と論戦した。こうして梁啓超は、康有為と出会って以後、その片腕として活動していくことになる。また、何度か北京に上京した際には譚嗣同と交流し、大同思想王夫之の学問について語り合った。同時に韓雲台と広州衛辺街に学館を設立し、自分の学術的な見解を発表した。さらに、学海堂、菊坂精舎紅綿草堂及び鎮海楼の学生と広く連絡を取り、数百人の友人を作った。万木草堂が育成した学生は、後日維新変法の基幹となる。

変法運動(1895-1898)編集

1895年、科挙の会試を受験するために北京を訪れていた康有為・梁啓超は、この年の日清戦争の敗北による下関条約の内容を知って憤慨する。二人は、同じく北京を訪れていた広東・湖南の挙人ら1200人余りを糾合して講和拒否運動を呼びかけ、康有為を代表とする上書を三度行う(公車上書)。このとき同時に、康有為・梁啓超は政治団体として強学会を結成する。強学会は政府の圧力を受けてすぐに解散してしまうが、このときの会員が「変法派」として変法自強運動の担い手になる。

1896年、変法派の黄遵憲に招かれ、上海で旬刊誌『時務報中国語版』の主筆になる。このとき、寄稿文「変法通議」などを通じて、前近代的な科挙を改めて学校制度を起こすことを説くも、やがて発行禁止となる。翌年の秋には、譚嗣同・黄遵憲・熊希齢らが湖南の長沙に設立した時務学堂の主講となる。このとき、学生に民権論を説くも、反体制的な人物として知れ渡り、王先謙ら保守的知識人によって弾圧されることになる 。

1898年、変法派の主張を容れた光緒帝に招かれ、梁啓超たちは北京で立憲君主制としての革命(上からの改革)に携わる。光緒24年旧暦4月23日(1898年6月11日)、光緒は「明定国是詔」を発布し、改革の決意を表明し、変法はこれから始まる。光緒帝は梁啓超らを召還した。法を変えて5日後に、光緒は康有為を呼び寄せて、つまり梁啓超に『八股をやめてください』を起草してもらって、八股を使って改造して論説を試みて、守旧派の官吏の剛毅と八股の士子達に反対されて、梁啓超を暗殺したいです。旧暦5月15日(1898年7月3日)、翁同龢等の推薦のもと、光緒は梁啓超を召し出す。当時の例によれば、四品以上の京官は皇帝に謁見することができ、梁啓超は一介布衣で皇帝に謁見し、清朝の開国以来前例のないことである。召見の時、梁啓超は北京語を解さなかった為、皇帝も彼の新方言も理解しなかった。全腹経綸、喉に魚の骨が刺さったように、情急に「変法通議」を提出して、六品だけを授与して、皇帝の重用を得ていないで、勅其は京師大学堂翻訳書局の事務を取り扱う。

法を変える措置の策略の上で、康有為は日本の明治維新の経験によって主張して順序を追って漸進します。しかし、譚嗣同や梁啓超らは、温和主義に強く反発し、中国の「積弊疲れ遊戯」に対し、雷万鈞の手段で局面を打破すると主張しました。法を変えて急いで成功を求めて、必要な計画と策略に不足して、一面の混乱をもたらします。旧暦七月十三日、康有為は制度局を宮の中で演奏してもらって、総理の役所と軍機大臣の権力に取って代わるつもりで、朝野上下はきわめて恐れて、死ぬことを誓います。十六日、礼部主事の王照は光緒に日本諸国を遊歴してもらい、各国の状況を視察します。礼部はタルブを懐にして、代わりに贈りたくないと承諾しました。光緒は十九日にタルブ・許応騤堃岫徐会灃溥頲曾広漢などの変法を妨げる六堂官を懐して懲戒し、清朝の開国以来前例のないことで、西太后に処分が重すぎると認めさせ、光緒のやり方に反対した。翌日、光緒は楊鋭劉光第林旭譚嗣同を抜擢して共に四品卿となり、軍機章京を歩いた。七月二十八日、光緒は軍機処の代わり懋勤殿を開き、梁啓超・李端棻などを呼んで新政を協議するつもりです。同日、光緒は頤和園に行き、西太后の批准を求めて差し押さえられた。翌日、密詔康有為は速やかに救出の策を講じる。八月の初め、光緒は新陸軍の直隷を率いて袁世凱を推察し、郎候補を賞し、抱き込みを図った。翌日、光緒はまた密詔を下して、康有為は北京を離れて上海の官報局に赴くよう命じた。翌日の朝、康有為は密詔を受け取った後、梁啓超・譚嗣同達を集めて対策を協議する。譚嗣同は武装で権力を奪う方法を提出して、袁世凱に兵を挙げて勤王を挙げさせ、栄禄を殺して、慈禧を軟禁した。しかし、事態は一転、西太后・袁世凱ら保守派がクーデターを起こし、変法派は弾圧・処刑される(戊戌の政変百日維新)。

日本への亡命(1898年-1911年)編集

友人の譚嗣同が刑死した一方で、梁啓超たちはどうにか逃亡し、日本大使館に亡命を求めた。日本政府はこれを許可し、10月3日に軍艦大島丸に乗船。1898年10月20日、広島港経由で東京に到着する。

東京では、志賀重昂犬養毅柏原文太郎高田早苗といった明治期日本の知識人に歓迎される。当時の日本の印象については、次のように語っている[1]

日本に亡命した時、上昇している新しい国を実際に見て、まるで明け方の風を呼吸するようで、頭も体もすっきりして気持がよかった。ここの役人から職人まで、希望を持って活躍し、勤勉進取の気風に満ちた全てが、昔から無名の小国を新世紀の文明の舞台に立ち上がらせた。腐敗している清政府を振り返ってみると、活力がなく積極性に欠けている。両国を比較し、日本人を愛すべき、慕うべきだとつくづく感じた。

梁啓超はその後、横浜中華街で生活しつつ、ときにはオーストラリアアメリカに赴き、ときには孫文章炳麟ファン・ボイ・チャウといった革命家たちと交流しながら、革命のための言論活動・啓蒙活動を日本の地で展開する。

1898年12月、梁啓超は興中会横浜分会会長の馮鏡如とその弟の馮紫珊が協力して『清議報』を創設しました。創刊後、「少年中国説」「戊戌政変記」「論変法は必ず平満漢の境から始まる」「戊戌六君子伝」などの文章を続々と掲載し。横浜麦孟華中国語版と会社を立ち上げて雑誌『清議報』を創刊、変法自強とともに清国民の意識改革を説いた[2]。また、中華学校の開校にも尽力しており、同年には同地に大同学校(現在の横浜山手中華学校)、さらに翌年には神戸中華同文学校の開校にも携わっている。1902年には『新民叢報』(〜1907年)と月刊誌『新小説』といった諸雑誌をあいついで創刊。1904年東京市で出版した『飲冰室文集類編』上下巻は、新民叢報・正論・国風報に亡命中に寄せた論説を纏めたものである。上巻の『変法通議』では「学校の立は科挙変ずるに有り」と述べ、人材育成の為に師範学校及び女学校の設立に言及し「改造は教育より」と断じた。また同書の『新民説』では、自由を尊び自治・独立を理解する新民が賢君良相を生み、内治と外交が急務であると論じている。

亡命時期の梁啓超は、日本の思潮、文化を積極的に受容する。日本語をある程度読みこなせるようになると、日本語を通じて西欧の思想を積極的に吸収し、それを著作に反映させていった。同朋の中国人に対しても、清では西洋の翻訳は軍事技術のものばかりであるため、日本での翻訳書や日本人が書いた政治経済に関する著作を学ぶことを薦めた[1]。たとえば、上に挙げた雑誌に断続的に掲載された梁の代表作の一つ「自由書」にはヘンリー・バックル福澤諭吉徳富蘇峰の影響が、「新民説」には福沢の『文明論之概略』やブルンチュリ英語版国家有機体説の影響がうかがえる[1]。彼は明治期の日本を通じて、清末の青年たちに向けて中国以外の思想やものの考え方を分かりやすい言葉(新民体)で発信し続けた。1901年5月11日には雑誌『清議報』に「過度時代論」などを発表するなど、この頃はスペンサー社会進化論にもとづいた論文を発表している[2]。また、当時のペンネームとして、吉田松陰に因んで「吉田晋」を名乗ることもあった[3]

亡命時期の梁啓超は、思想変遷を頻繁に起こすことでも知られる。とりわけ革命思想の急進化が著しかった。1898年、日本に来たばかりに、梁啓超は宮崎で紹介され、早稲田大学で孫文・陳少白と会談した。これは孫文と梁啓超が初めて知り合ったため、双方は自分の意見を述べて、両党の協力を討論した。もともと康有為に付いて立憲君主制政治を称揚していたにもかかわらず、大統領制をもつ共和国「大中華民主国」を構想してもいる。急進化の原因としては、宮崎滔天によって変法派と革命派の合作が図られていた(ただし結果的に失敗)ということ、1900年義和団の乱における清朝首脳の定見のなさを目の当たりにしたこと、唐才常の自立軍運動を巡って康有為との間に確執が生じたこと、などが原因だった。しかし康有為の厳しい叱責を受けた後は、その過激さは影を潜め開明専制君主による政治改革を主張するようになる。すなわち1905年中国同盟会の機関誌『民報』が発刊されると「清朝打倒の武力革命は暴動と外国帝国主義の干渉を招いて国を滅ぼすものであり、いまはむしろ開明専制を行うべきだ」と主張して、革命派と対立した。このような思想変遷の激しさに関しては、彼自身が後年反省しているところでもある。

  • 1903年までは「新民説」に代表される、西欧と日本を鏡とした理念的な近代化の議論が多かった。
  • 1905年からは、革命派の影響を受けて「開明専制論」で国家の指導と統一を重視して議会政治が中国では不可能であることを強調した。
  • 1908年からは、またそれを逆転させて清朝の国会開設を全面的に支持。
  • 1910年ごろには、清朝に失望し、初めて激しい批判を投げかけるようになる。

しかし、そこで一貫していた基本理念は、中華民族四大文明の一つを築いた誇り高き民族であるという理念、民族を復興させるには近代的な国民国家の建設が必要だという理念、すなわち帝国主義時代を生き抜くためのナショナリズムであった。

中華民国と政界活動(1912-1920)編集

14年間の亡命生活を経て1912年辛亥革命の翌年に39歳で帰国した[1]1914年8月の膠州湾周辺での日独戦争後に排日論へ転じ、かつて戊戌変法を裏切った袁世凱のもとで進歩党を組織して、熊希齢内閣の司法総長となる。しかし、袁世凱が唱えた帝政(帝政問題)に反対して天津に逃れ。1915年8月22日、梁啓超は「異哉所谓国体問題者」と書いて、「大中華」の雑誌に発表し、袁世凱に帝を称する行為を攻撃し、四億国民に行動して共和制を守るよう呼びかけました。かつて時務学堂の学生であった蔡鍔とともに討袁軍を組織し、護国軍軍務院の撫軍および政務委員長になって、第三革命をすすめた。

袁世凱死後、黎元洪大総統のもとで国会が回復すると憲法研究会を組織し、いわゆる研究系の指導者として活動。段祺瑞内閣のもとで財務総長となり、西原借款にも関係している。しかしわずか4カ月で内閣は崩壊し、1917年8・9月に梁啓超は横浜正金銀行と継続後の1000万円借入契約を締結して、実業建設に用いる予定です。その結果、段祺瑞に内戦経費として流用されて、梁啓超に苦難の言葉があります。11月15日、段祺瑞の用兵は川・湘で失敗し、辞職を願い出る。梁啓超は現在の政局は危険になりつつあり、財政の前途はますます苦しくなり、これに乗じて辞表を提出しました。11月30日、梁啓超は他の「宪法研究系」総長と一緒に内閣を離れました。梁啓超は「革命の成功はほぼ10年で、希望の一つ一つが失われた。政治が混乱していて、中華民国は看板だけが残っています。」

1918年から1920年3月まで、ヴェルサイユ全権大使の顧問としてヨーロッパへ視察団を率いる。イギリス、フランス、ドイツの思想界ともしばしば接触を持ったという。

晩年と思想活動(1921-1929)編集

 
新会区の梁啓超故居
 
北京植物園の梁啓超墓

第一次世界大戦によるヨーロッパの荒廃に少なからず衝撃を受けた梁啓超は、国家主義的で、近代西欧の思想を紹介するそれまでの方法を改め、伝統中国の思想や文化への再評価へと向かい、物質主義的な西洋文明を中国文明の精神と融合させるための学術研究に没頭していくことになる。1923年には清華大学教授、ついで北京図書館の館長となっている。影響力を強めつつあったマルクス主義に対しては、中国には階級的な社会構造が存在せず、共産主義の理念は外来の理論ではなく中国の伝統の中にも求めるべきであるなどの理由で批判的であった。ソ連を赤色帝国主義と断じて排露を主張。一部の地域が赤色共産党員の活動場となっていると評し、当時の現状を嘆く評論が残っている。

1929年、病没。

現在、広東に梁啓超故居が、天津に梁啓超旧居・記念館が、北京植物園墓碑がある。

思想・評価編集

  • 今日では中国語にも多くの和製漢語が使用されているが、その端緒を開いたのは梁啓超であった。胡適毛沢東をはじめ、感化を受けた清末青年は多く、その意味でジャーナリストとしての梁は大きな足跡を残した。同時代の若い知識人は、梁啓超思想と文字の洗礼をほとんど受けていませんでした。後の毛沢東はいつも『新民叢報』で梁啓超の文章を見て、繰り返し読みます。
  • アメリカのジャーナリスト、エドガー・スノーは「中国精神の父」と評した。
  • 日本の伊藤博文首相は「中国の尊い魂」と述べた。
  • 梁啓超は「百科事典式人物」で、今日の中国に大きな影響を与えている。彼は高尚な人情と道徳、博識な学術をもって、博愛な社会革命活動を国内外の人々から高く評価された。 梁啓超は中国学術の新時代を切り開いた。言及に値するのは、中国で最初にマルクス主義の学説を紹介した人物は、李大釗ではなく、梁啓超である。

1902年10月、梁啓超は「新民叢報」第18号に「進化論革命者頡徳の学説」を発表した。「マルクス」「ゲルマン人」「社会主義泰斗」。また、「今のドイツには、最も勢力を占める二大思想があります。今日の社会の弊害は、多くの弱者が少数の強者によって抑えられているとマルクスは言っています。1916年8月、李大釗は梁啓超が創設した「朝刊」の勤務期間中に彼の影響を受けてマルクス主義を宣伝し、共産主義を提唱した。その後、彼は袁世凱を支持して大統領と段祺瑞が執政するが、袁世凱が帝と張勲を称して復辟することに反対した。ヨーロッパ戦が終わったらヨーロッパに遊びに行きます。帰国したら政治界を引退して、著作と講義に専念します。梁啓超は政治論を書きますが、往々にして態度が厳粛ではありません。彼は文章の勢いを重んじていますが、あまりにも派手に言いふらしています。彼は古今東西を論ずるのが好きです。彼は自分でも認めています。文章を書くこと、特に政治論は、勢いで怖がらせ、強弁して理屈っぽいことを言うのが一番いけません。梁啓超はその時文章を書く人は「西洋学」をひけらかすことが好きで、数学、化学、物理と政治を同列に論じることが好きで、自然科学の用語で政論を書いて、いつも多くの笑い話を引き起こします。ニュースの仕事をするには知識が広くて、浅薄さも避けなければなりません。梁啓超が「時事報」を創設したのは確かに大変でした。彼は自分で評論を書き、また他の人の寄稿を修正しました。全部の仕事と複枝の仕事は彼一人で負担します。後に七、八人に増えました。その中の三人の主な助手も広東人です。

  • 1929年1月に梁啓超が病没し、章太炎撰は挽聯に哀悼の意を表した。「上の句:進退上下、式躍在淵、以師長責言、匡復深心姑屈己;下の句:恢詭譎怪、道通為一、逮梟雄僭制、共和再造頼斯人。」

上聯は死者の生涯事業について具体的に評価した。進退上下とは、梁啓超が官途中の浮き沈みを指し、前半生は政治と後半生に入って講義した。式は淵にあり、式は助詞である。『詩経・大雅・旱麓』:「鳶飛戻天魚躍于淵。(とんびが空を飛び、魚が淵に跳ねる。)」梁啓超は政治の舞台で魚が深淵で躍動しているように、進退自在であり、業績は並大抵でない。先生の責任で、1916年に張勲が復活した時、梁啓超と康有為は政見の相違が生じました。康有為と張勲は溥儀の復辟を補佐して、梁啓超は段祺瑞に協力して宣誓して逆を討つことに誓いを立てて、康有為はそのためそれを師門から追い出して、そして本を書いて大いに攻撃します。心を入れ替え、傾く国を取り返して、元の姿に戻したい。つまり共和制度を復活させる目的を達成するために、自分をくやしく思うことがあります。彼と康有為は政見が違っていますが、先生に対する態度はいつも同じです。下の句では、故人は政治的態度が変わりがちだが、帝制の復活に反対する闘争で大きな貢献をしたと述べました。大げさで奇妙である。道通は一つで、『荘子斉物論』を表します。もとは多くの極端な相反するものを言って、例えば1本の小さい草の茎と1本の柱、1人のブスと1人の美人、この大きさの美醜はもともととても矛盾していて、しかし道の観点から見て、また統一したのです。
梁啓超は近世の歴史的事件の中で、観点と立場が変わりましたが、変わった結果は共和という面に変わりました。捕まえる。梟雄は、権制を僭称して、横暴専横な者が不正な手段で政権を謀ったということです。これは袁世凱が帝と張勲を称して復活させて言っています。これらの乱世の梟雄は、皆舞台に上がってひと芝居演じたことがある。「再生共和制度はこの人に依存する」という意味です。この言葉は一定の道理がないわけではないが、明らかに褒め言葉である。この聯は梁啓超の一生の評価に対して、全体的には程合いを把握したほうがいいです。重点は、袁世凱が帝と称する闘争に反対し、共和を再建するために奇功を立てたことにある。また、張勲復辟に反対する闘争の中で、漢室を回復する決心を持っていたことは間違いない。

  • 楊杏仏の挽聯は「文開白話の先河には、功労垂学史があります。政治は青苗一派のようで、ついには英雄を誤らせることになります。」
  • 胡適は梁啓超に対し、「梁氏の筆を使わず、百十孫(文)、黄(興)があっても、これほどの速さで成功するものか。」と言った。胡適の挽聯は「文字収功、神州革命、生平自許、中国新民」。逆に,“中国新民,平生宏許;神州革命,文字奇功。”梁啓超は当時大きな影響力を持っていたからこそ、彼が亡くなった後、天津・上海では公祭が行われ、各界の名流が次々と文章を書いて追悼しています。
  • 黄遵憲は「はらはらしています。一字千金、誰もが書いたものがないのに、人の心の中にあるすべてのものは、鉄の人も感動すべきです。」昔から今まで、文字の力の大きさは、これに勝るものはない。
  • 陳少白も認めました。「国を救うのが彼の目的です。」
  • 厳復は「公妙才に任じて、筆を下すことはできません。日清以後、新聞の文章で、成績は多いです。一枚の紙は海内に風行して、見たところ一つのそびやかさです。」梁啓超は自分の文章を評して「平易暢達、時には俗語、韻語及び外国の文法で、縦筆所は検束しないで、学者は効果を競って、新しい文体と号する。老輩は痛恨して、野狐と中傷する。文章は筋道がはっきりしていて、筆鋒は常に感情を持っています。読者に対しては、一種の魔力があります。」
  • 蔡元培は「保障共和は松坂と同じように不朽であるべきだ。」と述べた。
  • 蔡鍔は「つばが先生に追随して有年、徳の堅さ、学問の淵の広さ、義の堅実さ、愛国の真摯さ、海内を見渡しているような気がします。」
  • 郭沫若は「平心から言えば、梁任公の地位は当時において革命家の代表であったことは間違いない。彼は中国で生まれた封建制度が資本主義に破られた時、時代の使命を帯びて、自由思想を標榜して封建的な残塁と戦った。彼の新しい気鋭的な言論の前では、ほとんどすべての古い思想や古い気風が風の中の敗北の葉のように素晴らしいものを失いました。二十年前の青少年――つまり、当時の有産階級の子弟――賛成であろうと反対であろうと、彼の思想や文字の洗礼を受けたことがない人は一人もいないと言えます。彼はブルジョア革命時代の有力な代弁者であり、彼の功績は章太炎の下にはない。」
  • 梁漱溟は、かつて自分が梁啓超の学問に感心していることをこう表現した。「彼は種々の異なった思想や学術に極めてよく吸収され、最もよく発揮されている。ある時は天真爛漫で、その赤子の心を失わない。その可愛さはここにあります。その偉大さはここにあります。」
  • 郭湛波は「三十年近くの中国思想史」において、梁啓超の思想を分析する専門章を設立しました。新民の言う主旨は新道徳—公徳を建設することです。悪いです。そして、人々は自尊心、集団の思想と気力を持たなければならない。梁啓超のこのような思想は、「実際には西洋資本社会の思想を代表し、数千年の宗法封建思想と大きな洗浄を行う。」と指摘しました。
  • 蕭公権は「だから少壮より病気死に至るまで、終始国を救った新民の責任で自任しています。享年は五十七歳だったが、その生活は雲が波乱に変わり、清末の民初の時局に応えた。梁啓超は「善変」で有名です。戊戌年の変法から、庚子勤王まで、また「新民叢報」を創設し、「新民」思想を宣伝し、民智鼓と呼を開くために。辛亥革命の後、彼は帰国して政治に参加し、二回討伐して復辟し、再び共和を作った。彼は清朝末期の思想の中で儒家の経世の使う伝統を受け継いで、そしてこの伝統を新しい人格と社会の理想に変えて、絶えない「変化」の中で、その目的と目的はずっと不変で、「その方法は変わりますが、そのため国人を愛する者は変わりませんでした。」」と言っています。
  • 鄭振鐸は「彼が頑強に変わらないなら、もう時代遅れになりました。退化しました。すべての遺老遺児と同科になりました。彼が変わらないなら、彼は中国に対する奉献と功績はゼロになるかもしれません。彼の最も偉大なとろは、彼の公明正大な人格のところが彼の「善変」であり、彼の「何度も変わる」ということを表しています。」
  • 常燕生は「国学を整理する面で、梁(啓超)先生の功力、成績は王国維陳垣諸人に勝るとは限らない。一切の軌道に乗っていない国では、社会は思想家より学者を必要とする。千人の王国維の出現は梁啓超の死亡の損失に耐えられません。」
  • 呉其昌は「文体改革は梁啓超の最も偉大な功績であり、俗語の新しい文体(新聞体)を用いて、国民が読むには一日千里の道のりがある。」と言っています。
  • 周恩来鄧穎超記念館では、周恩来が書き写した梁啓超の詩も見られます。梁啓は学問が深く、新旧中西に通じる。彼の文章は非常に感動的だ。
  • 魯迅は1925年に『ことばの糸』を発表した『雑論は余計な世話を焼く・学問をする・灰色などを管理する』に、「京師図書館」が拡張されると書いています。聞くところによると、これは梁啓超先生しかいませんが、残念ながら西学があまり貫かれていないので、北京大教授の李四光先生を副館長にして、中外兼通の完璧な人になりました。

魯迅は1927年9月25日に臺静農へ信に送りました。「ノーベル賞金、梁啓超は自然と似合わないです。私もこのお金を持つには努力が足りないです。世界で私よりいい作家は何ですか?彼らは得られません。私が翻訳した『ジョンさん』を見てください。そこで作れますが、この作者はもらえませんでした。黄色の面の皮の人のためなら、特別に優遇して寛大にして、中国人の虚栄心を十分に高めることができます。本当に他国の大作家と肩を並べることができると思ったら、結果はとても悪いです。」(「ジョンさん」はオランダの作家フレデリック・ヴァン・エデンの『Kleine Johanes』です。)

  • 譚嗣同は「生者がいなくて、将来を求められない。死者はなく、後を呼び戻すものはない。康有為・梁啓超は将来のために行きました。」
  • 梁啓超は知識や学問について書いた文章で、フランスヴォルテール日本福澤諭吉ロシアトルストイを「世界三大啓蒙思想家」のトップとして紹介し、三人の生涯や功績を紹介している[4][1]
  • 革命主義的な政治手法を激しく批判し、「開明専制」という国家主義的な思想を展開したこともあって、長らくその評価はあまり芳しいものではなかった。しかし日本における近年の中国近代史研究においては、梁啓超は研究対象として最も扱われる知識人となっている。その理由は、1980年代以降に起こった歴史学における分析視座の変化と大きく関わっている。第一には、マルクス主義を下敷きにした社会経済史から、言葉や概念の意味の構造と変容に着目する言説分析的な方法論への転換であり、これによって西欧近代の政治思想の文献を中国に精力的に紹介した知識人である梁啓超の役割がクローズアップされることになった。第二には研究上の分析対象が革命運動から「国民国家」に転換し、それによって「国民」や「民族」をはじめとした国民国家に関する近代的な概念や理念を中国に導入し、定着させた梁啓超の存在感が高まったためである。特に梁啓超が日本の文献の翻案によってそうした思想活動を行っていたことも、日本の研究者に重視され続けている理由である。
  • 主義主張が同一人物とは思えないほど思想変遷が激しいことも、梁啓超が長らく批判の対象となってきた一因である。彼自身も1920年に書いた『清代学術概論』の中で、「わが学問は博きを愛することに病む。このために、浅薄で乱雑なのである。最も病んでいるのは定見がないことだ。獲得したと思ったら、たちまちのうちに失ってしまう。あらゆるものは私を見習うべきだとしても、この二つは私のようになってはならない」と自省している[5]。しかし、新しい思想を中国に精力的に導入するに当たって、梁啓超のこうしたフットワークの軽さこそが強みであったと言うこともできるだろう。
  • 2004年には島田虔次狭間直樹京都大学の研究者が中心となって『梁啓超年譜長編』全5巻の翻訳を完成させており(#参考文献)、全生涯に関する史料集として、梁啓超研究だけでなく中国近代史研究全般に有用な史料集として用いられている。

思想及び影響編集

梁啓超が最初に中華民族という概念を打ち出したのは、近代中国民族主義の礎の一つとされています。彼は絶対に過激主義自由主義の改良を促進することに反対します。同時に、梁啓超も中国の近現代史で中国と西洋の大家級の人物を学んで、多い領域ですべて非凡な思想と学術の貢献があります。

ニュース言論思想編集

梁啓超は中国の近代史上の改革家だけでなく、新聞史上の重要人物でもあり、中国の早期新聞・政治論文に大きな貢献をしています。新聞の活動に従事して27年、一生で新聞の17種類を指導することを創立して、「世論の誇り、天縦の文豪」と称されて、時事の文体(白話文)を創始して、中国の初期の新聞学者の戈公振は『新聞学の取り決め』の中で評価します:「我が国の新聞社の台頭、すべての思想の発達、すべて(梁啓超)先生からその端を開けます。」

梁啓超は新聞の機能は「通を求めに行く」と言っています。その二日間の職務は「政府を監督する」「国民を導く」です。「宗旨は高く」「思想は新しく、正」「材料は豊富で、正」「報道は速く」の四つの原則がある。世論五本を健全化する:常識、誠実、直道、公心、節制。芸術を宣伝する:浸潤法、扇情法。

亀手の策を論述する編集

梁啓超は『中国学術思想の変遷の勢いについて』で、魏源の『海国図志』(1843年1月(50巻第一版)が日本明治維新に大きな影響を与えたと指摘し、「亀手の薬ではない」と主張している(『荘子・内篇・逍遥遊』[6])。1851年の「海国図志」(壱百巻版)が日本に現れ、日本維新の変革人士の目を光らせた。当時の著名な維新思想家である佐久間象山は、「海国図志」「夷をもって夷を制す」という主張を読んで、感慨を禁じ得なかった。私と魏源真は海外の同志です。」魏源思想に導かれて、佐久間象山は西洋人を排斥してから西洋との関係を発展させるという大きな変化を思想的に実現しました。彼は全世界の情勢から日本の方略を考えると主張しています。一時期、日本の各階層の人たちは互いに本を借り合い始めました。すぐに二十数種類の『海国図志』の写本が現れて、全日本を風靡しました。日本は中国のアヘン戦争の二の舞を踏む危険にさらされているという認識に、各界は不安を感じています。対照的に、大清の各階層はこのような意識を持っていない。

もう一人の維新志士の横井小楠も、「海国図志」を読んで啓発され、佐久間象山と共に日本の「開国論」を提出しました。彼らは「海国図志」の精髄を吸収し、日本の発展の道は必ず「東洋道徳と西洋技術の結合」であると指摘しました。「師夷の長技を以て夷を制す」ということを実現するだけではなく、自国の工業を発展させ、対等な対外貿易を展開するだけでなく、民主制度を推し進め、徳川幕府の封建統治を覆すことが重要である。

中国の早期証券市場問題解決原則編集

梁啓超は「中国人は見習うことが下手で、会社の名前を慕っているだけで、会社の実際を受験しない」と話した。「トラストは、原語がtrustで、訳語が『手紙』でも……多くの有限会社は互いに協力して、その全権をもって少数の人に委託して、大衆のために信用者を使うので、有名です。信用です。多くの有限会社は互いに協力して、その全権をもって少数の人たちに信用されている人たちに委託します」つまり、少数の信用者が企業を経営しています。信用とは何ですか?信託責任です。彼は当時の株式市場は信頼責任に欠けていたと考えています。

宣統二年、梁啓超は文章を書いて株式会社を語った。株式会社は強力な法治国家でなければ生存できない。中国では、法治とは何かが分かりません。株式会社は、責任感の強い国民でなければ成功できない。実は清の光緒二十九年に中国に会社法があります。当時は「会社律」と呼ばれていました。律文が無鉄砲で、滅裂で、何の価値もない。律文が完璧でも、実行しません。梁啓超は、イギリス人がビジネスで天下を支えているのは、信託責任のためだと考えています。その魂は1929年の米株式市場が崩壊した後、1934年に制定された「証券取引法」の精神と同じである。

1922年、狂気の株取引ブームがついに幕を閉じた。つなぎにくい取引所が次々と倒産し、生き残った取引所は6社しかなく、信託会社も2社しか残っていません。梁啓超は株式市場のバブルと称しています。これは大きく広げた時、間もなく散る時と言います。彼は当時、康熙五十六年という面白い例を示しました。当時イギリスの株式市場はとても盛んに行われました。株価は何倍も値上がりしました。当時、誰が株を売買していたか知っていますか?アイザック・ニュートンです。ニュートンの株売買はどうやって炒めるのですか?彼の友達に手紙を書いて、友達に株を買ってもらいました。結局買ったらこの会社は倒産しました。そのため、梁啓超は、このニュートンを友人に依頼して株の買い替えを依頼したという。

著作編集

著述のほとんどは『飲冰室合集』(1932年)に収められている。1936年9月11日に出版された『飲冰室合集』がより完備されています。計148巻、1000万字余り。また全著作名は『梁啓超著述繋年』(1986年)で確認できる。以下は膨大な著作のうち、主要著作のみ挙げた。

  • 1898年『戊戌政変記』
  • 1902年『新民説』
  • 1902年『十五小豪傑』(翻訳=ジュール・ヴェルヌ作、森田思軒訳『十五少年』の重訳)
  • 1904年『飲冰室文集類編上』、『飲冰室文集類編下』
  • 1921年『清代学術概論』
  • 1921年『墨子学案』
  • 1922年『先秦政治思想史』
  • 1922年『中国歴史研究法』
  • 1926年『中国近三百年学術史』

梁啓超など多数のペンネームをもつ編集

梁任公、飲冰子、飲冰室主人、梁任甫、梁卓如、梁宏猷、双濤閣主、愛国者、哀時客、新民叢報記者、吉田晋、(柏原文太郎)、檀山旅客、蓮菂園主、適時務者、兼士、軼賜、滄江、賃廬、遠公、孟遠、憲民、逸史氏、外史氏、新史氏、庸言子、新民子、知新子、中国少年、中国之新民、少年中国之少年、自由斎主人、如晦庵主人、梁新会

脚注編集

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  1. ^ a b c d e 馮寶華『梁啓超と日本:福沢諭吉の啓蒙思想との関連を中心に』東京大学比較文学・文化論集. 14号, 1997, pp. 49-62
  2. ^ a b 「「過渡時代論」に見る梁啓超の"過渡"観」若杉邦子、九州大学中国文学論集22,p49-66,1993
  3. ^ 郭連友「梁啓超と吉田松陰」、お茶の水女子大学『「魅力ある大学院教育」イニシアティブ 平成18年度活動報告書 : シンポジウム編』2007年。[1]
  4. ^ 鳥井克之訳 卞崇道「福沢諭吉」 『近代日本の哲学者』 北樹出版 1990年 120項
  5. ^ 小野和子訳『清代学術概論―中国のルネッサンス』
  6. ^ 『荘子・内篇・逍遥遊』:恵子謂荘子曰:“魏王貽我大瓠之種,我樹之成而実五石。以盛水漿,其堅不能自挙也;剖之以為瓢,則瓠落無所容。非不号然大也,吾為其無用而掊之。”荘子曰:“夫子固拙于用大矣!宋人有善為不亀手之薬者,世世以洴澼絖(へいへきこう)為事。”客聞之,請買其方百金。聚族而謀曰:“我世世為洴澼絖,不過数金;今一朝而鬻技百金,請与之。”客得之,以説呉王。越有難,呉王使之将。冬与越人水戦,大敗越人,裂地而封之。能不亀手一也,或以封,或不免于洴澼絖,則所用之異也。今子有五石之瓠,何不慮以為大樽,而浮乎江湖?而憂其瓠落無所容?則夫子猶有蓬之心也夫!

参考文献編集

  • 梁啓超『清代学術概論―中国のルネッサンス』 小野和子訳、平凡社東洋文庫、1974年 ISBN 458-2802451、ワイド版2003年
  • 馮寶華『梁啓超と日本:福沢諭吉の啓蒙思想との関連を中心に』東京大学比較文学・文化研究会 1997年hdl:2261/48873

著書編集

研究書編集

研究論文編集

関連項目編集

外部リンク編集


脚注編集


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