梁 成(りょう せい、? - 383年)は、五胡十六国時代前秦軍人。父は前秦の鎮北大将軍・朔方侯梁平老。梁成自身の出身は史書に明記されていないが、梁平老は略陽郡の出身である。前秦の勢力拡大に貢献したが、淝水の戦いの前哨戦で討死した。

生涯 編集

前秦に仕え、建威将軍に任じられた。

369年11月、輔国将軍王猛・建武将軍鄧羌と共に歩騎3万を率いて前燕討伐に向かった。12月、洛州刺史慕容筑が守る洛陽へ侵攻した。

370年1月、前燕の衛大将軍慕容臧が精鋭10万を従えて洛陽救援へ到来すると、梁成は鄧羌と共にこれを迎え撃つと、精鋭1万を率いて兵に軽装させて急進し、慕容臧を滎陽において大破した。これにより戦意喪失した慕容筑は降伏した。

後に中塁将軍に任じられた。

371年2月、兗州刺史に任じられた。

379年2月、南中郎将・都督荊揚二州諸軍事・荊州刺史・領護南蛮校尉[1]に任じられ、1万の兵を配されて襄陽を鎮守した。後に衛軍将軍[2]に任じられた。

383年8月、苻堅は東晋攻略を決行すると、陽平公苻融に歩兵騎兵総勢25万を与えて出撃させ、梁成もまたこれに従軍した。

10月、梁成は揚州刺史王顕・弋陽郡太守王詠とともに5万の兵を率いて洛澗に駐屯した。梁成は柵を築いて、東晋軍の進行を阻んだ。梁成軍は東晋軍を度々破ったので、東晋軍は洛澗から25里離れて対峙していたが、梁成軍を憚って進めずにいた。

11月、東晋の冠軍将軍謝玄は鷹揚将軍劉牢之に5千の兵を与えて洛澗にある梁成の砦を夜襲した。敵軍が十里の距離まで接近すると、梁成は陣を隊列させて澗を阻んで劉牢之を待ち受けようとしたが、劉牢之はその直前に川を渡り切って梁成を攻撃した。梁成は大敗を喫して戦死し、弟の梁雲[3]・王詠をはじめ10将が打ち取られた。劉牢之は兵を分けて敵の退路を断ったので、前秦軍は崩壊し、みな争って淮水へ赴き、死者は1万5千を数えた。王顕[4]・梁他・梁悌・慕容屈氏らが捕らえられ、武器や物資は尽く奪われた。

脚注 編集

  1. ^ 『資治通鑑』巻104では、梁成の荊州刺史抜擢に関して、前秦の天王苻堅がその才能と人望に敬意をもって抜擢したと記されている
  2. ^ 『資治通鑑』巻105では、衛将軍と記されている
  3. ^ 『晋書』巻84 劉牢之
  4. ^ 『晋書』巻114では、王顕も討ち取られたと記されている

参考文献 編集

関連事項 編集