梅原 北明(うめはら ほくめい、1901年1月15日 - 1946年4月5日)は、日本作家編集者。本名は梅原貞康。昭和初期のエログロナンセンス文化を代表する出版人である。宗教研究家の梅原正紀は息子。別名・烏山朝太郎、談奇館主人、大塚倭堂、吾妻大陸ほか多数。

グロテスク』新年号の発禁を伝える『読売新聞』1928年12月30日付朝刊広告

人物編集

 
梅原北明が1928年に起こした出版法違反事件(27件)の決着を祝って1929年3月20日に関係者40数名を集めて華々しく催された「梅原北明罰金刑祝賀会」の様子[1]。北明は官憲相手に諧謔エログロで無意味なまでに対抗する姿勢を見せつけたことで「猥本の出版狂」とも呼ばれていた。
 
グロテスク』復刊号/1931年4月号。表紙には「侮り難きヨタ雑誌」「エログロの総本山」という言葉が並び、内容的にも華々しさより焼け糞さが目立つ復刊であった。

1901年、富山県富山市士族の次男として生まれる[注釈 1]。父・貞義は生命保険の代理店を営んでおり、生活はゆとりがあったとされる[2]。京都の平安中学を卒業し、早稲田大学予科に進学。同校在学中に片山潜のグループと接し、社会主義思想に触れた。1920年に中退して関西で部落解放運動に従事。1924年から新聞社や雑誌社に勤める傍ら小説を執筆。梅原北明としては『殺人会社―悪魔主義全盛時代』前編(アカネ書房)が処女出版となる。

1925年に『デカメロン』を翻訳出版し世評を獲得するが、下巻が発禁処分を受け、後日改訂版を発刊している[注釈 2]。その理由をその翌々年に國際文獻刊行會より上梓した『エプタメロン』下巻に挿入された「飜譯の誤謬に就いて」の中で「姦通譚を其のまま訳した」と述べている。そのため『エプタメロン』では発禁処分を避けるため、妻を「戀人」と訂し、夫婦間を「戀人と愛人の間」と訂したとしている。

1925年11月にはプロレタリア作家を擁した特殊風俗誌『文藝市場』(上海移転後『カーマ・シャストラ』に改題)創刊。他多数のアングラ雑誌・書籍を多数発刊し、出版法違反で前科1犯となる。また文藝市場社内に文藝資料研究会を置き、1926年から『変態十二史』と会員誌『変態資料』(文藝資料編輯部)を刊行。『変態資料』には伊藤晴雨が撮影した逆さ吊りの妊婦写真が掲載され、大いに物議を醸した。

彼の業績の中で、よく知られたものとして、1928年11月から1931年8月まで何度も発禁処分を受けながらも出版をつづけた雑誌グロテスク (GROTESQUE)(全21冊)があげられる。当局の弾圧をかわすためグロテスク社、文藝市場社、談奇館書局など数回にわたり発行所の変更を余儀なくされた。

『グロテスク』が終盤を迎えた頃、古新聞漁りの集大成といえる『近世社会大驚異全史』を刊行。菊判2100ページに及ぶ「焼糞の決死的道楽出版」であった。しかし、お上に睨まれて上海に逃亡し、1932年には性文献と艶笑本の出版活動から完全に手を引く。その後は大阪の女学校で教員をしたり、劇場支配人として日劇を再建したり、靖国神社の職員だったこともある。また生計費は大衆小説を書いて捻出しており、メジャー誌の『少年倶楽部』『富士』『新青年』などにも吾妻大陸のペンネームで寄稿していた。

敗戦の翌年、カストリ雑誌の大ブームを見ることなく、発疹チフスに倒れた[注釈 3]。享年45。

生前は今東光村山知義らと親交があった。小笠原長生中将も彼のファンであり『変態資料』の会員でもあった。また山本五十六とも賭博仲間だったという。野坂昭如の『好色の魂』は梅原北明(小説では貝原北辰)をモデルにした長編小説である。

著作編集

著書・編著書編集

翻訳編集

  • ボッカチヨ『全譯デカメロン(十日物語)』南欧芸術刊行会 1925
  • エ・エル・ウイリアムス『露西亜大革命史』杉井忍共訳 朝香屋書店 1925
  • ナヴァル女王『世界奇書異聞類聚第四巻・第五巻 エプタメロン』國際文獻刊行會 1926、1927
  • フエリシアン・シヤンスール『サメヤマ』酒井潔共訳 文芸市場社 1929
  • 『世界性愛談奇全集 第5巻 世界艶情小説集』小生夢坊共訳 山東社 1931
  • 『世界性愛談奇全集 第1巻 恋愛術』訳述 山東社 1931
  • ウィルヘルム・マイテル『バルカン・クリーゲ河出文庫 1997

脚注編集

注釈編集

  1. ^ 北明の長男・梅原正紀は「梅原北明 その足跡」[2]で「祖父は富山藩の勘定奉行であったという」と記しているものの、「富山藩士由緒書」[3]によれば梅原家は代々、富山藩で蒔絵師を務めていたことがわかる。北明の祖父をめぐっては野坂昭如の『好色の魂』でも「前田藩勘定奉行」だったとされており、梅原家もそういう役職にふさわしい富家であったように描かれているものの、「富山藩士由緒書」で裏付けられるのは代々、塗師方で蒔絵師を務める拾人扶持の下級武士に過ぎなかったという事実。なお、「明治2年士族分限帳」[4]によれば、明治2年当時の梅原家当主・平作(諱は「貞一」)の身分は「一等士族直衛」。
  2. ^ 奥付けを見ると1925年(大正14年)10月5日に初版印刷されているが、10月10日に発売禁止となり、11月25日に訂正初版発行となっている。
  3. ^ 「病名は発疹チフスで、東京へ通う列車の中でシラミを経由して伝染したのである。ダンディーな身だしなみのいい男として知られた北明が、そうした病気で倒れたのは運命の皮肉であった。高熱が一週間も続き、死ぬ前日には、脳症を起こして意識は混濁していたが、ボクが朝刊を持って病室に入っていくと、父はつと手を伸ばし、新間をとりあげ、手でかざして読もうとした。しかし、なんとしても新聞を手でかざすことができず、新聞は、父の顔にバサリと落ちた。活字とともに生きてきた男の反射的動作の中に、まだ自分は生きて仕事をしなければならないのだという執念がこもっていた。しかし、その時はおそかった。北明が息をひきとったのは昭和二十一年四月五日のことである」梅原正紀『近代奇人伝』大陸書房、1978年、252頁。

出典編集

  1. ^ 秋田昌美『性の猟奇モダン―日本変態研究往来』青弓社 1994年9月 56頁。
  2. ^ a b 『ドキュメント日本人』 6巻、学芸書林、1968年10月、221頁。 
  3. ^ 『越中資料集成』 2巻、桂書房、1988年7月、873-874頁。 
  4. ^ 『越中資料集成』 1巻、桂書房、1987年3月、334頁。 

参考文献編集

関連書籍編集

  • 思想の科学研究会思想の科学』1962年11月号, pp.95-104
    • 虫明亜呂無「転換期の風流 エログロ文化の創始者・梅原北明」
  • 大衆文学研究会/南北社『大衆文学研究』1964年3月
    • 梅原正紀「ベールをはがす者・梅原北明」
  • 城市郎『続・発禁本―「ヰタ・セクスアリス」から「ファニー・ヒル」まで』桃源社、1965年11月
  • 檸檬社黒の手帖』1971年11月号「特集:評伝―伊藤晴雨/高橋鐵/梅原北明/稲垣足穂」pp.58-62
    • 梅原理子「梅原北明 ポルノ出版の帝王―反逆、諧謔の一生」
  • 文藝春秋文藝春秋』1973年12月号, pp.354-362
    • 梅原正紀「わが父・梅原北明―エロ・グロ時代、艶本とともに生きた男のすさまじい執念」
  • 財団法人日本近代文学館編『文藝市場/復刻版 別冊』1976年5月(梅原正紀村山知義瀬沼茂樹の解説付)
  • 人魚書房『初版本2』2007年12月, pp.54-60
    • 佐々木宏明「文芸市場社以前の梅原北明」

関連項目編集

  • メリケンお浜 - 戦前、横浜本牧チャブ屋街で売れっ子だった遊女。梅原と「性の決闘」を果たした。
  • カストリ雑誌 - 太平洋戦争終結直後の日本で、質の悪い粗悪な紙で発行された大衆向け娯楽雑誌。出版自由化を機に昭和20年代半ばまでブームは続いた。『グロテスク』などのスタイルを継承している面がある。

外部リンク編集