梅津栄

日本の俳優(1928−2016)

梅津 栄(うめづ さかえ、1928年昭和3年〉[注 1]7月5日[1] - 2016年平成28年〉8月6日)は、日本俳優富山県下新川郡泊町(現・朝日町)出身。身長167cm体重80kg。本名:梅津 榮(うめづ しげる)[注 2]。 元同人会ミヤプロ[1]、ヒトメディア所属、晩年は芸能事務所DualProduction所属であった。

うめづ さかえ
梅津 栄
本名 梅津 榮(うめづ しげる)
生年月日 (1928-07-05) 1928年7月5日
没年月日 (2016-08-06) 2016年8月6日(88歳没)
出生地 日本の旗 日本富山県下新川郡泊町(現・朝日町)
死没地 日本の旗 日本
国籍 日本の旗 日本
民族 日本人
身長 167cm
職業 俳優
ジャンル 映画テレビドラマ
配偶者 あり
主な作品
テレビドラマ
非情のライセンス』〈第1シリーズ〉
必殺仕事人IV
必殺仕事人V
義経
テンプレートを表示

来歴・人物 編集

富山県[1]下新川郡泊町(現・朝日町)出身。

富山県立富山工業学校(現在の富山県立富山工業高等学校)[1]機械科を卒業。

父を亡くし、紡績工場に勤めるが、1951年に俳優を志して上京[2]舞台芸術学院入学(2期生[1])。その後、木村功の付き人になる。俳優を目指した動機は「桂木洋子に憧れ、ひょっとしたら共演できるんじゃないかと思ったため」と述べている[2]

若い頃から老け役として活躍。老け役を演じるため、若いうちに総入れ歯にしていた。

「俺は庶民俳優だから」と称し[2]悪役からコミカルな三枚目・とぼけた役・シリアスな役柄等演技の幅は広く、名作からコメディまで内容を選ばなかった。また、若手の俳優と絡む様な場面でも決して偉ぶることなく、自分より経験の浅い俳優の演技をサポートしつつも自らの仕事を全力でこなしていたという。

キネマ旬報』のインタビューでは「傍役ってのは、でも、屈辱の世界ですわな」と漏らしており、少ない出演シーンで要求されるものを表現せねばならない難しさと苦労を語っている[2]。新しい仕事の前日には眠れないと明かしており「どういうのかしらん?緊張しとるんでしょうね」と話している[2]。なおこのインタビューでは「恥ずかしいからどうしても書かないでください」と梅津が頼んだため、生年は「昭和ひとけた」としか明かされなかった。

時代劇で公家役を演じる際には江戸時代の公家の習俗を夫人の助力で調査した(「『〜おじゃる』という言葉遣いを初めて使用した」と本人がコメントしている)[要出典]

私生活では一男一女の父[2]。趣味は水彩画陶器収集、画廊巡り。書家としても活動していた。歌手の島倉千代子のファンだった[2]

2016年8月6日午前2時30分、肝硬変のため都内の病院で死去。満88歳没(享年89)[3]。 葬儀は近親者で営んだ。

出演 編集

テレビドラマ 編集

映画 編集

オリジナルビデオ 編集

舞台 編集

  • 曽根崎心中 お初燃える恋
  • ペリクリーズ
  • マクベス
  • Love Me Tonight

ネットドラマ 編集

  • Seventh Tarz and Legend Guitar (2007年)

情報番組 編集

ラジオ 編集

CD・DVD 編集

バラエティ 編集

その他 編集

  • ニュース富山人のロゴの『富山人』の字は梅津の揮毫である(現在は使われていない。)

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 誕生年は1929年[1]1930年説もあるが、1995年3月13日に「森田一義アワー 笑っていいとも!」の「テレフォンショッキング」出演時には「66歳」と話していた。
  2. ^ 芸名と同じとする資料もある[1]

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g 日本タレント名鑑'82』VIPタイムズ社、1981年、33頁。 
  2. ^ a b c d e f g 野村正昭「ニッポン個性派時代26 梅津栄」『キネマ旬報』No.746 10月下旬号、株式会社キネマ旬報社、10-15、114-115頁。 
  3. ^ “訃報:梅津栄さん88歳=俳優”. 毎日新聞. (2016年9月2日). https://mainichi.jp/articles/20160902/k00/00m/060/117000c 2016年9月2日閲覧。 
  4. ^ 『円谷プロ画報』竹書房、2013年8月9日、232頁。ISBN 978-4-8124-9491-2 

関連項目 編集

外部リンク 編集