梨本徳彦
梨本 徳彦(なしもと のりひこ、1922年(大正11年)11月19日 - 2007年(平成19年)2月7日)は、日本の海軍軍人、皇族、華族。位階は従四位。勲等は勲一等。爵位は伯爵。最終階級は海軍大尉。お印は鳳凰[1]。梨本家(旧梨本宮家)前当主。皇族時代は徳彦王(久邇宮家)といい、臣籍降下後に梨本伊都子(梨本宮守正王妃)の養子となるまでは龍田 徳彦という。
梨本 徳彦 | |
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龍田伯爵(1943年 - 1947年) | |
![]() 束帯姿の徳彦王 | |
続柄 | 多嘉王第三男子 |
身位 | 王→臣籍降下 |
敬称 |
殿下→臣籍降下 His Imperial Highness |
お印 | 鳳凰 |
出生 |
1922年11月19日 京都府京都市 |
死去 |
2007年2月7日(84歳没) |
配偶者 | 久邇正子(正子女王、1945年 - 1980年離婚) |
子女 |
龍田徳久 龍田豊子 龍田鑑代子 |
父親 | 多嘉王 |
母親 | 多嘉王妃静子 |
役職 | 貴族院議員 |
生涯編集
1922年(大正11年)11月19日、久邇宮家の多嘉王と静子妃の第三王子として生まれる。1942年(昭和17年)、海軍兵学校を卒業(第71期)。同期には野村実など。同年11月に貴族院皇族議員となる。
1943年(昭和18年)4月2日、勲一等旭日桐花大綬章を受章。同年6月に旧皇室典範増補第1条に基づき、本人の情願により、一時金を賜って臣籍降下し、龍田伯爵家を創設する。これに伴い、貴族院皇族議員を失職した。昭和天皇より賜った「龍田」の家名は、近江国の久邇宮家旧領地にある龍田神社にちなんだものとされる。1945年(昭和20年)4月22日に久邇宮朝融王第一女子の正子女王と結婚する。
終戦時は海軍大尉であった。戦後は松下電器産業・東京丸物(パルコの前身)などに勤務し、松下電器時代にはニュース映画で「はたらく貴族」と題して紹介された[2]。ただ旧皇族の肩書きを利用されることもあって不快だったという[1]。1966年(昭和41年)に、夫婦揃って梨本宮守正王妃であった梨本伊都子の養子(夫婦養子)となって祭祀を継承する[3]。姪夫婦が梨本家の後継者となったことに、香淳皇后は大変喜んだという。しかし、妻の正子とは1980年(昭和55年)に調停離婚した。その後、同居していた愛人も病で倒れ、独り暮らしとなる。晩年には自らのお印に由来する「鳳凰会」の総裁となったが、金銭管理に関わるトラブルに巻き込まれていた。
2002年(平成14年)11月、皇族と血縁関係の無い神林隆夫を養子に迎える[4]。なお、長男の龍田徳久は、両親の離婚後は徳彦と疎遠になったため、どのような経緯で養子縁組に至ったかは分からないと語っている。
2007年(平成19年)2月7日、死去。84歳没。テレビ番組『驚きももの木20世紀』の東久邇宮稔彦王を取り上げた番組に出演したことがある。
栄典編集
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[5]
血縁編集
脚注編集
- ^ a b 小田部雄次『天皇と宮家-消えた十一宮家と孤立する天皇家』新人物往来社、2010年、259頁。
- ^ 日本ニュース戦後編第36号|NHK戦争証言アーカイブス
- ^ 夫婦養子のため、子女は龍田姓のままである。
- ^ 日本の巫女が宗廟祭礼に参加し論議に - 朝鮮日報
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
外部リンク編集
日本の爵位 | ||
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先代: 叙爵 |
伯爵 龍田家初代 1943年 - 1947年 |
次代: (華族制度廃止) |