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梶原 平馬(かじわら へいま、天保13年(1842年)? - 明治22年(1889年3月23日)は、幕末の会津藩家老

目次

生涯編集

内藤家に生まれ、梶原景保の養子となる。梶原家の遠祖は梶原景時で、家禄1000石であった。最初の妻・二葉山川浩山川健次郎大山捨松の姉。一子・景清は二葉が養育し、のち海軍軍医大佐[1]となった。音楽評論で知られる四谷左門は、景清の長男影浩の筆名。

幕末編集

藩主・松平容保京都守護職在任中は側近として仕えた。慶応2年(1866年)、家老に就任。鳥羽・伏見の戦いに敗れたのち、平馬は江戸で資金、軍備の調達にあたり、桑名藩主・松平定敬越後長岡藩家老・河井継之助とともに汽船で新潟に上陸し会津へ帰還した。スネル兄弟の協力を得ている[2]。その後、会津藩において奥羽越列藩同盟の結成に主導的役割を果たしたとされる。会津戦争の際、会津若松城に籠城したが、平馬は政務を総監した。西郷頼母を追放し、頼母暗殺指令を下した[3]が、命を受けた大沼城之介、芦沢生太郎は実行しなかった。敗戦を迎え、降服式において平馬は藩主父子の助命嘆願を行っている。藩主父子が鳥取藩江戸屋敷に幽閉された際は、平馬も随行している。会津藩の責任者として切腹することとなった萱野権兵衛にその命を伝える役を務めた。

明治編集

その後、斗南に移住し青森県庶務課長となったが、短期間で辞職し根室へ移住した。会津藩関係者のなかでも長く消息が不明であったが、昭和63年(1988年)に墓が根室市で発見された。梶原景雄と名乗っていたという。2人目の妻である貞は私立小学校の校長を務めた教育者であった[4]

内藤一族の自刃編集

平馬の実家である内藤家は、武田信玄麾下の内藤昌豊の流れをくむ藩内の名門であった。家禄は2200石である。実父・内藤信順[5]は家老を務め幕末には既に隠居し、平馬の兄・内藤信節が家督を継ぎ家老職にあった。慶応4年8月23日1868年10月8日)、会津若松城下に新政府軍が迫った。信順らは入城することができず、親類である若年寄・上田八郎右衛門の一家と菩提所である泰雲寺に避難した。9月17日11月1日)、敵迫るとの知らせを受け、内藤一族は上田家とともに自刃した。内藤家は信順(67)、妻(58)、娘4人(23,19,17,不詳)、信節の妻(23)、孫2人(6,3)。上田家は八郎右衛門の父である伊閑(61)、妻(58)、妹(56)、娘(30)、孫(9)。内藤家家臣4人も自刃し、場を離れていた従僕は後を寺に頼み、主人一家の跡をおったという。[6][7]

平馬の末弟である武川信臣は彰義隊に参加し信意隊長となったが、上野戦争後に捕らえられ、斬首された。

関連作品編集

テレビドラマ

参考文献編集

  • 会津会会報第11号『会津殉節婦人の事蹟』
  • 会津郷土資料研究所『慶応年間 会津藩士人名録』勉強堂書店
  • 石光真人編著『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』中公新書
  • 小島一男『会津人物事典(武人編)』歴史春秋社
  • 綱淵謙錠『松平容保のすべて』新人物往来社
  • 長谷川つとむ[8]『会津藩 最後の首席家老』新人物往来社のち中公文庫
  • 星亮一『奥羽越列藩同盟』中公新書

脚注・出典編集

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  1. ^ 『日本海軍士官総覧』
  2. ^ 『奥羽越列藩同盟』第1章
  3. ^ 『会津人物事典(武人編)』
  4. ^ 『奥羽越列藩同盟』第3章
  5. ^ 「信頼」ともいう。
  6. ^ ()内の数字は年齢。
  7. ^ 会津会会報第11号。なお「薩藩出軍戦状二」に目撃談がある。
  8. ^ 平馬の一族