梶川 一秀(かじかわ かずひで、天文7年(1538年) - 天正7年(1579年9月)は、戦国時代の武将。梶川高秀の弟。子に梶川秀利、梶川分勝[1]。通称七郎右衛門

略歴 編集

織田信長に仕え、尾張国端成城に住む。永禄3年(1560年)桶狭間の戦い今川義元を攻める際、中島砦において交戦し軍功を立てたため [2]、鳴海に300貫の地を与えられた。

天正7年(1579年)、荒木村重伊丹城を攻める際に討死(有岡城の戦い[1]。享年42。法名浄真。

参考文献 編集

  • 『新訂寛政重修諸家譜第8』(群書類従完成会、1965年、218p)
  • 『概説静岡県史』(谷島屋書店 、1935年、161p)

脚注 編集