梶正道
梶 正道(かじ まさみち)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 天文20年(1551年) |
死没 | 慶長19年2月13日(1614年3月23日) |
別名 | 勝忠(諱)、金平、次郎兵衛、淡路 |
戒名 | 浄白 |
墓所 | 浄土寺(三重県桑名市) |
主君 | 徳川家康、本多忠勝 |
氏族 | 梶氏(能見松平家支流?) |
父母 |
梶彦十郎 松平忠澄、梶五郎兵衛の娘(異説) |
妻 | 松平助左衛門の娘 |
子 |
正勝、勝成、女子、勝加平治室、渡辺勝綱室、菅沼定栄室 正直 |
生涯編集
梶氏は平氏を称し、父の彦十郎の代には松平氏に仕えていた。一説には能見松平家の庶流が梶姓を称したともいう。
永禄2年(1559年)9歳で徳川家康に出仕し、長じて使番となり、三河足助に4000石に領した。永禄7年(1564年)一宮後詰めに従軍して武功を立てた。永禄9年(1566年)からは本多忠勝配下の侍大将となり、しばしば先陣を務めた。天正3年(1575年)長篠の戦いに従軍した際、自軍の旗を捨てて逃走する武田兵を徳川兵が罵った際、武田兵は「無用の旧物であるから捨てたのだ」と答えた。これに際し正道は「戦死した馬場信春や山県昌景の首も無用の旧物なのか」と反論したという。
天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いでは援軍として出馬した羽柴秀吉の追撃戦で活躍し、戸田一西・村上弥右衛門と共に「長久手の三盃」と称された。天正18年(1590年)小田原征伐では特に岩槻城攻撃で武功があった。関ヶ原の戦いの後、桜井勝成・渡辺則綱らとともに本多家を辞して直参になる事を要請したが慰留された。慶長19年(1614年)桑名で没す。子の正勝は本多家を辞して旗本に取り立てられた。
参考文献編集
- 「寛政重修諸家譜」巻第564