森悌次郎

山形県鶴岡市出身の体育学者、大学教授、サッカー選手

森 悌次郎(もり ていじろう、 1896年1月25日 - 1969年7月13日)は、山形県鶴岡市出身の体育学者、大学教授、サッカー選手

森 悌次郎
名前
カタカナ モリ テイジロウ
ラテン文字 MORI Teijiro
基本情報
生年月日 1896年1月25日[1]
大日本帝国の旗 大日本帝国, 山形県鶴岡市
没年月日 (1969-07-13) 1969年7月13日(73歳没)
日本の旗 日本, 東京都渋谷区
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
東京高等師範学校
代表歴
1921 日本の旗 日本 0 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

人物 編集

1916年3月に山形県立荘内中学校(現:山形県立鶴岡南高等学校)を卒業[1]東京高等師範学校に入学し、蹴球部に入部した。在学中の1921年6月に開催された第5回極東選手権競技大会サッカー日本代表に選出され、2試合に出場した[2]

1923年3月に東京高師本科体育科甲組を卒業し、同年4月より東京高師の助手兼助教諭に任じられた[1]。1925年4月に東京女子体操音楽学校の講師となり、1926年から1年間体操の研究のためにドイツ国に留学した。1927年8月に東京高師の助教授兼助教諭となった。

1936年にベルリンオリンピック日本選手団の体操の役員(監督)を務めた。1941年4月に東京高師の生徒主事兼助教授、1944年4月に東京女子体育専門学校の講師、1949年6月にお茶の水女子大学の教授兼学生部長を歴任。1950年4月、東京女子体育短期大学(学校法人藤村学園)の教授に就任。1951年1月、学校法人藤村学園の理事に就任。1961年3月、お茶の水女子大学を定年退職した。

1962年4月に東京女子体育大学の学生部長、1965年1月に東京女子体育大学の副学長、1967年4月に東京女子体育大学の学長を歴任した。1969年4月に全日本大学バレーボール連盟の理事長に就任した[1]

1969年7月13日東京都渋谷区東京体育館で開催されていた全日本バレーボール大学男子選手権の表彰式でメダルを授与していた際に倒れて、急性心不全により死去した[3]

死去した7月13日に勲三等旭日中綬章従三位に叙された[1]

代表歴 編集

出場大会 編集

試合数 編集


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1921 0 0 2 0 2 0
通算 0 0 2 0 2 0

出典 編集

  1. ^ a b c d e 東京女子体育大学紀要”. 東京女子体育大学. 2016年9月10日閲覧。
  2. ^ 第5回極東選手権大会”. 日本サッカー協会. 2016年9月10日閲覧。
  3. ^ 「メダル授与中 森会長が死去」朝日新聞、1969年7月14日、2016年9月10日閲覧

関連項目 編集