森永 健次郎(もりなが けんじろう、1909年明治42年)8月23日 - 1994年平成6年)2月11日)は、日本の映画監督である[1][2][3][4]

もりなが けんじろう
森永 健次郎
森永 健次郎
近代映画社『近代映画』第19巻第14号(1965)より
生年月日 (1909-08-23) 1909年8月23日
没年月日 (1994-02-11) 1994年2月11日(84歳没)
出生地 日本の旗 日本佐賀県小城郡(現在の多久市
職業 映画監督
ジャンル 映画
活動期間 1936年昭和11年)
- 1982年(昭和57年)
主な作品
キャラコさん
潮騒
花の高2トリオ 初恋時代
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人物・来歴

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1909年明治42年)8月23日佐賀県小城郡内の村(現在は多久市域)に生まれる[3][4]

1934年昭和9年)に開所した日活多摩川撮影所に入社し、1936年(昭和11年)には首藤寿久監督の『日蝕は血に染む』に「監督」として名を連ねる[2]。同作は満27歳を目前にした同年7月8日に公開された[2]1942年(昭和17年)1月、日活の製作部門が他社と合併して大映(大日本映画製作)を形成すると、翌1943年(昭和18年)には、朝鮮映画製作という会社で『昭和19年』という国策映画を監督する[1][5]

1945年(昭和20年)8月15日の第二次世界大戦終了後、1949年(昭和24年)には、日活多摩川撮影所の先輩監督である熊谷久虎倉田文人、俳優ブローカーの星野和平らによる映画芸術研究所(藝研、芸研プロダクション)の設立に参加、俳優の佐分利信らとともに取締役に名を連ねた[6][7]。同年5月9日公開の設立第2作『地獄の笛』を倉田文人(「クラタ・フミンド」名義)と共同で監督した[1][2][3]

1954年(昭和29年)、映画製作を再開した日活に復帰、同年7月27日公開の『学生心中』を監督する[1][2][3]。以降、1970年(昭和45年)5月16日公開の『花の特攻隊 あゝ戦友よ』まで一貫して、同社の青春映画プログラムピクチャーを監督し続ける[1][2][3]

晩年も東京都杉並区に在住した[8]1994年平成6年)2月11日、死去した[4]。満84歳没。

フィルモグラフィ

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『学生心中』(1954年)
 
『力道山物語 怒濤の男』(1955年)
 
美しい暦』(1963年)
 
真白き富士の嶺』(1963年)
 
若草物語』(1964年)

特筆以外はすべて「監督」である[1][2][3]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 森永健次郎、日本映画情報システム、文化庁、2012年4月25日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g 森永健次郎日本映画データベース、2012年4月25日閲覧。
  3. ^ a b c d e f 森永健次郎キネマ旬報映画データベース、2012年4月25日閲覧。
  4. ^ a b c 森永健次郎、映像作品データベース、武蔵野美術大学、2012年4月25日閲覧。
  5. ^ 『若き姿』の国策性と新体制以後の国策映画の一覧早稲田大学、2012年4月25日閲覧。
  6. ^ 講演「佐分利信を再見する 第3回アナクロニズムの会」木全公彦、2009年10月10日、アテネフランセ文化センター、2012年4月25日閲覧。
  7. ^ 殿様ホテルキネマ旬報映画データベース、2012年4月25日閲覧。
  8. ^ 『映画年鑑 1991』、p.370.

参考文献

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  • 『映画年鑑 1991』、時事映画通信社、1991年平成3年)

関連項目

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外部リンク

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