森秀次

日本の部落解放運動家、政治家

森 秀次(もり しゅうじ[1]、旧姓・西岡[2]1855年11月1日安政2年9月22日[2] - 1926年大正15年)9月9日[1][3])は、日本部落解放運動家政治家会社役員衆議院議員(大阪府郡部選出、当選4回)[1][3][4]大阪府会議員[2][5]。族籍は大阪府平民[2][6]従五位勲四等[3]

森秀次

経歴編集

和泉国南王子村(後の大阪府泉北郡八坂町、現在の和泉市)出身。西岡惣市郎の二男[2]。豊島郡古江村(のちに合併して細河村、現在の池田市)の森家に養子として迎えられた[7]医学を修めた[4]。医業に従事し、のち農業を営んだ[1]

大阪府会議員、同議長等を務めた[2][5]。硫酸肥料監査役[1]、阪神土地取締役、大阪朝報社常務取締役を務めた[5]1903年第8回衆議院議員総選挙に立候補、初当選[5]憲政会に属した[1][2][4]。以来4期務めた[5]

1926年9月9日死亡した[1]。『大阪毎日』は「久しく腎臓炎と中風で自邸で療養中であったが九日午前二時逝去した」と報じている[8]。また、同紙は秀次を「水平運動の功労者」としている[8]

人物編集

秀次によれば、村会議員時代、他の議員らは、秀次に「会議の時なぞは火鉢をもあたらせなかつた様な次第であつた」という[7]

秀次は部落差別について「社会には未だわからずやが沢山居るが、然し他の者を攻める事ばかりするよりも大に内に省みねばならぬ事もあらうと思ふ。何事も解らずして吾々を排斥する者は実に憐れむ可き者だが、私は今少し否大に我社会の教育を進めねばならぬと思ふ。教育が進めば常識も豊富になり又恥も知る様になる。然し一寸御注意したいことは私の教育と申すのは学校で字を習ふことではない。学者について学理を研究するのではない。私の申します教育は社会教育と申して良いか或は自然の教育と申して宜しいか何れにしても私は社会の大学で学ぶ事を意味するので即ち各種の人と交って見聞を広くすると云ふのです。」と述べている[8]

秀次は、部落民を排斥する者がいることに憤慨している[8]。また、差別する者を世間知らずの「憐れむ可き者」と批判している[8]。住所は大阪府豊能郡細河村[3]大字古江[6]、大阪市南区天王寺伶人町[2]

家族・親族編集

森家
  • 男・1881年 - ?)[2] - 寛は若いころから地元の細河村で部落改善につとめ、1925年3月、融和団体「豊能郡誠和会」の創立に尽力し、その副理事長になった[8]
  • 二男・秀雄1886年 - ?、大阪府平民・石原タツの養子となる)[2]
  • 三男・1889年 - ?、大阪府人・松宮伊三郎の二女松枝の婿養子となる)[2]

脚注編集

  1. ^ a b c d e f g 『議会制度七十年史 第11』も507頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年5月25日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『人事興信録 第5版』も19頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年7月11日閲覧。
  3. ^ a b c d 『衆議院議員略歴 第1回乃至第19回』427頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年11月21日閲覧。
  4. ^ a b c 『衆議院要覧 下巻』第三編 現在議員の履歴312頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年1月22日閲覧。
  5. ^ a b c d e 森 秀次とはコトバンク。2017年7月11日閲覧。
  6. ^ a b 『衆議院議員名簿 第1-28回帝国議会』第17帝国議会 衆議院議員名簿3頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年10月13日閲覧。
  7. ^ a b 北崎豊二(大阪経済大学教授)政治家・森秀次について-1891年の差別事件を中心に-大阪の部落史通信・31号(2003年1月)、一般社団法人部落解放・人権研究所公式サイト。
  8. ^ a b c d e f 北崎豊二論文「森秀次と融和運動」、紀要『部落解放研究』No. 191 2011. 3。

参考文献編集

  • 衆議院事務局編『衆議院要覧 下巻』衆議院事務局、1917年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員略歴 第1回乃至第19回』衆議院事務局、1936年。
  • 衆議院、参議院編『議会制度七十年史 第11』大蔵省印刷局、1962年。
  • 『政治家人名事典』日外アソシエーツ、1990年。

関連項目編集