楊 翥(よう しょ、1369年 - 1453年)は、明代官僚は仲挙。本貫蘇州呉県

生涯 編集

幼くして父を失い、貧困の中で成長した。兄が一兵士として武昌に赴くのに従い、自給自足の生活を送った。楊士奇の身分が低かったとき、楊翥のもとに流寓すると、楊翥は館舎を楊士奇に譲って、自分は他所で教授した。楊士奇が高位に上ると、楊翥を経学に明るく修養につとめた人物として推薦した。1425年洪熙元年)、宣徳帝吏部で試用を命じると、楊翥は帝の意にかなった。10月、行在翰林院検討に任じられた[1]1430年宣徳5年)5月、翰林院修撰に進んだ[2]1440年正統5年)10月、郕王府右長史に転じた[3]。長らくを経て、老齢のため引退して帰郷した。1449年(正統14年)9月、郕王朱祁鈺(景泰帝)が即位すると、楊翥は入朝して兵部右侍郎に任じられた。ほどなく礼部左侍郎に転じた。1452年景泰3年)7月、礼部尚書に進み、禄を給与されたまま致仕した。1453年(景泰4年)11月辛巳、死去した[4]。享年は85。著書に『晞顔先生詩』1巻[5]があった。

子に楊珒があり、呉県主簿に任じられた。

脚注 編集

  1. ^ 談遷国榷』巻19
  2. ^ 『国榷』巻21
  3. ^ 『国榷』巻24
  4. ^ 『国榷』巻31
  5. ^ 黄虞稷『千頃堂書目』巻19

参考文献 編集

  • 明史』巻152 列伝第40