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楓川(かえでがわ)は東京都中央区にかつて存在した河川である。日本橋川兜町付近(現在の江戸橋ジャンクション付近)から南へ分流し京橋川桜川合流地点(現在の京橋ジャンクション付近)に至る約1.2キロメートル (km) の河川であったが埋め立てられ、現在は首都高速都心環状線がその跡を通る。

目次

歴史編集

江戸初期の慶長年間に、江戸前島の東岸から内陸に向かって10本の入り堀が掘られ、そのほぼ中央は江戸城内にある紅葉山に向かって外濠へ貫く入り堀で「紅葉川(もみじがわ)」とよばれていた[1]。これらの入り堀は主に江戸城造営のための石垣の荷降ろし場として利用された。築城後には役目を終え入り堀は徐々に埋め立てられ、江戸前島の対岸を埋め立てて(現在の八丁堀)、その間が楓川として残された。

車や鉄道がない時代、水路は生活物資を運ぶ重要な交通網であった。特に日本橋川から江戸市中に物資を運びやすい楓川周辺には商人や職人が多く住み、川岸には河岸や蔵が並び、近代に至るまで経済の中心として栄えた。楓河岸、材木河岸があった。築地川とを結ぶ楓川・築地川連絡運河も1930年に新規開削された。

しかし、戦後のモータリゼーションの影響で水路は次第に重要視されなくなり、楓川も高速道路建設のため埋立られることとなった。埋立は1960年(昭和35年)から始まり、京橋川、桜川・連絡運河とともに1965年(昭和40年)には水路としての楓川は完全に消滅した。

なお、新場橋より弾正橋までの部分では、高速道路は既存の道路の下を通る構造となっているため新場橋、久安橋、宝橋、松幡橋、弾正橋は残されている。また、永代通りに架かる千代田橋はその上を高速道路が通っているにもかかわらず、欄干、橋柱などが当時のまま残されている。海運橋は橋柱のみ保存されている。

楓川に架かる橋編集

 
弾正橋

日本橋川側から。

  • 兜橋(地図) - 東詰が兜町であることによる。明治頃の地図よりあらわれる。
  • 海運橋(地図) - 江戸初期は髙橋、後に海賊橋・将監橋と称された。東詰に海賊奉行向井将監忠勝屋敷が存在したことによる。明治元年(1868年)「開運」と掛けて海運橋と改称された。
  • 千代田橋(地図
  • 新場橋(地図) - 江戸時代は中之橋とも呼ばれている。延宝2年(1674年)西詰に日本橋魚河岸に続く第二の魚河岸として新肴場(新肴場河岸)が設置され、新場と略された。
  • 久安橋(地図) - 江戸初期は鷹鳥橋。後に東詰の桑名藩松平越中守上屋敷に因み越中(殿)橋と呼ばれた。明治元年(1868年)久安橋と改称されたが、単に美称をつけたとする説と、古く御坊主久安の屋敷があったことに因むとする説がある。
  • 下野(殿)橋 - 江戸時代にあったとされる橋。久安橋と同一とする説もある。
  • 宝橋(地図
  • 松幡橋(地図) - 東詰の松屋町、西詰の因幡町から各一字とった。江戸時代には松屋橋とも呼ばれた。
  • 弾正橋(地図) - 江戸初期、東詰に島田弾正忠利正屋敷があった。京橋川の白魚橋、三十間堀川の真福寺橋と併せて「三ツ橋」と呼ばれた。明治11年(1879年)には日本初の純国産の鉄橋が架けられている[2]。この鉄橋は昭和4年(1929年)に江東区内に移設され、八幡橋と改称されている。現在の橋は関東大震災後の帝都復興事業によって大正15年に架け替えられた。

関連河川編集

脚注編集

  1. ^ 『武州豊嶋郡江戸庄図』。
  2. ^ 浅井建爾『道と路がわかる辞典』日本実業出版社、2001年11月10日、初版。ISBN 4-534-03315-X

関連項目編集