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榊原新左衛門(さかきばらしんざえもん、天保5年(1834年) - 慶應元年4月5日1865年4月29日))は幕末期の政治家であり尊皇志士は照煦。仮名は新左衛門。幼名は錩之介。父は榊原新蔵照賢、母は粕谷氏。養父は伯父・榊原新左衛門照融水戸藩家老として政務を執る一方、尊皇派として国事に奔走し、尊皇派の将として水戸天狗党の乱にて捕縛され古河藩にて切腹した。墓所は茨城県水戸市松本町常磐共有墓地。位階贈従四位[1]

目次

家系編集

榊原氏は戦国時代に徳川四天王の一人、榊原康政以降の宗家は越後国高田藩15万石の藩主などとして知られる。

新左衛門の家系は本家の系図からは辿ることができない、実父の新蔵榊原淡路守照昌の庶子で天狗党に加わり、水戸に拘禁され、慶応元年(1865年)7月、重病のため帰宅するも、19日に56歳で死去している。靖国神社に合祀されている[2]

生涯編集

嘉永2年(1849年)、養父照融の後を継ぎ、800石となる。中ノ寄合に出仕し、翌5年(1852年)、小姓となり、その翌年には使番と昇任を重ねる。さらに安政3年(1856年)、寄合指引、同年5月、書院番頭、大番頭へと昇進し与力がつくなど、三河譜代の名門として藩内の指導的な地位を固めていった。水戸藩に戊午の密勅が降下した際には、藩主・徳川斉昭を補佐し、安政6年(1859年)には大寄合頭に就任した。桜田門外の変とも藩内の尊皇攘夷派を統べ、文久3年(1863年)には藩主・徳川慶篤に随行し上洛、攘夷実行の機を得られたとの感触を得て、同年6月には異国からの来襲に備える御備調練司となった。

元治元年(1864年)3月、筑波山には藩内尊皇攘夷派が挙兵し、水戸天狗党の乱が起こる際に執政に就任した。5月に市川三左衛門が藩内親幕府勢力である諸生党を率いて江戸藩邸の政務を掌握すると、新左衛門は一隊を率いて江戸に出府し、諸生派を排して再び藩政を掌握する。諸生派と水戸天狗党が戦いを始めると、定府の役目にて江戸を離れることができない藩主・徳川慶篤は名代として水戸藩支藩主の一人で宍戸藩主・松平頼徳を派遣し、水戸表の平定を命じた。新左衛門らはこれに随行し、尊皇攘夷派もこれに随ったため、水戸藩に篭城する諸生派は頼徳の水戸城入城を拒否した。これに憤激した尊皇攘夷派は諸生派と合戦に及ぶと、頼徳以下、尊皇攘夷派の志士たちは諸生派を支援する幕府より賊軍とみなされ、頼徳は恭順の意を示して降伏。頼徳が罪を得たことで、自らも抗争の名目を失った新左衛門ら1000の将兵も幕府に降伏した。新左衛門は古河藩に預けられ、翌慶應元年4月、古河藩内にて切腹した。享年32。

脚注編集

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  1. ^ 明田鉄男『幕末維新全殉難者名鑑1』(新人物往来社、1986年)346頁参照。
  2. ^ 明田鉄男前掲書(新人物往来社、1986年)353頁参照。

参照文献編集

  • 明田鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑1』(新人物往来社、1986年)ISBN 4404013353
  • 家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典 (2)』 (新人物往来社、1988年) ISBN 4404014902

関連項目編集