樊 他広(はん たこう、生没年不詳)は、前漢の人。『史記』は他広、『漢書』は佗広と書く[1]舞陽侯(紀元前150年 - 紀元前144年)。

漢の功臣樊噲の孫で、景帝7年(紀元前150年)に父の樊市人の後を継いで舞陽侯になった。後、他広の舎人(身分の低い家来)が罪を得て他広を恨み[2]、景帝中元6年(紀元前144年))に訴え出た。「荒侯[3]市人は病で子をなすことができず、弟と自分の夫人を交わらせて他広を生ませた。他広は実は荒侯の子でない」というのである。景帝は詔して吏に調べさせた。他広は侯をやめさせられ、国を除かれた。

脚注 編集

  1. ^ 司馬遷史記』高祖功臣侯者年表第6・樊酈滕灌列伝第35。班固漢書』高恵高后文功臣表第4、樊酈滕灌傅靳周伝第11。列伝については、小川環樹今鷹真福島吉彦訳『史記列伝』30、71-72頁と、小竹武夫訳『漢書』4(ちくま学芸文庫)、361頁を参照した。功臣表については中央研究院漢籍全文資料庫」を参照した。以下、『史記』と『漢書』ともにある事については特に注記しない。
  2. ^ 『史記』樊酈滕灌列伝第35。岩波文庫版『史記列伝』71頁。
  3. ^ 荒侯は樊市人が死後におくられた諡号

参考文献 編集