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日本 > 鹿児島県 > 薩摩川内市 > 樋脇町倉野

樋脇町倉野(ひわきちょうくらの Hiwaki-Chō Kurano)は、鹿児島県薩摩川内市大字[1]。旧薩摩郡樋脇郷倉野村、薩摩郡樋脇村大字倉野、薩摩郡樋脇町大字倉野郵便番号は895-1201。人口は259人、世帯数は132世帯(2011年3月1日現在)[2]

樋脇町倉野
2010年に樋脇小学校に統合され閉校した薩摩川内市立倉野小学校
2010年に樋脇小学校に統合され閉校した薩摩川内市立倉野小学校
樋脇町倉野の位置(鹿児島県内)
樋脇町倉野
樋脇町倉野
北緯31度51分3.8秒 東経130度24分10秒 / 北緯31.851056度 東経130.40278度 / 31.851056; 130.40278
Flag of Japan.svg 日本
都道府県 鹿児島県
市町村 薩摩川内市
地域 樋脇地域
人口
2011年(平成23年)3月1日現在)
 • 合計 259人
等時帯 UTC+9 (JST)
郵便番号
895-1201

地理編集

薩摩川内市のほぼ中央部、川内川中流域に位置している。全体的に平野部があり、ここに多くの水田がある。字域の北方には東郷町南瀬さつま町二渡、南方には樋脇町塔之原入来町副田、東方にはさつま町山崎、西方には久住町中村町が接している。

字域の中央部を鹿児島県道346号山田入来線が南北に通り、字域を東西に走る鹿児島県道394号山崎川内線と重複し、倉野簡易郵便局付近で分岐し倉野橋で川内川を渡り、東郷町南瀬にて国道267号へ接続する。県道394号は北部を東西に通っており、東方はさつま町山崎、西方は薩摩川内市街方面へ接続している。

北部には薩摩川内市立倉野小学校があったが、2010年(平成22年)に薩摩川内市立樋脇小学校へ統合され、廃校となった[3]

河川編集

歴史編集

成立から町村制施行まで編集

倉野という地名は鎌倉期より見え、薩摩国入来院のうちであった。建長2年の「入来院内村々田地年貢等注文」に見え、それによると倉野の総田数は21町20代であったとされている。永仁6年の「異国要害石築地配分案」によると、倉野は清色(現・薩摩川内市入来町浦之名)、塔原(現・薩摩川内市樋脇町塔之原)、中村(現・薩摩川内市中村町)などの半分が割り当てられている。

入来院は鎌倉初期は御家人である千葉氏の所領であったが、宝治年間に千葉氏が没落した後、相模の渋谷氏が地頭として入部した。渋谷氏は院内の村々を子息に分割したとされ、初代の渋谷定心の末子が倉野氏の称している。南北期には倉野氏にかわり、豊田氏が現れた。しかし、惣領家の所領としても「倉野村」がある[4]

江戸期は薩摩国薩摩郡樋脇郷(外城)のうちであり、村高は「天保郷帳」では986石余、「旧高旧領」では848石余であった[4]

町村制施行以降編集

1889年(明治22年)に町村制が施行され、江戸期の樋脇郷の区域を以て樋脇村が成立し、倉野村の区域は樋脇村の大字「倉野」となった。1940年(昭和15年)には樋脇村が町制施行し樋脇町となった[4]

2004年(平成16年)に樋脇町が川内市東郷町入来町祁答院町里村上甑村下甑村鹿島村と共に新設合併し薩摩川内市の大字「樋脇町倉野」となった。2010年(平成22年)には児童数の減少により倉野小学校が樋脇小学校に統合され、廃校となった。

施設編集

公共
郵便局
  • 倉野簡易郵便局

文化財編集

 
倉野磨崖仏に現存している仏種子梵字
  • 倉野磨崖仏(鹿児島県指定史跡)
    鎌倉時代末期ごろに製作された世界で唯一現存する「オーンク」と呼ばれる仏種子梵字が書かれた磨崖仏[5][6]
  • 地頭倉野氏の墓塔群
  • 木下古石塔群

小・中学校の学区編集

市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる[7]

大字 番地 小学校 中学校
樋脇町倉野 全域 薩摩川内市立樋脇小学校 薩摩川内市立樋脇中学校

交通編集

脚注編集

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  1. ^ 川薩地区合併協議会 町・字の取り扱いについて
  2. ^ 統計データ(町別住民基本台帳人口) - 薩摩川内公式ウェブサイト 2011年4月17日閲覧。
  3. ^ 3月21日 倉野小学校卒業式・閉校式 - 薩摩川内市 2012年1月28日閲覧。
  4. ^ a b c 角川日本地名大辞典 46 鹿児島県』角川書店 p.265
  5. ^ 南日本新聞社鹿児島大百科事典編纂室『鹿児島大百科事典』南日本新聞社、1981年、339頁。
  6. ^ 薩摩渋谷氏の遺跡(大和市史研究 第4号 1978年3月、神奈川県大和市サイト内) - 本田親虎、 p.15
  7. ^ 薩摩川内市 義務教育”. 薩摩川内市役所. 2010年9月5日閲覧。

関連項目編集