横手の戦い
横手の戦い(よこてのたたかい)は、庄内藩を中心とする旧幕府軍が、久保田藩の横手城を攻略した戦いである。
横手の戦い | |
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戦争:戊辰戦争 | |
年月日: (旧暦) 慶応4年8月11日 (グレゴリオ暦)1868年10月3日 | |
場所:出羽国新庄 | |
結果:旧幕府軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
![]() (奥羽先鋒総督府) |
![]() ( ![]() |
指導者・指揮官 | |
![]() (横手城城主) |
![]() (庄内藩一番大隊隊長) ![]() (庄内藩二番大隊隊長) |
損害 | |
戦死者:21 負傷者:8 |
戦死者:7 負傷者:約10 |
経緯 編集
慶応4年8月11日に、庄内藩一番大隊は、十文字[1]を出発して、羽州街道を北上、横手城の大手に向かった。二番大隊は浅舞道を城の搦手に向かった。
途中、久保田藩の抵抗はなく、横手城の西南4kmの赤坂に到着して布陣した。二番大隊は、斥候の情報により、すでに新政府軍の主力は逃げ去っており、残った戸村大学がわずかな兵と共に籠城しているということを知っていた。一番大隊の隊長松平甚三郎と二番大隊の隊長酒井吉之丞は相談して、使者を遣わし投降勧告書を送った。
しかし、戸村大学は返答せず、使者を拘留した。庄内軍は返事を待ったが、午後4時になり、一番大隊が攻撃を開始し、二番大隊も一斉に横手城の大手門を目指して攻撃を開始した。
午後5時頃、追手口より、二番大隊の権蔵小隊が討入に成功する。裏手よりも二番大隊の一部が突入した。横手兵の一隊が、刀槍を持って反撃して、庄内軍が鉄砲で応戦し、混戦状態になる。その頃、惣右衛門隊や仙台藩の瀬上隊も突入する。
安倍平三郎隊(旧正蔵隊)が持ち場を離れて、駆けつけ城門に向かって射撃した。すると、城門が開いて、20数名の横手兵が突撃してきた。横手兵は庄内軍の包囲網を強行突破しようとした。庄内兵と横手兵の間で激しい白兵戦が展開された。この混乱に乗じて戸村大学を含めた残りの横手兵が、庄内藩と仙台藩の包囲網を突破して逃走した。
午後8時になり、炎上する横手城の決戦は収まったので、二番大隊は赤坂に引き上げた。
一方、一番大隊は、大手の大橋を渡り、本丸を目指した。二番大隊のような抵抗もなく、本丸を制圧した。
戸村大学は、横手北6kmの金沢駅に出て、高梨村に入る。
二番大隊は、角間川[2]付近に久保田藩兵が集結しているとの情報により、横手城の後始末を一番大隊に任せて、8月12日赤坂を出発して、進撃を開始して、昼前に田村新田(平鹿郡大雄村田村新田)へと前進した。
戦後 編集
庄内藩一番大隊は、横手兵21体の戦死者を集めて、龍昌院に葬った。付近の寺から、僧侶14名を集めて、黄金を与えて盛大に読経回向を行った。
現代への影響 編集
1988年9月26日、横手市城西町の龍昌院で、「横手戊辰役百二十年・戦死者慰霊祭」が行われた。松平甚三郎の子孫と、酒井吉之丞の子孫、さらに、戸村大学の子孫の父子の4人が出席して、120年ぶりに敵味方の両将の子孫が握手を交わした。
脚注 編集
参考文献 編集
- 郡義武『秋田・庄内戊辰戦争』人物往来社、2001年