横森巧
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横森 巧(よこもり たくみ、1942年7月27日 - )は、山梨県東山梨郡勝沼町(現・甲州市)出身の元サッカー選手およびサッカー指導者、解説者。
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名前 | ||||||
カタカナ | ヨコモリ タクミ | |||||
ラテン文字 | YOKOMORI Takumi | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
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生年月日 | 1942年7月27日(77歳) | |||||
出身地 | 山梨県東山梨郡勝沼町[1] | |||||
ユース | ||||||
1958-1960 | 山梨県立日川高校 | |||||
1961-1964 | 日本体育大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
19xx-1973 | 甲府サッカークラブ | |||||
監督歴 | ||||||
#指導歴を参照 | ||||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
来歴編集
山梨県立日川高等学校在学中よりサッカーを始め、日本体育大学入学後もサッカー部に入部した。大学卒業後は高校教諭となり、その傍ら甲府サッカークラブで1973年6月までプレーして主将も務めた。また、1968年に山梨県立谷村工業高等学校に赴任してサッカー部を指導[1] し、関東大会に出場した。
現役を引退した1973年より山梨県立韮崎高等学校教諭となり、サッカー部監督に就任[1]。1975年(昭和50年)に全国高等学校総合体育大会サッカー競技大会で優勝した。また、全国高等学校サッカー選手権大会本大会に14年間で県代表として10回出場し、1979年(昭和54年)から1983年(昭和58年)までの5大会連続でベスト4以上に進出し、そのうち3大会で準優勝の成績を残した。韮崎高校時代には塚田雄二、羽中田昌、保坂孝などを指導した。
1986年に韮崎高校を退任して、1987年から1988年まで県体育連盟事務局で勤務[2]。1989年より山梨県立韮崎工業高等学校サッカー部監督となり、1992年には第71回全国高等学校サッカー選手権大会で同校を選手権大会初出場に導き[1]、1984年に退任した[2]。
2000年から2002年まで韮崎工業高校の校長、2001年から山梨県サッカー協会副会長、2003年4月からヴァンフォーレ甲府チームアドバイザー、2005年2月から甲府のチームアドバイザー兼強化ディレクターを歴任した[2]。
2005年に創設された山梨学院大学サッカー部の総監督に就任、2009年1月より山梨学院高校サッカー部監督に就任し16年ぶりに現場に復帰した[1]。
現場復帰1年目の第88回全国高等学校サッカー選手権大会では自身にとって3校目となる山梨県代表の高校を率い、決勝で青森山田高等学校を破って優勝した。2010年3月、山梨学院高校の監督を退任した[3]。
指導歴編集
- 1968年-1972年 山梨県立谷村工業高等学校 監督
- 1973年-1986年 山梨県立韮崎高等学校 監督
- 1989年-1994年 山梨県立韮崎工業高等学校 監督
- 2005年- 山梨学院大学サッカー部(総監督)
- 2009年-2010年 山梨学院高校 監督