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横田 嘉右衛門(よこた かえもん[6]1897年明治30年) - 1981年昭和56年)9月24日)は、日本の薬学者製薬学有機製造化学[1])を専門とした富山薬学専門学校校長、富山大学学長である。「ゼレン有機化合体の合成的研究」で東京帝大薬学博士[7]日本薬学会名誉会員[5]

横田 嘉右衛門
生誕 1897年[1]
福島県会津地方
死没 1981年9月24日(85歳没)[2]
富山県富山市
富山県立中央病院
居住 日本の旗 日本
研究分野 製薬学有機製造化学
研究機関 東京帝国大学
岐阜薬学専門学校
徳島高等工業学校
富山薬学専門学校
富山大学
出身校 福島県立会津中学校
第四高等学校
東京帝国大学医学部薬学科
主な業績 2-Oxy-3.5-dinitrophenylarsinsaureの合成及還元に就て
ゼレン有機化合体の合成的研究
ジメチルアミン誘導体の研究
砒素有機化合体の合成研究
医薬品製剤の防黴に関する研究
影響を
受けた人物
慶松勝左衛門 [* 1]
主な受賞歴 北日本新聞文化賞[3]
富山県薬剤師協会表彰[4]
勲二等旭日重光光章[5]
プロジェクト:人物伝

目次

生涯編集

前半生編集

福島県出身で、生家は薬屋、造り酒屋を営んでいた。会津中学[2]四高第二部薬学科[8]を経て、1923年大正12年)に東京帝国大学医学部薬学科を卒業[9]。同年1年志願兵として入営(陸軍三等薬剤官)[10]1925年(大正14年)、東大医学部助手に任ぜられる[10]

慶松勝左衛門教授(薬品製造学教室)の助手として勤務し、慶松との共同論文「2-Oxy-3.5-dinitrophenylarsinsaureの合成及還元に就て」、「ゼレン有機化合体の合成的研究」を発表した。横田は制癌剤合成研究の先駆者の一人である[5]1933年(昭和8年)、岐阜薬学専門学校教授となり翌年博士号を取得。 徳島高等工業学校教授(製薬化学科長[11])を経て、1944年昭和19年)4月に第四代富山薬学専門学校校長となる。

富山編集

この時期は太平洋戦争の末期であり、入学式が行われた1945年(昭和20年)8月1日の夜、富山大空襲に見舞われる。横田は学校特設防護団長でもあり、職員生徒らと消火活動を行ったが効果は上がらず、御真影を守って退避した[12]。重要図書や備品は疎開させていたため無事であったが、校舎は焼失した。富山薬学専門学校の被害は全国の高等専門学校中最大のもので、廃校も噂された[13]。戦後、横田は文部省に事態を報告したが、この報告後の横田について『富山大学薬学部七十五年史』は、文部省を頼るわけにはいかず、「非常な決意をなしたもののようであった」と記している[13]。学校関係者は復興期成同盟会を結成し、再建を目指した活動が始まった。関係者は戦後の混乱した状況の中で卒業生らの寄付金を集めて回り、在学生も喫茶店を開業して資金集めに加わった。横田自身は製薬会社等に協力を求めて回り、横田の行脚の様子は「鉄のわらじ」と形容されている[14]。横田の報告を受けた大蔵省は、寄付金を免税とする措置をとった[15]。この大蔵省の処理は特例措置である[14]。富山薬学専門学校の努力は400万円超の寄付金として実り、校舎再建が成ったのは1947年(昭和22年)4月15日である[16][* 2]

学外では薬事審議会[* 3]の委員に選ばれ、委員会は薬学専門学校の4年制への移行などで意見がまとまっている[17]1949年(昭和24年)、富山薬学専門学校は富山大学へ移行してその薬学部となり、横田は初代学部長に就任する。製薬学を担当[18]したほか、「ジメチルアミン誘導体の研究」、「砒素有機化合体の合成研究」、「医薬品製剤の防黴に関する研究」を行った[19]1961年(昭和36年)12月に学長に選任されるが、この横田の学長就任は薬学出身者が日本の国立大学トップに就任した最初の事例である[20]。在任期間は1969年(昭和44年)3月までの2期約8年で、辞任は大学紛争(大学闘争)の最中であった。在任中に大学院薬学研究科、和漢薬研究施設(現和漢医薬学総合研究所)の設置が実現している[20]。後者は富山の特色を活かす研究を政府が認めたものである[21]。その後富山医科薬科大学参与に就任し[3]、没年までその任にあった。同大にはその遺産を基にした横田基金が設けられ[3]、富山大学に引き継がれている[22]

妻の愛子は会津若松在の商家鈴木家(鈴利)の出身で、横田夫妻は幼馴染であった[23]。郷里の後進高久晃[* 4]は、横田の人柄をその贈られた色紙『春風接人 秋霜接己』のようであったと述べている[2]

脚注編集

注釈
  1. ^ 京都帝大薬学科の創設に尽力した東京帝大教授。戦中の医薬品統制会社社長で、のち日本薬学会会長を務める(『くすりの社会誌』)。
  2. ^ 富山薬学専門学校の再建には、地方製薬業者や、大日本製薬三共の協力があった。個人では卒業生の中井敏雄が特記されている(『富山大薬薬学部七十五年史』193頁)。中井は富山化学工業の創立者である。なおのちに国の資金が投入され施設が拡大された。
  3. ^ 委員長は近藤平三郎で、他の委員は村山義温緒方章石渡三郎高木誠司寺阪正信佐伯孝村田重夫長田捷二らである。
  4. ^ 東北大学脳神経外科の鈴木二郎教授の弟子(鈴木二郎『脳と脳』東北大学脳神経外科同窓会実生会編、あゆみ出版)で、富山医科薬科大学学長、日本脳神経学会会長を歴任。
出典
  1. ^ a b 富山県ふるさと人物データーベース”. 富山県立図書館. 2014年11月18日閲覧。
  2. ^ a b c 「横田嘉右衛門先生 –その晩年-」
  3. ^ a b c 「横田基金の覚え書」
  4. ^ 『富山大学薬学部七十五年史』316頁
  5. ^ a b c 「名誉会員横田嘉右衛門先生を悼む」
  6. ^ 横田嘉右衛門 私の年賀状 その5 (PDF)”. ファルマシア 15(1), 56, 1979-01-01 公益社団法人日本薬学会. 2014年11月11日閲覧。
  7. ^ ゼレン有機化合體の合成的研究”. 国立国会図書館. 2014年11月13日閲覧。
  8. ^ 『第四高等学校一覧 昭和6年4月至7年3月』
  9. ^ 『東京帝国大学一覧 從大正12年 至大正13年』医学部5-7頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年11月7日閲覧。
  10. ^ a b 『薬業年鑑 昭和10年』233頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年11月7日閲覧。
  11. ^ 『徳島高等工業一覧 昭和16至17年』
  12. ^ 『旧富山大学50年史』343頁
  13. ^ a b 『富山大学薬学部七十五年史』192頁
  14. ^ a b 『富山大学薬学部七十五年史』193頁
  15. ^ 『旧富山大学50年史』344頁
  16. ^ 『富山大学薬学部七十五年史』194頁
  17. ^ 『くすりの社会誌』163頁
  18. ^ 『旧富山大学50年史』355頁
  19. ^ 『旧富山大学50年史』364頁
  20. ^ a b 「横田嘉右衛門先生を偲ぶ」
  21. ^ 『富山大学薬学部七十五年史』325頁
  22. ^ 国立大学法人富山大学横田基金規則 (PDF)”. 富山大学. 2014年11月19日閲覧。
  23. ^ 「元富山大学学長横田嘉右衛門先生を憶う」

参考文献編集

  • 東京帝国大学編『東京帝国大学一覧 從大正12年 至大正13年』東京帝国大学、1913-1924年。
  • 薬石日報社編纂『薬業年鑑 昭和10年』薬石日報社、1935年。
  • 名誉会員横田嘉右衛門先生を悼む (PDF)”. 公益社団法人日本薬学会 ファルマシア 18(1), 76,. 2014年11月16日閲覧。
  1. 伴義雄「名誉会員横田嘉右衛門先生を悼む」(伴は横田没時の日本薬学会会頭)
  2. 山崎高應「横田嘉右衛門先生を偲ぶ」(山崎は富山医科薬科大学教授、のち学長)
  1. 山崎高應、森田直賢「横田基金の覚え書」(森田は富山医科薬科大学教授)
  2. 高久晃「横田嘉右衛門先生 –その晩年-」
  3. 山崎高應「元富山大学学長横田嘉右衛門先生を憶う」
  • 富山大学薬学部七十五年史編集委員会. “富山大学薬学部七十五年史 (PDF)”. 富山大学薬学部七十五周年記念実行委員会. 2014年11月15日閲覧。
  • 富山大学. “旧富山大学五十年史 (PDF)”. 富山大学. 2014年11月15日閲覧。
  • 西川隆『くすりの社会誌』薬事日報社、2010年。ISBN 978-4-8408-1113-2

外部リンク編集