横田尹松
横田 尹松(よこた ただとし/ただまつ[1])は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・旗本(寄合)。甲斐武田氏、徳川氏の家臣。武田二十四将として有名な原虎胤の孫にあたる。
時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 天文23年(1554年) |
死没 | 寛永12年7月5日(1635年8月17日) |
改名 | 甚五郎(幼名)、尹松 |
別名 | 十郎兵衛尉、甚右衛門尉(通称)、光胤、尹植 |
戒名 | 覚誓院無言道本居士 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 武田信玄、勝頼、徳川家康 |
氏族 | 横田氏 |
父母 | 横田康景、向山氏 |
兄弟 | 彦九郎、小才次、小陸奥、源介、尹松 |
妻 | 山県昌景娘 |
子 |
政松、倫松、述松、胤松、綱松、直松、 小幡景松 |
生涯編集
天文23年(1554年)、横田高松の娘婿・横田康景(綱松)の五男として誕生。母は武田家臣の向山氏娘。正室は山県昌景娘。
武田家傘下編集
始め武田信玄に仕え、元亀3年(1572年)12月の三方ヶ原の戦いに参加した。天正3年(1575年)5月に父が長篠の戦いで戦死したため、家督を継いで信玄の子・武田勝頼に仕え、足軽大将に抜擢された。
天正7年(1579年)8月からは岡部元信と共に遠江国高天神城の守将に任じられたが、天正9年(1581年)に徳川家康の攻撃を受けて落城すると、甲斐国に戻っている。なお、このときに高天神城では城将・岡部元信から小者に至るまで連名して援軍の派遣を勝頼に要請しているが、尹松だけは密かに勝頼に対して兵力の温存のためにも「高天神城は捨てるべき」といった内容の書状を出している[2]。このとき、『甲陽軍鑑』では無事に戻ってきた尹松に対して勝頼が誉めて太刀を与えようとしたが、「祖父・原美濃も横田備中も、父の十郎兵衛も勝って褒美を貰ったことはあるが、自分が負け帰って褒美を貰ったのでは筋がたたない」と言って返したという話を伝えている。 また、高天神城の城将だったころ、武田への降伏に反対して前城主小笠原信興に幽閉され、引き続き武田方の捕虜になっていた徳川家臣・大河内政局(源三郎)の義に感じ、様々な配慮をしていたという。
甲州征伐編集
天正10年(1582年)に家康と織田信長による甲州征伐で武田氏が滅亡すると、徳川家康の家臣となり、使番・軍監に任じられた。
大坂の陣に参陣した。寛永12年(1635年)7月5日に死去。享年82。
関ヶ原の戦い編集
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに徳川家康本陣に使番として、参陣した。(関ヶ原本戦の配置参照)
大坂の陣編集
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣に徳川家康本陣に使番として、参陣した。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、敵の鉄砲攻撃が激しい陣を視察しようとする徳川家康に、「より激しい場所がある」と安全な場所を進言し、家康を難から逃したという逸話が残る。
江戸時代編集
子孫編集
三男・述松(のぶとし)が家督を継ぎ、横田由松(側衆・従五位下備中守)、横田清松、横田準松[3](のりとし・側衆・従五位下筑後守)と続き、準松の代で加増されて9500石を領し、旗本最高位となった。後裔の一人に横田松房がいる。
系譜編集
脚注編集
出典編集
- 高柳光寿・岡山泰四・斎木一馬 『新訂 寛政重修諸家譜』(第7巻、続群書類従完成会、1965年)
- 平山優「横田尹松」(『戦国人名辞典』 吉川弘文館、2006年、 ISBN 978-4-642-01348-2)
- 『甲陽軍鑑』