樹 れい子(いつき れいこ、1957年5月28日 - )は、日本のモデルタレント女優。本名:賀小美(ホウ ショウメイ[1]、が しょうみ[2])。
身長169cm。B85cm、W58cm、H88cm(1978年7月、樹本人の申告)[3][注 1]

いつき れいこ
樹れい子
プロフィール
生年月日 1957年5月28日
現年齢 66歳
出身地 愛知県小牧市
公称サイズ(1978時点)
身長 / 体重 169 cm / kg
スリーサイズ 85 - 58 - 88 cm
活動
デビュー 1970
ジャンル グラマー
モデル内容 水着
他の活動 女優
その他の記録
ミス・インターナショナル1974日本代表(後に辞退)
モデル: テンプレート - カテゴリ

経歴 編集

愛知県小牧市生まれ。父はイタリア系アメリカ人、母は河北省出身の中国人[1]台湾人[5]中国国籍だが、日本育ちで日本語しか使えない。小牧市立小牧小学校小牧市立小牧中学校愛知県立小牧高等学校卒業[1][5]

15歳のとき、小牧市内で買い物をしていたところ、モデルクラブにスカウトされる[2]。高校1年のとき、『女性セブン』の専属モデルを務める[3]

1973年10月12日、小牧高校3年在学中にミス・インターナショナル1974の日本代表に選ばれる[4]が、日本国籍を持っていない、と代表を辞退[6]。このとき第2位だった茂川秀子がミス・インターナショナル1974に出場している。1973年、ミス・グランスパーコンテスト1位入賞[1]

1974年カネボウキャンペーンガールとしてモデルデビュー。1978年のカネボウのポスターで人気爆発、一躍トップモデルになった[1]。水着のポスター9種類は貼るそばから盗まれるほどで、カネボウ宣伝部に「売ってくれ」との問い合わせが3万通来た。エキゾチックな顔立ちとグラマーな体格で[5]、1978年はカネボウ、ニコン東亜国内航空など計10社のキャンギャルを務め[3]、1978年モデル業界、最大の収穫とも称された[5]。同年『11PM』(日本テレビ/読売テレビ)にカバーガールとして出演。 TBSテレビドラマやあ!カモメ』で水着美人が必要だったことから、『11PM』を見た松本健ディレクターから同番組に抜擢され、女優デビュー[1]名高達郎との交際が週刊誌で報道された[3]

順調だったキャリアに暗雲が垂れ込めたのは同じ年の秋だった。1978年9月10日、樹本人から「体の調子が悪く、深夜の仕事はキツイから『11PM』(同番組は生放送)を辞めさせて欲しい」と同番組の今田邦久ディレクターに直接申し入れがあった[7]。「後任を探すまで1ヵ月ぐらい待って欲しい」と頼んだが、聞いてもらえず、結局、9月25日放送分で樹の出演は終わった。今田は「ちょっと人気が出たからって、向こうからオリたいと言って来た人は初めてです」と話した[7]。急遽、オーディションを行い後釜にナンシー・チェニーが抜擢された。樹は過去2回番組をすっぽかしており、スタッフ受けも悪かった。にも関わらず、この年10月からの新番組TBSのテレビドラマ『アヒル大合唱』にレギュラー出演し、東京12チャンネルバラエティふたりは恋愛中』で桂きん枝と司会を始めたことから、後味が悪くなった[7]

さらに1978年の暮れ、マスメディアに「横井英樹愛人」と報じられた[8]。横井が本格的に有名になるのは1982年2月8日のホテルニュージャパン火災以降であるが、それでも当時から「乗っ取り屋」と言われ、イメージは悪かった[5]。樹は『週刊現代』の取材に答えて、「幼少期から(同郷の)横井さんとは家族ぐるみの付き合いがあり、小学校に入る前に両親は離婚しため、横井さんから養女にしたいと言われたこともあり可愛がってもらった。車の免許を取ってすぐ、フェアレディZを購入した時も保証人も横井さんに頼んだ」、高校時代の成績もよく「高校卒業後は横井から秘書にしたいと言われたこともある」等と話し、「父親代わりでお世話になった人で愛人とかとんでもない」と説明した[9]。この取材では芸名は「横井英樹の一字をもらったのではなく、前の所属事務所の近くに『ステーキの樹』という店があったのでそこから取った」と話していたが[5]、1980年には「は滅びないという意味で樹木からを、名前のれい子は祖父が付けた日本名でその二つをくっつけた」と話している[1]

テレビドラマの出演も続き、お茶の間の人気者となった。1979年2月25日にはCBSソニーからシングル『愛のつばさ』をリリースし、歌手としてもデビューした[1]

1980年7月23日東京青葉台交通事故に遭い、ムチ打ち症池上の病院に入院した。入院は2ヵ月に及んだが、この間横井英樹が何度も見舞いに訪れた。事故を扱った興亜火災海上との交渉に横井が当たり、当時の判例でも賠償額は800万円以下がいいとこだったが2000万円を引き出した。この一件以降売れっ子から転落し、仕事が減った[9]

1985年、日本国籍取得。なお、このとき告示された情報によると1955年5月28日生まれである[10]

2017年、『アサ芸シークレット』が選ぶ「殿堂入り豊かな胸100人」の第15位[11]

2021年4月14日、『ミラクルガール』のDVDが発売される。同作の初のソフト化である[12]

人物・エピソード 編集

柔道と少林寺拳法をやっていたこともあり、志穂美悦子のようなアクションスターになるのが夢だと発言したことがある。また、モデル業については、「お金になるからできる限り続けたいが、肉体的な限界がある。その時はキッパリやめる」とのこと[2]

出演 編集

映画 編集

テレビドラマ 編集

バラエティ 編集

テレビCM 編集

ディスコグラフィ 編集

  • 1979年2月25日 『愛のつばさ』(CBS/SONY, 06SH 461)
A面:「愛のつばさ (Fly Me on the Wings of Love)」作詞・作曲:Pepe Luis Soto、日本語詞:小林和子 ※Celi Beeのカバー
B面:「くどかないで」作詞:樹れい子、作曲・編曲:馬飼野康二

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ B88cm、W61cm、H89cm(1973年10月)[4]、B85cm、W60cm、H88cm(1978年12月)[5]

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g h 週刊サンケイ 1980, p. 35.
  2. ^ a b c d 「アクションスターが夢」『いわき民報』いわき民報社、福島県いわき市、1978年7月17日。
  3. ^ a b c d 週刊ポスト 1978, p. 182–185.
  4. ^ a b 「88-61-89の"女王"「賞金は貯金します」ミス・インターナショナル」『毎日新聞』、1973年10月14日。
  5. ^ a b c d e f g 週刊現代 1978d, p. 182-183.
  6. ^ 「日本の美女交代 帰化手続き遅れ 小牧の賀さん辞退」『中日新聞』、1973年10月29日。
  7. ^ a b c 週刊明星 1978e.
  8. ^ 「樹れい子が告白した「私と横井英樹氏との関係」」『週刊現代』第20巻第53号、講談社、1978年、176-184頁、doi:10.11501/3372029 
  9. ^ a b 週刊新潮 1980b, p. 19.
  10. ^ 「法務省告示第九百九十四号」第17653号、『官報』、1985年12月13日。
  11. ^ 殿堂入り豊かな胸100人」を大発表(9)”. exciteニュース (2017年5月4日). 2019年11月29日閲覧。
  12. ^ 華麗なアクション、色気、聡明さと勇気で悪の世界に果敢に挑む七人の美女たちを描く「ミラクルガール」が待望の初ソフト化!「プレイガール」からスタートしたお色気アクションドラマシリーズ最終章がいよいよ登場!”. dreamnews.jp. グローバルインデックス株式会社 (2021年1月13日). 2021年3月12日閲覧。
  13. ^ 樹れい子”. 映画.com. 株式会社エイガ・ドット・コム. 2019年11月29日閲覧。
  14. ^ ミラクルガール”. allcinema. 株式会社スティングレイ. 2019年11月29日閲覧。
  15. ^ 東京ガス 編『東京ガス 暮らしとデザインの40年 1955→1994』アーバン・コミュニケーションズ、1996年2月1日、128-131頁。ISBN 978-4-900085-14-5 

参考文献 編集

  • 「売り出し双六 タレント 樹れい子 in インサイド」『週刊サンケイ』第29巻第47号、扶桑社、1980年、doi:10.11501/1811291 ※1980年10月9日号
  • 「法外な賠償金を手に遊んで暮らすいい女 in タウン」『週刊新潮』第25巻第48号、新潮社、1980年、doi:10.11501/3378152 ※1980年12月4日号
  • 大滝譲司「高見山大五郎のモミアゲ対談 第二十九回ゲスト 樹れい子『モデル業界の口説き魔ってそれは凄いんだから』今夏のオナペットNo.1といわれる21歳の『初体験・巨根・不倫』談義にさすがの大五郎もギブ・アップ!」『週刊ポスト』第10巻第29号、小学館、1978年、doi:10.11501/3379612 ※1978年7月21日号
  • 中村邦彦「剥がされポスターNo.1美女 樹れい子(22歳=モデル)が告白した『私と横井英樹東洋郵船社長との関係』」『週刊現代』第20巻第52号、講談社、1978年、doi:10.11501/3372029 ※1978年12月28日号
  • 「『11PM』をアワテさせた樹れい子、突然の"辞任" 体の不調を理由にしているが他局では大健在!」『週刊明星』第21巻第41号、集英社、1978年、doi:10.11501/1825087 ※1978年10月15日号