橋元正明

日本の海軍軍人、華族

橋元 正明(はしもと まさあきら/まさあき、1854年1月27日嘉永6年12月29日) - 1929年昭和4年)3月31日)は、日本海軍軍人華族。最終階級は海軍中将従二位勲二等功三級爵位男爵。「橋正明」と表記する場合がある。

橋元正明

経歴 編集

鹿児島県出身。橋元喜左衛門の息子として生まれる。明治4年(1871年)9月、海軍兵学寮に入学し、1878年(明治11年)7月、海軍兵学校4期)を卒業。1879年(明治12年)9月、海軍少尉任官。1884年(明治17年)12月、「金剛分隊長となり、海軍省軍務局将校課課僚、第1局第1課次長、「厳島」回航事務取扱(フランス出張)を経て、1890年(明治23年)10月、海軍少佐に昇進。

1891年(明治24年)4月、「厳島」副長に就任。1893年(明治26年)12月、「摩耶艦長に発令され日清戦争に出征。「赤城」艦長を経て、1895年(明治28年)12月、海軍大佐に進級し「須磨」艤装委員となる。1896年(明治29年)4月、台湾総督府軍務局海軍部第1課長に発令され、「八重山」「浪速」の各艦長、佐世保鎮守府参謀長、「鎮遠」艦長、大臣官房人事課長、人事局長心得、「朝日」艦長などを経て、1902年(明治35年)5月、海軍少将に進級し舞鶴鎮守府艦政部長兼舞鶴港務部長兼舞鶴予備艦部長に就任した。

1903年(明治36年)11月、舞鶴工廠長となり、同年12月、人事局長兼海軍将官会議議員に異動し日露戦争を迎えた。兼大本営海軍人事部長を経て、1905年(明治38年)11月、海軍中将となり将官会議議員兼大本営付兼大本営海軍人事部長事務取扱となった。同年12月、馬公要港部司令官に就任。翌年12月、旅順鎮守府司令長官に栄転した。1907年(明治40年)9月21日、その功績により男爵の爵位を授爵し華族となった。1908年(明治41年)8月に待命となり、翌年8月、予備役に編入された。1914年(大正3年)3月1日に後備役となり[1]1918年12月29日に退役した[2]

栄典 編集

位階
勲章等

親族 編集

脚注 編集

  1. ^ 『官報』第476号、大正3年3月3日。
  2. ^ 官報』第1930号、大正8年1月11日。
  3. ^ 『官報』第701号「叙任」1885年10月30日。
  4. ^ 『官報』第2541号「叙任及辞令」1891年12月17日。
  5. ^ 『官報』第3783号「叙任及辞令」1896年2月12日。
  6. ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
  7. ^ 『官報』第5790号「叙任及辞令」1902年10月21日。
  8. ^ 『官報』第6729号「叙任及辞令」1905年12月4日
  9. ^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
  10. ^ 『官報』第7874号「叙任及辞令」1909年9月21日
  11. ^ 『官報』第2148号「叙任及辞令」1919年10月1日。
  12. ^ 『官報』第675号「叙任及辞令」1929年4月2日。
  13. ^ 『官報』第3430号「叙任及辞令」1894年12月3日。
  14. ^ 『官報』第3676号「叙任及辞令」1895年9月28日。
  15. ^ 『官報』第3858号・付録「辞令」1896年5月12日。
  16. ^ 『官報』第5548号「叙任及辞令」1901年12月28日。
  17. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
  18. ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
  19. ^ a b 『平成新修旧華族家系大成』下巻、355頁。

参考文献 編集

  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
  • 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第9巻、発売:第一法規出版、1995年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
橋元(正明)家初代
1907年 - 1929年
次代
橋元正輝