橋本 明(はしもと あきら、1933年5月24日 - 2017年8月13日)は、日本ジャーナリスト評論家

上皇明仁の「ご学友」として、様々なメディアから皇室の諸問題に関する意見を求められることが多かった。

大日本麦酒の常務を務めた橋本卯太郎の孫で、内閣総理大臣を務めた橋本龍太郎高知県知事を務めた橋本大二郎は父方の従弟である。

人物・来歴 編集

神奈川県横浜市検事橋本乾三と千代の次男として生まれる。

1940年4月学習院初等科に入学。以後大学まで学習院で学ぶ。1956年学習院大学政経学部政治学科卒業。共同通信社に入社。

1961年から1963年までチトー大統領の招待でユーゴスラビアに留学、ベオグラード新聞研究所第1回卒業生となる。

共同通信社会部次長、外信部次長、ジュネーヴ支局長、ロサンゼルス支局長、国際局次長、共同通信社役員待遇、ジャパンビジネス広報センター総支配人、共同通信社特別顧問、共同通信社国際スポーツ報道顧問、日本パブリック・リレーションズ協会理事および長野オリンピック組織委員会メディア責任者、国際オリンピック委員会報道委員会委員、学習院桜友会機関誌(季刊)編集長などを歴任した。

いくつかの会社の顧問などを務めながら、フリージャーナリストとして著書出版・講演活動を行う。

2017年(平成29年)8月13日、多臓器不全のため死去[1]。84歳没。

人物像 編集

兄の橋本實によると、「戦争中は日光岡山等に疎開した。岡山では吉備郡秦村字秦下(現・総社市)の親類宅から秦村国民学校に通った。兄實と2人、しばしば深夜に部屋をしのび出て畑に匍匐前進し、熟れたスイカを盗み取った」という[2]

「ご学友」として 編集

上皇明仁とはいわゆる「ご学友」であった。

学習院高等科在学中、同級生だった当時皇太子の上皇明仁から銀座に行きたいと相談され、「今宵、殿下を目白の方にご案内したい。」と皇太子側近を騙し、同級生で出雲国造家出身の千家崇彦と3人で銀座に繰り出し大騒ぎとなる(いわゆる「銀ブラ事件」)。

皇太子の成婚の際には、「柳行李一つで来てください」という皇太子の言葉が決め手となったと報道されたが、これは橋本の創作であったといい、のちに上皇明仁が自ら否定した。

皇室典範改正問題については、女系天皇容認の立場で論陣を張った。

また『文藝春秋』・『諸君!』等の雑誌に皇室関連の論考を発表した。

家族・親族 編集

橋本家 編集

岡山県総社市東京都渋谷区神奈川県鎌倉市
 
左から、父・乾三、母・千代に抱かれる弟・、兄・
 
眼帯をしている少年が橋本明
(橋本家の人々、1941年)
実家
  • 父・乾三(検事)
  • 母・千代大分県、軍人・陸軍中将三好一長女)
  • 兄・(実業家)
  • 弟・(官僚・外務報道官、シンガポール大使)
自家
  • 妻、長男、長女
他家
おじには、東京高等工業学校長、科学技術庁金属材料研究所初代所長などを務めた冶金学の橋本宇一戦艦大和に搭載した電波探知機開発に参加した海軍大佐の橋本宙二厚生大臣文部大臣などを歴任した橋本龍伍[3]、元東北大教授の橋本虎六などがいる[4]

著書 編集

  • 『平成の天皇』(文藝春秋、1989年)
  • 『昭和抱擁 天皇あっての平安 戦後50年・年譜の裏面史』(日本教育新聞社、1998年
  • 『美智子さまの恋文』(新潮社、2007年/新潮文庫、2009年)
  • 『棄民たちの戦場 米軍日系人部隊の悲劇』(新潮社、2009年)
  • 『平成皇室論 次の御代へむけて』(朝日新聞出版、2009年)
  • 『知られざる天皇明仁』(講談社、2016年)
  • 『共に生きる Asia Living Together ブルネイ前首相ペンギラン・ユスフと「ヒロシマ」』(財界研究所、2011年)

訳書 編集

脚注 編集

注釈・出典 編集

  1. ^ (日本語) 天皇陛下の学友 橋本明氏死去”. 産経ニュース (2017年8月14日). 2017年8月14日閲覧。
  2. ^ 『昭和抱擁 -天皇あっての平安-』102頁
  3. ^ 『衆議院会議録情報 第042回国会 本会議 第1号』 山崎始男君の故議員橋本龍伍君に対する追悼演説
  4. ^ 橋本明著『戦後50年・年譜の裏面史 昭和抱擁 -天皇あっての平安-』112頁-114頁

外部リンク 編集