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橿原遺跡(かしはらいせき)は、奈良県橿原市橿原神宮外苑にあり、縄文時代から奈良時代までにわたる各時代の遺跡群であり、中でも縄文時代晩期の遺物は特筆されるものである。橿原式紋様は滋賀里Ⅰ〜Ⅱ式(後期末から晩期初頭)の土器に施されている[1]

縄文時代晩期の遺物は土偶をはじめ豊富に発掘され、弥生時代の遺物や土師器や須恵器などを伴う遺構などが発掘され、近畿地方晩期の標識的な遺跡として、また西日本の縄文時代晩期の文化を表わす遺跡として広く知られている。

発掘までの経緯編集

畝傍山の南東側の沖積地に広がる橿原遺跡は、「紀元2600年(神武天皇即位紀元)」記念祝典の一つとして行われた橿原神宮とその周辺の地域整備工事が原因となって発掘調査が実施された。橿原遺跡については文久3年の神武天皇陵修理の際に出土した遺物や、明治37年の高橋建自氏による「神武陵西発見の石器時代土器」の報告などがあって、畝傍山の東側山麓に遺跡が存在することは既に明らかになっていたが、学術的な発掘調査は昭和に入ってから実施された。1938年9月13日に末永雅雄博士の主導によって開始された発掘調査は凡そ2ヶ年半の長期にわたり、発掘面積も約10万m2に及ぶ大規模なものであった。

立地と周辺環境編集

橿原遺跡は橿原市畝傍町にある橿原公苑運動施設の周辺一帯に広がっており、遺跡の西側に位置する畝傍山の東側へは、現在桜川が北に向かって流れており、東側は飛鳥川 (奈良県)まで続く沖積地が広がっている。

河川によって形成された沖積平野へは、標高75m前後の沖積台地の南東側からのびてきており、遺跡はこの台地の末端付近に立地している。

東側の低湿地のさらに東側では、旧流路や周辺一帯に堆積したと見られる砂層が存在し、台地北端を横切って北西方に続いており、台地との間は河川の後背部の低湿地であったと考えてよい。西側では砂層が未確認であるが、現桜川の存在や湿地土壌の堆積などを踏まえると、東側と同様にアシやヨシなどが生育する低地が広がって形成された後背地を周辺にひかえた地理的環境のなかに立地していたことが推定できる。

遺構、遺物編集

遺跡が立地する洪積台地の周辺には低湿地が形成されており、縁辺部には南北に細長く伸びる東西2ヶ所の縄文時代晩期の包含層が遺存していた。発掘調査は主にその包含層を中心に実施されている。台地上に存在したことが予想される縄文時代の遺構については、後世にほぼ完全に削平されて消滅したと思われる。

西部包含層は長さ約100m、最大部分で幅約17mの範囲に存在し、最深部分厚さ約0.7mに及ぶ堆積層である。この遺物包含層には根が浸透したイチイガシの巨樹根が遺存し、縄文時代の人工物とともに多量のイチイガシの果実が出土している。遺物包含層中では大型の土器と獣骨類のほか木炭がしばしば混在して出土し、更に磨製石斧、敲石、打製石斧、砥石などが集中して出土する箇所がある。土壌は特に濃い黒色を呈している。

西部包含層からは炉跡、集石、小竪穴などの遺構のほか、台地縁辺部で住居跡の可能性がある方形の竪穴遺構が検出されている。炉跡は直径50cmあまりの規模の石囲み炉で、内部には木炭や獣骨が詰まっていたほか、敲石や赤色顔料を塗布した土器が出土している。東部包含層は台地の地形に沿って平面的には細長く途中で屈曲して遺存している。包含層は西部のそれよりやや狭く長さ約74m、幅約8mに広がっており、深さ1mを超える厚い堆積層が確認された部分もある。

東部包含層の一部では青色粘土層を挟んで遺物包含層が上下に分かれることを確認している。下層から器面調整の丁寧な土器や獣骨片などが集中して出土する場所がある。遺物包含層の下にはあまり遺物を含まない木葉、自然木、堅果などを多量に含む有機質層が堆積し、なかには薄く剥いだ木片の編み物や藤蔓を括り合わせたものなどが出土している。

有機質層のさらに下には無遺物砂層や粘土層が堆積している。包含層内から出土する獣骨については、地点を異にして鹿角がまとまって出土する地点と、猪牙が集中する地点とが確認されて東部包含層からは炉跡、埋葬人骨、イチイガシの集積、拳大の石を粘土で固めた敷石遺構・周辺に石鏃などの石器や石材を並べた焼土ピット・柱穴状ピット・構造物に伴ったと見られる抗群などが検出された。

炉跡と埋葬人骨は東部包含層の西端付近から検出されている。人骨は5体分以上あったとされているが詳細は不明である。ただ、土器や石器と獣魚骨が集中する中から屈葬された1体の人骨が発見されており、その人骨に伴って有孔土製小円板が何点か出土したこと、上部を被覆した土器が存在していたことが報告され、さらに人骨の一部に焼けたと見られる痕跡を有するものが存在していたとされる。

炉跡は長さ15〜25cm程度の石を用いた一辺が40cmの規模の石囲み炉である。東部包含層の北東部では面積18m2の範囲に、8ヶ所で合計9本の直径6cm程の丸太杭を打ち込んだ遺構が検出されている。周辺からはクルミ核、クリとトチの果皮、獣骨、木炭などと共に、木材と藤蔓が出土していて、水辺に設けられた住居ないし作業場のような構造物の可能性が指摘されている。

東西の包含層における出土遺物の内容を種類別に見ると、狩猟具や漁労具および加工具など生産具のうち骨牙鏃は東部包含層からの出土が圧倒的に多いが、打製石斧や磨製石斧は西部包含層が東部包含層の出土数を上回る。

又、敲石や皮剥と報告されているスクレイバー類は一部を除いて大半が西部包含層から出土していて出土地点の偏りが指摘できる。一方、土器以外の土製品や生産具以外の石製品をみると、土冠(冠形土製品)は東部包含層のほうが2点多いが、半輪状土製品や石刀・石棒類は、逆に約6対4の割合で西部包含層が東部包含層をやや上回る。

土偶や土玉類は東西ほぼ拮抗した出土数であり、生産具以外の製品はそれほど偏った出土状態とはなっていない。

出土した遺物編集

出土した遺物の中核を占めるものは、かつて橿原式と呼ばれたものを中心とした晩期の土器である。三叉文の刳り(えぐり)込みにとって浮き彫りした木葉文の表出を基本として、更に上下に重畳させて木葉文が対向する七宝文風の文様を描く特徴を有するのが橿原式文様であり、ほとんどが浅鉢に施文される。

かつての橿原式土器は滋賀里遺跡において編年された滋賀里ⅡおよびⅢに該当する[2]。又、橿原遺跡からは東北地方系統の土器が数多く出土していることが特に注意されている。橿原遺跡から出土する同系統の土器と考えられるのは、

橿原遺跡からは東北系統以外にも関東・東海地方の影響が見られる土器が出土しているほか、瀬戸内・山陰・九州地方の土器に類似する文様をもったものも少量ではあるが含まれている。その一方で橿原式文様をもった土器は、北は関東や東北地方の南部まで、南は九州地方中部でも確認され、広範な分布を有している。

このほか橿原遺跡から出土した土器以外の遺物には多種多様なものが見られる。生産活動に使用された磨製および打製石斧、削器、石鏃、石錘、敲石、凹石などと共に、平行刻線や格子刻線、弧線文を有する石刀、石剣、石棒など信仰や呪術に関わる石器類が多く出土している。

記紀の記述との関係編集

古事記や日本書紀に依れば、初代神武天皇がこの地で日本の建国を神々や人民に対して紀元前660年に宣言したとされている。(神武天皇即位紀元)記紀の年代には諸説あるが、少なくともその時期に当たる縄文時代晩期にはこの地域を中心に一つの勢力があったことが明らかになり、発見時は当時の情勢下も相まって大々的に宣伝されたが、戦後に入ると教育機関を中心に皇国史観を忌避する風潮が生まれ、上古の天皇が歴史教科書に記載されなくなったこともあり、発掘や研究が下火になっていった。

出典・脚注編集

  1. ^ 大塚達朗 1995 「橿原式紋様論」『東京大学文学部考古学研究室研究紀要』13, 79-141, 1995-03-24, hdl:2261/4438
  2. ^ 大塚達朗は橿原式紋様は滋賀里Ⅰ〜Ⅱ式(後期末から晩期初頭)の土器に施されており、滋賀里Ⅲa式には伴うとは直ちに判断できないとしている

参考文献編集

  • 橿原考古学研究所附属博物館考古資料集 #松田真一、岡田憲一、光石鳴巳

外部リンク編集