檜前女王(ひのくまじょおう/ひのくま の おおきみ、生没年不詳)は、奈良時代皇族。名は檜隈とも記される[1]。後述するように高市皇子の娘という説がある。位階従四位上

生涯 編集

万葉集』に、柿本人麻呂高市皇子薨去を追悼して作った長歌1首と反歌2首があるが、続けて「或書の反歌一首」とあり、

泣沢(なきさは)の 神社(もり)に神酒(みわ)据ゑ 祈れども 我が大君は 高日(たかひ)知らしぬ
訳:泣沢の 社に神酒を捧げ 祈ったが わが高市皇子は 空高くのぼって行かれた[1]

とあり、この和歌の左注に「右の一首は、類聚歌林に曰く、『檜隈女王、泣沢神社を怨むる歌なり』といふ」とある。岸本由豆流の「万葉集攷証」・土屋文明の「万葉集私注」・澤瀉久孝の「万葉集注釈」などによると、この女王を高市皇子の娘として、檜前女王と同一人物であるとしている。鹿持雅澄の「万葉集古義」によると、檜前女王と檜隈女王は姉妹ではないか、となっている。

天平7年(735年)閏11月の「相模国封戸交易帳」に、相模国御浦郡氷蛭郷に、食封40戸(田109町7段153歩)を与えられていたと記されている。この時の位階従四位下[2][3]

続日本紀』には聖武朝天平9年(737年)2月には、従四位下から従四位上に昇叙されたと見えている。

官歴 編集

注記のないものは『続日本紀』による。

脚注 編集

  1. ^ a b 『万葉集』巻第二、202番
  2. ^ 『寧楽遺文』上巻291頁
  3. ^ 『大日本古文書』巻1 - 639頁

参考文献 編集