武田一浩

日本の元プロ野球選手(投手・1965 - )

武田 一浩(たけだ かずひろ、1965年昭和40年〉6月22日 - )は、東京都世田谷区出身の元プロ野球選手投手)。

武田 一浩
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都世田谷区
生年月日 (1965-06-22) 1965年6月22日(55歳)
身長
体重
171 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 投手
プロ入り 1987年 ドラフト1位
初出場 1988年6月8日[1][2]
最終出場 2002年10月10日[3]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

現役時代は日本プロ野球 (NPB) の日本ハムファイターズ福岡ダイエーホークス[注 1]中日ドラゴンズ読売ジャイアンツ(巨人)の4球団でプレー[4]。日本ハム時代の1991年には最優秀救援投手の、ダイエー時代の1998年には最多勝のタイトルを獲得し[4]、中日時代の1999年には右のエース[注 2]としてセントラル・リーグ(セ・リーグ)優勝に貢献[6]。巨人時代の2002年にはNPB史上3人目の全球団勝利[注 3]を達成し、同年限りで現役を引退した[7]

現役引退後は日本放送協会 (NHK) の野球解説者として活動している[8]

経歴編集

プロ入り前編集

世田谷区立北沢小学校[注 4]および明治大学付属中野中学校出身[1]で、幼少期は後年のダイエー時代にともにユニフォームを着た王貞治のファンだった[11]。「調布リトルリーグリトルシニア[12](調布リトル[13]および調布リトルシニア)[注 5](1980年度卒業)を経て[15]、明治大学付属中野高校に進学[1]。高校3年の1983年には、5月の練習試合で第64回全国選手権および次の第55回選抜大会で夏春連覇した徳島県立池田高に勝利し、同年夏の甲子園への出場が期待されていた。しかし、西東京大会準決勝で小野和義を擁する創価高に敗れ、甲子園出場はならなかった[2]。なお、高校の同級生にプロモーターの金平桂一郎がいる。

その後、1983年度のドラフト会議ではプロ球団から指名を受けず[16]明治大学へ進学[1]1984年)。明治大学硬式野球部時代は2年から出場し、3年秋の東京六大学リーグ戦では5完封を含む7連勝を記録[2]。通算56試合登板、208防御率2.40・208奪三振1986年(3年生)秋のリーグ戦では7勝0敗の成績を残してベストナインに選出されたほか、同大会の対立教大学戦では毎回奪三振(1試合17奪三振)を記録した[17]。一方、1987年秋には造反事件を起こして話題になった[注 6][17]

1987年度のドラフト会議[20]前には日本ハムファイターズ南海ホークス中日ドラゴンズ読売ジャイアンツ(巨人)の4球団(いずれも武田が後に在籍することとなる)からプロ入りの誘いを受けた[21]。ドラフト会議当日、日本ハムは伊藤敦規を指名したが、阪急ブレーブスとの抽選に敗れたために武田を1位指名した[20]。武田の1年目(1988年)の年俸は600万円・契約金は5,500万円(いずれも推定額)で、背番号15[17](1991年まで着用)。

現役時代編集

日本ハム時代編集

プロ1年目となる1988年6月8日の対阪急ブレーブス戦(東京ドーム)でプロ初登板を果たし、同年8月3日の対ロッテオリオンズ戦(川崎球場)でプロ初勝利を挙げた[1]。同年は一軍では20試合に登板(うち先発登板は2試合)して1勝2敗・防御率3.38の成績で、二軍イースタン・リーグ)のジュニアオールスター代表にも選出された[22]。同年オフには年俸840万円[22]で契約更改。

2年目(1989年)には先発ローテーションに定着して[23]主力投手となり、2試合連続完封勝利を記録[注 7][24]。同年は36試合に登板して6勝8敗・防御率4.22の成績で[24]、パ・リーグ投手成績は規定投球回22人中18位だった[25]。同年オフには年俸1,680万円[25]で契約更改。

1990年には近藤貞雄監督に見込まれ、抑え投手に転向[注 8][23]。前半戦[注 9][23]ではNPBタイ記録となる12試合連続セーブポイントを記録し[26]オールスターゲーム(球宴)にも初出場を果たした[23]。同年は37試合に登板して10勝5敗13セーブ、23セーブポイント[注 10]の成績を挙げ、翌1991年シーズンの年俸は3,100万円になった[29]

1991年も41試合に登板して4勝8敗18セーブ、22セーブポイントを挙げて最優秀救援投手のタイトルを獲得[30]。特に同年5月には10試合に救援登板して3勝1敗・3セーブの成績を残し、プロ入り後初の月間MVPを獲得した[31]。しかし、球団からのリリーフエースとしての評価は低く、特に1991年の契約更改では、12月2日の交渉を保留した後の記者会見で激怒した様子が、スポーツ新聞などでセンセーショナルに報道された[32]。同日の交渉では年俸35%増額(4,200万円)を提示されたが、プレスルームに入った直後にバッグを窓に向かって投げつけ、「もうリリーフなんて絶対やらない。調停覚悟でとことん戦う」と発言[注 11][33]。武田本人は後年、抑えを務めていた時期について与田剛との対談で「完投できるエースの西崎(幸広)さんが先発する日(週1日)は休むことができたが、柴田(保光)さんや酒井(光次郎)が先発している時は早いイニングから登板の準備をする必要があった」と述べている[16]

結局、1992年には背番号が4に変更され、年俸4,950万円になった[30]が、同年は本人の希望から先発に再転向[23]。同年は故障に泣かされ[23]、22試合登板・4勝9敗・防御率3.87の成績に終わったが、8月30日の対福岡ダイエーホークス戦では延長12回完封勝利を記録[34]大沢啓二監督が就任した[35]1993年(同シーズンの年俸:4,750万円)は[34]自己最多となる170回1/3(27試合)を投げ、3年ぶりとなる10勝(8敗)を記録[36]。防御率3.33もパ・リーグの投手(規定投球回到達者23人中)9位を記録し[37]、チームもリーグ2位でシーズンを終えた[38]。同年11月27日には年俸7,100万円(前年比2,350万円増額)で契約更改した[39]が、1994年は投球回84イニング1/3(18試合登板)にとどまり、5勝9敗[注 12]・防御率5.98と乱調[40]。チームもリーグ最下位に低迷し[41]、本人・首脳陣の双方にとって大誤算に終わった[40]

上田利治監督が就任した1995年[42]は年俸6,300万円で迎えた[40]。同年は春季キャンプで好調ぶりを見せ、上田監督から称賛されていたが[43]、開幕は故障のため[44]、二軍スタートで迎える[45]。同年5月1日に一軍選手登録されるが[46]、コーチ陣との折り合いの悪さ[注 13]から[47]、一軍ではわずか2試合にしか登板できず[23]、0勝0敗・防御率5.06の成績に終わった[48]。一方で二軍(イ・リーグ)では13試合に登板して6勝4敗・防御率1.62(投球回数:83イニング1/3)の成績を残し、最優秀防御率のタイトルを獲得した[49]

ダイエーへのトレード劇編集

1995年オフ、日本ハムはフリーエージェント (FA) 権を行使して読売ジャイアンツ(巨人)に移籍することを決めた河野博文(左腕投手)の穴を埋めるため、左腕投手の補強に乗り出し、武田を交換要員として複数球団と交渉[50]。河野や田村藤夫(捕手)の穴埋めを優先してトレードの話を進めていたところ[11]、先発投手の補強を求めていたダイエー(王貞治監督[注 14])が左腕投手の下柳剛を交換要員として提示した[52]。しかしトレード成立寸前にダイエーのフロントからは「下柳ならもっといいトレードができる」と反対意見が上がったため、両球団が微調整を行い、武田と下柳の両者を中心とした複数トレードに発展[52]。11月16日には松田慎司とともに、下柳・安田秀之との2対2の交換トレードでダイエーへ移籍することが正式に決定し、両球団から発表された[11][53]

一方で本人は日本ハム球団に対し、明治大学の先輩である星野仙一監督の率いる中日ドラゴンズへのトレードを求めていた[11]。同年オフに監督復帰した星野は当時、投手陣の補強を目指し、既に前田幸長(前千葉ロッテマリーンズ)・村田勝喜(前西武ライオンズ)をトレードで獲得していたが、抑え投手が最大の補強ポイント[注 15]だったため、その補強ポイントに合致する武田の獲得を目指し[54]、佐藤毅球団社長ら球団首脳陣とともに積極的に動いていた[注 16][55]。しかし交換要員が折り合わず、交渉が難航していたところ[注 17]、途中から動き出したダイエーに横取りされる格好となった[50]

美山和也 (2009) は「武田は中日とのトレードを反故にされたことに激怒してトレードを拒否しようとも考え、その後も日本ハムに対しては『同一リーグに放出させたことを後悔させてやる』と燃えていた」と述べている[21]。一方、中日球団の親会社である中日新聞社が発行する『中日スポーツ』はダイエーとのトレード決定後、「武田は中日入りできなかったことが心残りで星野監督に電話したが、『ダイエーで頑張れ。機会があったら一緒にやろう』と激励された。ダイエーへの不満もない」と報道している[11]ほか、永谷脩 (2002) は「1995年オフ、武田は偶然銀座で出会った東尾修に『スライダーの投げ方を教えて欲しい』と頭を下げた。東尾から『俺の命綱を教えるのだから、100万円持って来い』と言われ、その言葉通り100万円を持参して教えを乞い、東尾から教わったスライダーを駆使して(1996年に)15勝を挙げた」と述べている[18]

ダイエー時代編集

ダイエー移籍1年目(1996年)の年俸は6,300万円[48]。同年には「監督、コーチが見ているときと、そうでないときに練習態度が違うヤツがいる」と苦言を呈したところ、再び首脳陣と衝突することになったが、この発言は王の人柄に触れ「この人のために優勝したい」と思ったが故の発言だった[21]。また、日本ハム時代はキャンプ前半はそれほど投げ込まなかったが[57]、同年春の高知キャンプでは[58]同僚になった工藤公康[注 18]の影響を受け[57]、「プロ1, 2年目のころ以来」となる1日300球以上の投球を行ったほか[58]、納得するまで走り込みを行うなど、日本ハム時代と大きく調整方法を変えた[57]

同年、チームは最下位に低迷したが[13]、自身は1年間を通じて先発ローテーションの柱を担い[23]、6月末 - 8月まで7連勝を記録[59]。最終的には15勝8敗・防御率3.84(171投球回)・6完投[注 19]と好成績を残した[23]。同年の勝利数(15勝)[注 20]は自己最多[47]かつチーム最多[59]、パ・リーグ3位だった[注 21][61]。また171投球回も自己最多、完封4試合は同年のパ・リーグ最多で[59]斎藤雅樹(巨人)・西口文也(西武)、キップ・グロス(日本ハム)、バルビーノ・ガルベス(巨人)とともに沢村栄治賞(沢村賞)の候補に挙がった(最終的には斎藤雅が受賞)[62]

1997年1月10日に年俸9,800万円(前年比3,500万円増額)で契約更改[63]。同年は工藤公康とともに投手陣の中心として期待され[64]、プロ10年目で自身初の開幕投手を務めた[65][66]。同年は開幕から4連勝を記録し、4月29日(対オリックス・ブルーウェーブ戦)・5月6日(対西武戦)では2試合連続完封勝利を記録[67]。5月18日に対オリックス7回戦で4勝目を挙げたが[68]、その後は勝利から見放され、最終的には9連敗のままシーズンを終えた[69]。同年は26試合に登板して4勝9敗[注 22]・防御率3.85(投球回163回2/3)、3完投の成績で、特に対近鉄バファローズ戦では防御率7.45と打ち込まれた[69]。同年オフ(12月6日)には年俸8,400万円(前年比1,400万円減額)で契約更改した[70]

1998年は前年不振に終わったことから、開幕前には2年連続の開幕投手を拒否する旨を宣言していた[66]。同年は28試合に登板して自己2番目となる13勝(10敗・防御率3.62)を挙げ[71]黒木知宏千葉ロッテマリーンズ)・西口文也(西武)とともにパ・リーグ最多勝を獲得した[72]

中日にFA移籍編集

1998年5月中旬に武田はプロ入り後初となるフリーエージェント (FA) の権利を取得したが[73]、ダイエー球団はシーズン中に武田のFA権行使を控えた下交渉を打診せず[注 23][76]、武田は同年11月4日にFA権の行使を宣言[75]。ダイエーとの慰留交渉では現場首脳陣とのすれ違いがあった一方[74]、3年前にも武田を獲得しようとした星野監督[注 24]がFA宣言直後に獲得に名乗りを上げた[注 25][81]。星野は当時、武田について「チマチマと逃げる投手が多い中で、いつも強気に大胆に向かっていくところが素晴らしい」と評価していた[82]。一方で同月24日にはダイエーの中内正オーナー代行から「骨を埋める球団はどこがいいのか考えろ。星野監督がいなくなった時のことは考えているのか」と慰留されたが、その直後に『中日スポーツ』の記者に対し「気持ちはほぼ固まった。自分は島岡(吉郎・元明大野球部)監督に育てられた人間だ。星野監督の意見には共感できる部分が多い」と話し[76]、翌26日には中日入りを決断した[注 26][83]

そして同月27日には中日に入団の意思を伝え、翌28日[注 27]には正式に中日入りを表明[85]。なお中日だけでなく、巨人(長嶋茂雄監督)もFA宣言以降、水面下で中日より良い条件を提示していたが、武田は中日移籍を選択した[注 28][74]。背番号は前田幸長が着用していた18に決まり[86]、同月30日に中日と正式契約(契約金4,200万円を含めて3年で最高4億5,000万円[注 29]の複数年契約)を締結した[83]。星野監督は入団決定後、起用法について「(武田本人は)『中4日でも』と言っていたが、(セ・リーグは)DH制じゃないんだから、とりあえず中5日でいく」「(当時の抑え)の状態が万全でないときや、宣につなぐ遠藤大塔に不安がある時は(抑えの経験が豊富な武田に抑えを)十分に任せられる」と話していた[84]

中日時代編集

中日移籍1年目の1999年は春季キャンプで300球超の投げ込みを行ったり、公式戦に入っても若手以上に走り込んだりなど、徹底した自己管理でチームに強い影響を与えた[注 30][90]。同年は野口茂樹山本昌川上憲伸とともに先発ローテーションの4本柱を担い[91]、セ・リーグ投手成績6位(9勝10敗・防御率3.83)の成績を残し[92]、右のエース[注 2]として中日の11年ぶり5度目となるセントラル・リーグ(セ・リーグ)優勝に貢献した[6](自身にとってもプロ入り後初優勝)[89]。同年は横浜ベイスターズ戦で4勝2敗を記録したほか、対阪神タイガース戦でも投球回30イニング2/3で防御率1.17を記録した[92]

移籍後初登板(初先発)となった同年4月6日の対横浜1回戦(ナゴヤドーム)で中村武志とバッテリーを組み、横浜の「マシンガン打線」を9回7被安打無失点に抑え、移籍後初勝利を自身2年ぶりの完封勝利で飾った[93]。続く4月15日の対ヤクルトスワローズ1回戦(ナゴヤドーム)では2試合連続となる完封勝利を記録し、チームはこの試合で開幕からの連勝を10に伸ばした[注 31][96]。その後、勝利数はそれほど伸びなかったが、防御率は2点台を保ち、先発陣の一角を担い続けた[89]。優勝決定後、10月6日に対阪神27回戦(阪神甲子園球場)で最後の先発機会を与えられ、勝てば2年連続(セ・リーグ移籍後では初)の2桁勝利となるところだったが、味方の援護に恵まれず、1対1の同点で迎えた延長11回裏に一死満塁の場面で代打・田中秀太へのサヨナラ押し出し四球(147球目)を出して敗戦投手となり、チーム3人目の2桁勝利[注 32]はならなかった[97]。古巣であるダイエー[注 33]との日本シリーズでは第4戦(福岡ドーム・同年10月27日)で先発登板したが[102]、3回に秋山幸二小久保裕紀にからタイムリーを浴びて2失点し、6回にも小久保から本塁打を打たれ[6]、6回6被安打3失点の投球内容で敗戦投手になった[102]。一方で同年終盤に右を故障し[103]、シーズン途中からは痛みに耐えながら投げていた[104]

2000年は年俸1億7,000万円となり、背番号をダイエー時代と同じ17番に変更した[105]が、同年は15試合登板・3勝6敗・防御率4.66の成績に終わった[106]。沖縄春季キャンプでは1日300球の投げこみを見せることなく、キャンプ中に右膝を故障[106]し、2月ごろは歩く程度のトレーニングしかできなかった[107]。膝の状態が完治しないまま開幕を迎え[注 34][106]、4月30日の対阪神戦で初勝利を挙げたが[109]出場選手登録抹消を3度にわたって繰り返し[108]、シーズン途中[106](8月末)[109]で戦線離脱[106]。9月上旬には右膝軟骨の除去手術[注 36][113]を受けたが、これが原因で下半身の粘りがなくなった[114]

2001年は引退を賭けてシーズンに臨んだが[106]、同年も3勝6敗(11試合登板・防御率4.83)の成績[注 37][111]に終わり、10月19日に中日から戦力外通告を受ける[注 38][115]。一度は引退を決断するが、同時に中日を去った星野[注 39]から「まだ2ケタ勝てるだろう」という言葉を受け、現役続行を決意した[114]

巨人時代編集

2001年12月2日にNPBコミッショナー事務局から自由契約選手として公示され[120]、12月4日に読売ジャイアンツ(巨人)が獲得を表明[7]。同日、前年の年俸1億7,000万円から大幅ダウン(1億2,000万円減額)となる年俸5,000万円+出来高払いで巨人と契約した[7]。入団会見では「東京生まれが東京に帰ってきた。中日に勝てば12球団全部に勝つことになる。15年で一度も日本一になっていないので、優勝に貢献した」とコメントした[121]

2002年前田幸長(ともに中日から移籍)とともに巨人の中継ぎの新戦力として期待され[122]シンカーの研究に精を出した[18]。同年は開幕二軍スタートだったが、5月7日に一軍登録される[114]。同日の対中日7回戦(ナゴヤドーム)で即先発登板し[123]、6回4被安打2失点で勝利投手となり[114]、史上3人目の全球団勝利を達成[注 3][123][125]。しかし、同年夏場に古傷の右膝[注 40]を痛めてリハビリ生活が続き、同年の日本シリーズ要員構想からも外れた[3]

同年10月10日に現役引退が発表され[126]、同日のヤクルト戦(東京ドーム)における先発登板が現役選手としての最終登板となった[3][127]。なお、NPB史上最多勝利と最優秀救援投手の両方を獲得した投手は、武田以外では江夏豊金城基泰村田兆治山沖之彦(このうち村田は、厳密には最優秀救援ではなく最多セーブ)の4人のみである。

引退後編集

現役引退後、2003年以降は日本放送協会 (NHK) の野球解説者になり[8]NHKプロ野球メジャーリーグ中継で解説者を務めている。また、マスターズリーグの札幌アンビシャスにも参加していた[8]ほか、競馬番組にゲストとして出演することがある。

2006年にはダイエー時代にともにプレーした王監督(当時:福岡ソフトバンクホークス[注 1]監督)が指揮を執るワールド・ベースボール・クラシック (WBC) 日本代表の投手コーチを務めた[128]。また、2010年の秋季キャンプでは古巣ダイエーの後身であるソフトバンク[注 1]の臨時投手コーチを務め[129]2011年の春季キャンプでもソフトバンクの臨時投手コーチを務めた[130]

2018年9月5日、日本時間午前9時からのロサンゼルス・エンゼルステキサス・レンジャーズ戦(NHK BS1にて中継)で生中継の解説を務めていたが[131]、試合途中に急遽、体調に異常をきたし病院に急行した[132]

選手としての特徴編集

投球フォームは右からのサイドスロー[23][133]江川卓二宮清純 (1999) によれば、1998年時点のデータではスピード(球速)・コントロール(制球力)・テクニック(技術)のいずれも3.5(5段階評価)で[77]、自己最多となる15勝を挙げた1996年速球を軸に、サイドスロー特有のよく曲がるスライダーフォークを交える配球だった[23]。また、パ・リーグ最多勝を獲得した1998年は内角をえぐり、外角のスライダーで勝負する配球パターンだった[77]。江川・二宮 (1997) は「慎重にコーナーをつくピッチングというよりは、思い切りのよさが持ち味で、抑えとして成功したころから、絶対的な決め球を持つ投手というよりも、大胆で勢いのある投球術によって抑え込み、ピンチにたじろがない勝負強さが印象に残る投手」と評している[23]。フィールディングにも特に難はなく、1996年は城島健司とのバッテリーで3回の盗塁企図をいずれも刺した[47]

スポーツニッポン』編集委員・小川勝は1999年に『サンデー毎日』誌上で武田について「明大の先輩・鹿取義隆に似た独特のサイドスローで、球威で勝負するタイプ。体の回転を指先に伝えるセンスは天性のもの」「戦力的に2桁勝利を期待できる点はもちろん、昨年(1998年)に好成績[注 41]を収めた若手投手の満身に楔を打ち込める存在という点でも、まさに『今年の中日優勝の使者』と呼ぶにふさわしい」と評していた[135]

身長は171 cmと、プロ野球選手としてはかなり小柄で「小さな大投手」と呼ばれた[136]

また、日本ハム時代にチームメイトだったマット・ウインタースからMLBで流行していたカットボールの存在を教えられてこれを習得し、日本プロ野球 (NPB) にその存在を広めた[137]。後に日本屈指のカットボーラーとなった川上憲伸はプロ2年目の1999年、中日に移籍加入した武田が投げていたカットボールに興味を持ち、習得した[137]

人物編集

1年目に南海ホークス戦でトニー・バナザードと対戦した際、バナザードが空振りしたバットがすっぽ抜け、マウンド上の武田の後ろまで飛んで行った[138]。この時、バナザードは武田をにらみつけながらマウンド方向へ歩き、自らバットを拾いに行った[注 42][138]。この場面の映像は、まるで武田が接近するバナザードに怯えているかのように扱われ、珍プレーネタとして放送された[139]

自他ともに認める一言居士で、明治大学時代には島岡吉郎監督に反発したほか、プロ入り後も首脳陣と衝突して日本ハム・中日をそれぞれ追われている[注 6][注 13][注 38][18]。しかし、本人は2002年に古くからの知人たちから「もう40歳近いんだから、少しは丸くなれ」という助言を受けても「僕から意地を取ったらただの投手です」と反発している[18]

ダイエー時代の同僚である城島健司からは、工藤公康と並んで師として慕われている[140]ほか、武田自身も工藤を師と仰いでいる[89]。ダイエー時代の監督だった王貞治は武田について、工藤や秋山幸二と共に「(球団の)甘い体質を変えてくれた選手」と述べている[141]

また明治大学の後輩で、後に中日で同僚となった川上憲伸とは誕生日が同じ(6月22日)である[83]。中日時代には川上を頻繁に呼びつけては細かく指導しており、今中慎二は自著で「武田さんは大学の後輩である川上を『本当のエースにしたい』と感じて細かく指導し、川上も大学の先輩である武田さんだからこそ素直に物事を受け入れられただろう。自分が知る限り、川上は武田さんが在籍していた期間(1999年 - 2001年)に一番いいボールを投げていたという印象を持っている」「星野監督が明治大学時代に影響を受けた『明治イズム』(島岡イズム)が選手間に好影響をもたらした例」と述べている[142]

詳細情報編集

年度別投手成績編集





















































W
H
I
P
1988 日本ハム 20 2 0 0 0 1 2 0 -- .333 159 37.1 37 2 14 1 2 23 0 0 16 14 3.38 1.37
1989 36 18 5 2 0 6 8 0 -- .429 610 143.0 128 22 56 5 3 108 4 0 72 67 4.22 1.29
1990 37 2 0 0 0 10 5 13 -- .667 329 81.2 63 8 17 2 1 73 2 0 37 27 2.98 0.98
1991 41 0 0 0 0 4 8 18 -- .333 272 64.2 69 11 14 3 1 45 2 0 31 29 4.04 1.28
1992 22 10 3 1 0 4 9 0 -- .308 413 97.2 102 10 29 3 1 63 2 0 42 42 3.87 1.34
1993 27 25 9 1 2 10 8 0 -- .556 721 170.1 181 16 53 2 1 125 2 0 65 63 3.33 1.37
1994 18 17 2 0 0 5 9 0 -- .357 390 84.1 102 8 37 0 4 56 4 0 63 56 5.98 1.65
1995 2 1 0 0 0 0 0 0 -- ---- 24 5.1 8 0 1 0 0 4 0 0 3 3 5.06 1.69
1996 ダイエー 26 26 6 4 0 15 8 0 -- .652 722 171.0 167 16 56 1 4 114 6 0 77 73 3.84 1.30
1997 26 26 3 2 0 4 9 0 -- .308 699 163.2 177 17 39 2 3 102 3 0 85 70 3.85 1.32
1998 28 28 4 0 0 13 10 0 -- .565 751 176.1 173 16 68 3 2 103 3 2 82 71 3.62 1.37
1999 中日 25 25 5 3 1 9 10 0 -- .474 679 162.0 166 17 43 2 4 92 1 1 65 63 3.50 1.29
2000 15 15 1 0 0 3 6 0 -- .333 370 85.0 96 12 23 2 1 48 2 0 45 44 4.66 1.40
2001 11 11 0 0 0 3 6 0 -- .333 231 54.0 60 2 14 0 1 36 3 0 32 29 4.83 1.37
2002 巨人 7 4 0 0 0 2 1 0 -- .667 91 21.1 26 3 3 2 0 16 2 1 12 10 4.22 1.36
通算:15年 341 210 38 13 3 89 99 31 -- .473 6461 1517.2 1555 160 467 28 28 1008 36 4 727 661 3.92 1.33
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル編集

表彰編集

記録編集

初記録
節目の記録
その他の記録

背番号編集

  • 15 (1988年 - 1991年)
  • 4 (1992年 - 1995年)
  • 17 (1996年 - 1998年、2000年 - 2001年)
  • 18 (1999年)
  • 30 (2002年)
  • 84(2006年)

関連情報編集

出演番組編集

連載編集

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ a b c ダイエー球団は武田の引退後となる2004年オフに経営権をダイエーからソフトバンクに譲渡し、2005年からは「福岡ソフトバンクホークス」となった。
  2. ^ a b 『中日新聞』は1999年7月30日付朝刊で「野口(茂樹)、武田の両輪を軸にした豊富な投手陣」と述べている[5]
  3. ^ a b 4人目の達成者である門倉健(横浜)はセ・パ交流戦開始後の2005年に全12球団からの勝利(門倉の古巣で、2004年に消滅した近鉄を除く)を達成したため、交流戦開始前では武田が最後の達成者である[124]。なお、武田本人はこの記録について「1つの球団で重用されなかったから出来た記録」と述べている[18]
  4. ^ 世田谷区立北沢小学校は2018年(平成30年)4月に世田谷区立下北沢小学校と統合された[9](同年3月31日に閉校)[10]
  5. ^ 調布リトルシニアの主なOBには武田以外にも、荒木大輔関川浩一清宮幸太郎がいる[14]
  6. ^ a b 大学時代には「御大」と呼ばれた島岡吉郎に反発して退寮および謹慎を命じられ[18]、「島岡監督に唯一逆らった男」としても話題になった[19]
  7. ^ プロ初完封は1989年8月9日・対西武戦(西武球場[1]
  8. ^ 4月中旬に先発からリリーフに転向した[26]
  9. ^ 1990年4月28日(対ダイエー4回戦・東京ドーム) - 6月15日(対ロッテオリオンズ9回戦・川崎球場)[26]。武田以前には角盈男(巨人・1983年)と、1989年の郭源治(中日)・津田恒実広島東洋カープ)が記録していた[26]。続く6月21日の対西武12回戦(東京ドーム)で3対2とリードした場面で柴田保光をリリーフしたが、9回に3点を失って敗戦投手となり、NPB新記録(13試合連続セーブポイント)達成はならなかった[27]。なおこの記録は、同年7月31日に佐々岡真司(広島)が対横浜大洋ホエールズ16回戦(平塚球場)で13試合連続セーブポイントを記録したことにより更新された[28]
  10. ^ 23セーブポイントは鹿取義隆(西武)に次ぐパ・リーグ2位[29]
  11. ^ 同日、チームメイトの西崎幸広も前年比13%増額の6,800万円を提示されたが、「5年連続の2桁勝利を考えてくれていない」と激怒していた[33]
  12. ^ 5月 - 8月にかけて5連敗し、6月は未登板に終わった[40]
  13. ^ a b 永谷脩 (2002) は1995年オフに武田が日本ハムから放出された理由について、「若手育成を掲げた上田監督に反発したため」と述べている[18]
  14. ^ 王は武田を「うちの投手陣にはいない、気持ちを全面に押し出して投げるタイプ」[47]鹿取義隆に似ている」と評価し、獲得を希望した[51]
  15. ^ 結局、中日は抑え投手として同年オフ、それまで韓国球界KBOリーグ)で活躍していた宣銅烈(前ヘテ・タイガース)を獲得した。
  16. ^ 星野は当時、球団編成部に武田獲得を求めていたほか、佐藤も「ここ数年、うちは新人投手が全く育っていない」「(交換要員としては)今中山本昌、将来性のある若手選手までは出せないが、それなりの出血は覚悟している」として武田の獲得を希望し、自ら獲得に乗り出すことを宣言していた[55]
  17. ^ 中日は同年オフ、秋季キャンプ前に武田と同じパ・リーグ球団から前田・村田をトレードで獲得していたが、武田は日本ハムとの交渉で折り合わず、(前田・村田の獲得が既に決まっていた11月10日時点でも)棚上げ状態になっていた[55]。一方、武田本人は2015年に二宮清純との対談で「トレード当日の午前中までは与田剛との交換トレードで中日に行く予定だったが、最終的には中日が与田の放出を渋り、(与田とのトレードは)成立しなかった。結局、王監督の希望でダイエーへの移籍が決まった」と述べている[51]。しかし結局、与田は1996年シーズン途中にロッテへ移籍し、1998年には日本ハムへテスト入団した[56]
  18. ^ 工藤はこのキャンプの初日に140球以上を投げ込み、(2日に1回の投球で)総投球数は2,000以上を数えた[57]。武田もキャンプ前は2,000球以上の投げ込みを予定していたが、最終的には2,300球(キャンプ中最後の投球となった2月26日には327球)を投げた[58]
  19. ^ 一方、同年にともに先発ローテの中心を担った工藤は投球回(202イニング2/3)・防御率(3.51)とともに武田を上回り、178奪三振で最多奪三振のタイトルも獲得したが、8勝15敗と大きく負け越し、酒井弘樹(近鉄)とともにリーグ最多敗戦投手となった[60]
  20. ^ 内訳は西武から4勝、オリックス・日本ハム・近鉄から各3勝、ロッテから2勝[59]
  21. ^ グロス(日本ハム)の17勝、西口(西武)の16勝に次ぐリーグ3位[61]
  22. ^ 9敗は当時、自己ワーストタイだった[67]
  23. ^ ダイエーは王監督に直接出馬を要請するなど、表立った残留の交渉をしなかった[74]。また武田は希望条件の1つとして複数年契約を挙げていたが、ダイエー側は当時、数人の複数年契約選手を抱えていたため、武田には複数年契約を提示しなかった[75]
  24. ^ 星野は当時、手薄だった右の先発投手を補強しようとしていた[77]
  25. ^ 宣言を受けて中日の佐藤球団社長は「10勝投手が出てくるとなれば、どこの球団も欲しいでしょう」として獲得の意思を明言[78]。交渉解禁日(11月7日)、武田は中日の星野監督・児玉光雄球団代表補佐と交渉し[79]、15日に中日と2度目の交渉を行った[80]
  26. ^ 中日移籍の決め手については「日米野球で(巨人の)清原君から『セ・リーグはいいですよ』聞いたこともあるが、第一に星野さんの下でやってみたいと思ったから。大学の先輩ということもあるけど(交渉出馬など)ここまでしてくれるとは思ってもみなかった」と述べている[83]
  27. ^ 同日にダイエーへ中日移籍の意思を正式に伝えた[84]
  28. ^ 本人は中日と正式契約した後、「いろいろなところから声をかけていただいたが、例えば巨人を相手に、(同年にセ・リーグ優勝を果たした)横浜を相手に投げる方が自分が出せる。中日の方が向いていると思った」と述べている[83]
  29. ^ ただし2年目(2000年)までに一定の成績を残さなかった場合、3年め(2001年)は年俸が減額される条件付きだった[87]。また1999年シーズンの年俸は8,400万円と推定されていたが、実際には1億円を超えていた[88]
  30. ^ キャンプでは「2,500球投げる」と宣言し、これに触発された野口・門倉健が競って投げ込んでおり、山田久志投手チーフコーチは「武田が(チームの投手陣を)引っ張ってくれている」と評価していた[89]
  31. ^ 最終的に中日は4月16日の対読売ジャイアンツ(巨人)1回戦(東京ドーム)で勝利し、開幕からの連勝を45年ぶり(1954年の西鉄ライオンズ以来)日本タイ記録となる11まで伸ばした[94]が、翌17日の対巨人2回戦(東京ドーム)にて同シーズン初となる敗戦を喫し、NPB記録更新(開幕12連勝目)はならなかった[95]
  32. ^ 結局、同シーズン最終戦の対ヤクルトスワローズ27回戦(10月10日・明治神宮野球場)は20勝目を懸けていた野口が先発したため、武田の10勝目はならず、同年の中日で2桁勝利を挙げた投手は野口(19勝)と、新人の岩瀬仁紀(中継ぎ・10勝)の2人にとどまった[97]。しかし野口も打線の援護に恵まれず、9回1失点(サヨナラ負け)で敗戦投手となったため、20勝目達成(および巨人・上原浩治と同数のリーグ最多勝)はならなかった[98]
  33. ^ 同年、武田を失ったダイエーは苦戦が予想されていたが[99][100]、前年未勝利に終わっていた若田部健一が武田に代わる右のエースとして復活し、1994年以来となる2桁勝利(10勝)を挙げてパ・リーグ優勝を果たした[101]。武田はについて「一緒にやった仲間だから、(ダイエーの優勝は)ジーンと来るものがあった」、「ダイエーで怖いのは城島の悪球打ちくらい。投手も工藤さん以外は打てる」と述べていた[101]
  34. ^ 本人は「無理に開幕に合わせて、結局は自分が損をした」と、山田久志投手コーチも「武田は打たれるといつも『膝が痛い』と言う」とそれぞれ回顧し、『中日新聞』は「責任の所在はあいまいだが、自覚を欠いた武田と、それを容認した首脳陣の存在がそこには浮かぶ」と指摘している[108]
  35. ^ 2000年は二軍(ウ・リーグ)で2試合に登板して2勝0敗・防御率0.00の成績[111]
  36. ^ 6月までに「だましだましやってきたが、納得のいく投球ができない」と手術を決断[110]。その後、複数の病院で診察を受けたところ「右膝軟骨の損傷で、手術の必要はない」と診断されたことや[103]、手術を受けると同シーズン中の復帰が絶望的となることから、いったんは手術を回避して治療しながら二軍ウエスタン・リーグ[注 35]で調整することを決めたが[112]、最終的には手術に踏み切った。
  37. ^ 2001年は二軍(ウ・リーグ)で3試合に登板して1勝0敗・防御率3.00の成績[111]
  38. ^ a b 永谷脩 (2002) は「武田は山田久志投手コーチ(2002年から監督に就任)と反りが合わず自由契約になり、中日と対戦できるセ・リーグ球団への移籍を希望した」と述べている[18]
  39. ^ 星野は2001年9月25日に中日の監督を辞任することを表明し[116]、山田ヘッド兼投手コーチが後任として就任[117]。その後、星野はNHKの解説者に就任することが内定していたが、野村克也(同年12月5日に妻・沙知代の不祥事により引責辞任)の後任として阪神から監督就任要請を受け[118]、同月17日に受諾を発表した[119]
  40. ^ 患部から5度にわたり水を抜く治療を行ったが、完治しなかった[3]
  41. ^ 1998年の中日のチーム防御率はリーグ優勝した横浜 (3.49) を上回り、リーグ1位の3.14を記録していた[134]
  42. ^ ほとんどの場合、バットは攻撃側チームのベースコーチが拾いに行く。

出典編集

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  • (解説)江川卓、(制作)二宮清純『プロ野球スカウティングレポート'97』(編集)株式会社デポルテ、(編集担当)飯田健之・小関順二ザ・マサダ〈第1刷発行〉、1997年3月5日。ISBN 978-4915977848
  • (解説)江川卓、(制作)二宮清純『江川卓・スカウティングレポート'99』(編集)株式会社デポルテ、(編集協力)北原悦子・村上朗子・長谷川みさ江(編集担当)飯田健之・岩崎隆宏、ザ・マサダ〈第1刷発行〉、1999年3月25日、62頁。ISBN 978-4915977848
  • 「10月17日増刊号 星野ドラゴンズ優勝記念号 ドラゴンズV 1999 CENTRAL LEAGUE CHAMPIONS 星野竜11年ぶりのセ・リーグ制覇!」『週刊ベースボール』第54巻第45号、ベースボール・マガジン社、1999年10月17日。
  • 戸部良也『熱将 星野仙一』KTC中央出版、2000年4月27日、初版第1刷発行。ISBN 978-4877581718

関連項目編集

外部リンク編集