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武田 信友(たけだ のぶとも)は、戦国時代武将

 
武田信友
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 天正10年3月7日1582年3月30日
別名 六郎(通称)、信基?
官位 上野
主君 武田信玄勝頼
氏族 武田氏
父母 父:武田信虎、母:内藤氏
兄弟 竹松信玄犬千代信繁信基(信友?)信廉信顕一条信龍宗智松尾信是
河窪信実信友勝虎定恵院
南松院殿穴山信友正室)、禰々
花光院(浦野氏室)、
亀御料人大井信為正室)、下条信氏正室、禰津神平元直の長男)室、葛山氏室、
菊御料人菊亭晴季室)
正室:瀬名貞綱
信堯三浦貴久
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生涯編集

生年は不明であるが、通説的な見解では、武田信虎が嫡男の晴信により甲斐から追放され駿河今川氏に預けられた後に、駿河で生まれた第11子とされているので、少なくとも天文10年(1541年)以降の出生と推測されている。しかし、系図上は早世したとされる兄である武田信基に比定する見解もあり、この場合は信廉の兄であり、信虎の駿河追放以前の出生ということになる。

近年の説では、平山優は駿河追放後の信虎が信友を晴信に代わる後継者と位置付けて実際に家督を譲っており(「駿河武田氏」)、駿河追放以前の子とすれば、追放の際に信廉以下の男子を駿河に連れていかなかった理由が説明できないとして、駿河追放後の天文11年(1542年)に誕生して、同23年(1554年)に13歳で嫡男・信堯を儲けたとしている[1]

武田氏と今川氏は信虎時代より縁戚関係にあったが、晴信時代には甲相駿三国同盟により同盟関係はより強化されていた。信友は甲斐へ行くこともなく、信虎の亡命先の駿河でそのまま今川家臣団に加わり、今川義元氏真に仕える。桶狭間の戦いで今川義元が戦死した後に武田氏の外交方針が南進路線に転じると、葛山氏元瀬名信実とともに、兄の信玄に今川氏の内情を伝える役目を担っていたとされる。やがて今川氏真によって信虎が駿河から追放されると、信友は兄を頼って甲斐に赴き、永禄11年(1568年)12月の駿河侵攻にも呼応した[2][註 1]元亀元年(1570年)には上野介と称する。

武田氏の駿河支配では駿府城支配を任され、信玄の死後も武田勝頼に仕えた。長篠の戦いの後に隠居したという(『甲乱記』)。天正10年(1582年)2月から織田信長による甲州征伐が開始され、信長の嫡男・織田信忠が甲府を占領すると信友は捕縛され、3月7日に相川河原で処刑された[2](『信長公記』)。

なお、阿波武田氏の一族である武田信顕は武田上野介を称し、信虎の追放後の子であるという伝承があることから、この信顕こそが信友であるという指摘もある。

脚注編集

註釈編集

  1. ^ ただし、平山優は信虎は信友に家督を譲った後に自らの意思で京都に移住したもので、その後も今川氏のために活動を続けており、信虎父子が反今川氏的な活動を行った事実はないとしている(平山優『武田信虎 覆される「悪逆無道」説』戎光祥出版<中世武士選書・42>、2019年 ISBN 978-4-86403-335-0 P377-379.)。

出典編集

  1. ^ 平山優『武田信虎 覆される「悪逆無道」説』戎光祥出版<中世武士選書・42>、2019年 ISBN 978-4-86403-335-0 P28-29.
  2. ^ a b 笹本正治 著『武田信玄』ミネルヴァ書房、2005年、p.117

参考文献編集

書籍
史料