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武田 信成(たけだ のぶなり)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての武将。本姓は源氏。家系清和源氏の一家系 河内源氏の傍系 甲斐源氏嫡流武田氏甲斐武田氏の第11代当主。甲斐国守護守護代。第10代当主・武田信武嫡男[1]。第12代当主・武田信春武田基信武田武春布施満春栗原武続の父。安芸武田氏当主武田氏信の兄。

 
武田信成
時代 南北朝時代 - 室町時代初期
生誕 不明
死没 応永元年6月13日1394年7月11日
戒名 継統院殿雪窓光喜公大禅定門
幕府 室町幕府 甲斐守護
氏族 武田氏
父母 父:武田信武
兄弟 信成氏信穴山義武大井信明
山県公信
信春基信武春布施満春栗原武続
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略歴編集

出生地は不明だが、父信武の動向から安芸国で生まれた可能性が考えられている。初見史料は「一蓮寺文書」の暦応2年(1339年)で、甲斐国巨摩郡一条郷(山梨県甲府市)を甲府一条小山の時宗道場である一蓮寺に寄進している。父の信武は安芸国守護で、建武政権から離反した足利尊氏の軍勢催促に応じ南北朝の争乱においては北朝方に属し安芸を中心に活動していた。信武は甲斐国守護を兼任して南朝方の活動していた甲斐への介入を行っており、信成は父に先んじて守護代として入国している。

信武は観応2年(1351年)には観応の擾乱に際して尊氏の関東下向に随行し、箱根・竹下の戦いでは甲斐で軍勢催促を行い参加している。合戦後には信成により甲斐国人と考えられている波多野清秀へ軍忠状が与えられている(『黄薇古簡集』)。観応3年(1352年)には等々力郷の万福寺(山梨県甲州市勝沼町等々力)に禁制を与えている(「万福寺文書」)。同年、上野国で蜂起した南朝方新田氏との武蔵野合戦においては信武率いる甲斐国人勢が参加しており、このときも信成による軍勢催促が行われたと考えられている。武蔵野合戦を契機に信成の発給文書が減少する一方で波多野清秀に対しての軍忠状など信成の子信春による発給文書が増加しており、守護代職を信春に譲っていると考えられている。

1359年に信武が死去し、武田本家の家督と甲斐守護職を継承していると考えられている(安芸国守護は弟の氏信が継承)。1370年には将軍足利義満の命を受け大蔵経寺(現在の山梨県笛吹市)の伽藍を改築し、康暦2年(1380年)には塩山に向嶽庵(後の向嶽寺、甲州市塩山上於曽)を構える抜隊得勝に寺領を寄進し、向嶽寺の開祖となっている。70歳で死去(『一蓮寺過去帳』による)。法名は継統院殿雪窓光喜公大禅定門。

山梨県笛吹市の清道院は信成(または15代当主信守)の館跡と伝わり、伝信成室の墓と、彼女が身投げしたとする伝承の伝わる井戸が存在する。

脚注編集

  1. ^ ただし、黒田基樹の論文「鎌倉期の武田氏」(初出:『地方史研究』211号(1988年)/所収:木下聡 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第四巻 若狭武田氏』(戎光祥出版、2016年) ISBN 978-4-86403-192-9)では、父と同じ伊豆守を名乗って安芸守護を継承した氏信が嫡子であり、信成は庶子であったと推定している。