武藤 章(むとう あきら、1892年(明治25年)12月15日 - 1948年(昭和23年)12月23日)は、日本昭和時代の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

武藤 章
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生誕 1892年12月15日
日本の旗 日本 熊本県
死没 1948年12月23日
日本の旗 日本 東京都
所属組織 War flag of the Imperial Japanese Army.svg 大日本帝国陸軍
軍歴 1913年 - 1946年
最終階級 帝國陸軍の階級―襟章―中将.svg 陸軍中将
墓所 殉国七士廟
靖国神社
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日中戦争、対米交渉、フィリピン戦などに従事。一夕会メンバー。統制派だったが後に東條英機との対立で逆に皇道派山下奉文の部下に転じた。第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯となり処刑された。 岳父は陸軍次官、関東軍司令官などを歴任した尾野実信大将

生涯編集

熊本県上益城郡白水村 (現・菊陽町)の地主の家に生まれる。

済々黌中学熊本陸軍地方幼年学校を経て、1913年(大正2年)陸軍士官学校(25期)を卒業。富永恭次佐藤幸徳山内正文田中新一山崎保代らが同期。

1913年(大正2年)6月、見習士官として大分の歩兵第七十二連隊附となる。12月、歩兵少尉に昇進[1]

1917年(大正6年)陸軍大学校入学[2]

1920年(大正9年)陸軍大学校(32期)卒業。冨永信政青木重誠酒井康中村正雄酒井直次西村琢磨橋本欣五郎らが同期。歩兵第七十二連隊に戻る。

1921年(大正10年)陸軍士官学校、戦術学部附となる[3]

1922年(大正11年)3月、当時陸軍次官であった尾野実信中将の長女初子と結婚[4]

教育総監部編集

1922年(大正11年)教育総監部附に異動。8月大尉に昇進[5]

1923年(大正12年)10月、第一次世界大戦の研究を命じられドイツへ行く[6]

1926年(大正15年)1月、武藤の希望により米国視察。同年4月に帰国。帰国後は教育総監部附となり操典、教範の編纂に従事[7]

1928年(昭和3年)冬、赤痢を患う。3月に退院するが、その後糖尿病を併発。しばらく休暇をとる[8]

1928年(昭和3年)8月、少佐に昇進[8]

1929年(昭和4年)糖尿病がはかばかしくなく、大隊長希望を断念。12月、陸軍大学校専攻学生となり、主にクラウゼウィッツと孫子の比較研究を行う[8]

参謀本部編集

1930年(昭和5年)11月、参謀本部第二部欧米課に異動。主にドイツ関係の調査を行う[9]

1931年(昭和6年)8月、参謀本部第一部兵站班に異動。教育総監部で培った操典や教範の編纂技術を用いて兵站綱要の改編に従事するとともに、満州事変に伴う補給の業務も担当[10]

1932年(昭和7年)3月、参謀本部第二部綜合班に異動。8月中佐に昇進[10]

1933年(昭和8年)3月、第二部長永田鉄山より中支・南支方面の視察を命じられる[11]

1933年(昭和8年)11月、国際連盟脱退に関連した情報収集のため参謀総長より欧米視察を命じられ、翌1月東京に帰る。視察の結果を天皇に報告[12]

歩兵第一連隊編集

1934年(昭和9年)3月、歩兵第一連隊附に異動。連隊附中佐として教育主任を命じられる[13]

陸軍省編集

1935年(昭和10年)3月、陸軍省軍事課附に異動。武藤の陸軍省勤務の第一歩となる。当時はまだ軍事課と軍務課が分かれていなかったため、両方の業務を合わせたような仕事をしていた[14]

1935年(昭和10年)8月12日、上司で軍務局長の永田鉄山が殺害される(相沢事件)。

1936年(昭和11年)2月26日、二・二六事件。武藤が以前指導していた歩兵第一連隊の青年将校も参加。武藤は反乱した青年将校の思想を否定していたこと、永田鉄山(統制派)の部下であったことなどから、二次的抹削者名簿に挙げられていたという[15]

二・二六事件後の廣田弘毅の組閣人事に際しては、軍内部で刷新人事を期待して若手の板垣征四郎を推す動きに対して、武藤は二・二六事件の粛軍人事で引退する予定だった参議官の寺内寿一大将を陸相に担ぎ上げ、また川島陸相の代理として広田の組閣本部に乗り込み陸軍の意向を伝えるなど積極的な動きをした[16]。この動きについて武藤は、当時陸軍部内に軍内閣を期待する熱が相当あり、その運動を抑圧するためであったと後に回想している[17]

関東軍参謀第二課長(満洲)編集

1936年(昭和11年)6月、関東軍参謀第二課長に異動。駐屯地である満州関連の資料整理を行う。8月大佐に昇進。

内蒙工作編集

1936年(昭和11年)12月内蒙古の分離独立工作(いわゆる「内蒙工作」)に従事する[18]

当初は田中隆吉中佐が対応していたが、田中が神経衰弱にかかってしまったため武藤が田中に代わり対応することになったという[19]

武藤たち関東軍が進めていた内蒙工作に対し、石原莞爾が中央の統制に服するよう説得に来た際に、「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と得意の毒舌で反論して同席の若手参謀らも哄笑、石原は絶句したという[20]

参謀本部第一部作戦第三課長編集

1937年(昭和12年)3月、参謀本部第一部長石原莞爾の希望で、参謀本部第一部作戦第三課長に異動(抜擢)[21]

当時第三課長は石原が兼務していた[22]。しかし武藤は3月1日の訓示には姿を見せず、2週間以上も経った16日、東條英機と一緒に石原に挨拶をしに行く[23]

盧溝橋事件編集

1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件発生。

事件の場合は作戦ではないため陸軍省軍務局軍事課がリーダーシップをとる。武藤は軍事課長で積極派の田中新一に同調し[24]、不拡大方針をたてた上司の石原莞爾とは反対に対中国強硬政策を主張。

田中新一に電話をかけ、「ウン田中か、面白くなったね、ウン、大変面白い、大いにやらにゃいかん。しっかりやろう」と課員に聞えよがしに大声で話していたという[25]

のちに石原は武藤を「面従腹背者」と名指しで指摘し、武藤を第三課長でなく第二課長にすべきだったと反省している[26]

後に武藤は、日中戦争が解決しない状況から「やっぱり石原さんの云った通りであった」と吐露したという[27]

第二次上海事変編集

1937年(昭和12年)8月、第二次上海事変

武藤は、上海付近の支那軍は正面から力攻するのは困難だから、杭州湾に軍を上陸させて背後から支那軍を一気に撃攘するべきと具申。反対意見が多かったが上司の同意を得られ、この案が採用されたという[28]

中支那方面軍参謀副長編集

1937年(昭和12年)10月、杭州湾上陸作戦のため中支那方面軍参謀副長として上海に赴き、11月、上陸作戦を遂行[29]

1937年(昭和12年)12月、南京戦。日本軍は南京を攻略。17日南京入場式。その後杭州攻略。1938年徐州占領[30]

武藤は、日本の対支政策は蒋介石を相手にすべきだとして、近衛内閣の「国民政府を対手とせず」声明には反対だったという[31]

北支那方面軍参謀副長編集

1938年(昭和13年)7月、漢口攻略前に北支那方面軍参謀副長に転任。北京に着任。北支の治安維持に従事する。方面軍司令官は寺内寿一大将、参謀長は山下奉文中将[32]

1938年(昭和13年)12月、第一次近衛内閣の発表した興亜院の設置について武藤は、突然の発表であり、日本の領土でない支那に日本の行政機関が設置されることは違憲であり、軍政は軍司令官の権限であるため統帥権の干犯でもある、と批判している[33]

1939年(昭和14年)6月、抵抗する共産軍やゲリラに苦慮し、天津英仏租界周辺を封鎖。武藤は日英交渉に現地軍の主席として参加。東京交渉半ばで北京に戻る[34]

軍務局長編集

1939年(昭和14年)3月少将に進み、同9月陸軍省軍務局長となる。

1940年(昭和15年)第2次近衛内閣の新体制運動を熱心に支持した[35]

日ソ中立条約は、日独伊三国同盟にソ連を加えた枢軸により米国の戦争加入を阻止し日支事変を速やかに解決するための企図として大成功であると心から喜んだ[36]。日ソ中立条約後の松岡外相の対米交渉に大きな期待を寄せていたが、目まぐるしく変わる松岡外相の対米交渉に対する態度や意見を、非常に不可解に思っていた[37]。対米交渉中の外務省の仕事ぶりに杜撰さを感じて驚くことが多かった[38]

1941年(昭和16年)9月頃、陸軍で最も対米交渉に熱心なため極右の一部から睨まれているとして、憲兵の護衛が附けられた[39]

1941年(昭和16年)10月12日に行われた荻外荘会談の内容を伝え聞き、豊田外相が近衛首相に支那の撤兵問題が解決すれば日米交渉は成立すると言っていたことに対し、米国の主張する無条件撤兵ではまた紛争が起こるから、その方法についてもっとよく考えるべきで、あまりにいい加減であると思っていた。また及川海相が近衛首相に、対英米戦争決定は近衛首相に一任すると言っていたことに対し、対英米戦争は海軍が主役となるから海軍ができないといえば陸軍もそれに従うしかなく、それを首相に一任するというのはあまりに無責任であると思っていた[40]

近衛内閣末期に対米関係が極度に悪化、10月16日に近衛文麿首相は内閣を投げ出し18日に総辞職。同18日に東条内閣が成立する。 組閣に当たり天皇より開戦を是とする帝国国策遂行要領白紙還元の御諚が発せられ、東條英機首相も姿勢を対米開戦の回避に改める。

1941年(昭和16年)10月下旬、中将に昇進。

1941年(昭和16年)11月1日の大本営政府連絡会議で東郷外相により突如提示された乙案について杉山参謀総長と塚田参謀次長は、それは対症療法的なものであり日米問題を根本的に解決するものでないとして断固反対したが、武藤は2つの案に同意するよう説得し結局2人も同意した。このことが参謀部長以下の反感を買ったとしている[41]

11月26日に提示されたハルノートを見て、もう開戦に反対する人もおらず事ここに至っては開戦するほかないと思った[42]

1942年(昭和17年)大東亜審議会の幹事となる[43]

開戦後は戦争の早期終結を主張し、東條や鈴木貞一星野直樹らと対立していた。

1942年(昭和17年)3月、南方地域を視察する(サイゴン、バンコク、ラングーン、シンガポール、パレンバン、バタビヤ、マニラなど)。4月に帰国[44]

近衛師団長(スマトラ島)編集

1942年(昭和17年)4月、リヒャルト・ゾルゲにかねてから軍務局長の名で全面的な情報提供を命じていた[45]ことから、ゾルゲ事件の発覚等により更迭され[要出典]近衛師団長としてスマトラ島の守備にあたる。

師団長への転任で初の軍隊指揮官を経験する武藤は、軍務局長の仕事は不愉快なことが多かったので、第一線に行くことは嬉しかったと回想している[46]。現地軍はもう戦争に勝ったも同然と信じて勝利感に酔っていたことに武藤は驚き、気を引き締め備えを充実させるように指示したことが、現場の当惑を買ったと回想している[47]

1943年(昭和18年)6月、スマトラ島メダンで作戦中、同師団は近衛第2師団に改編される[48]

サイパン・パラオが米軍に占領されたとき、武藤は副官に「戦争は負けた。しかし我々のスマトラは負けぬ」と語ったと回想している[49]

第14方面軍参謀長(フィリピン)編集

フィリピン戦編集

1944年(昭和19年)10月、第14方面軍司令官に任命された山下奉文の希望により[要出典]第14方面軍フィリピン)の参謀長に就任。20日、ルソン島防衛のため第14方面軍司令部のあるルソン島マニラ近郊のポートマッキンレーに行く。作戦準備が何もできていないフィリピンに行くことは死の宣告であると思ったという[50]

既に米軍がレイテ島に上陸を始めていたが、武藤はフィリピンが初めてでレイテ島の位置すら知らず、武藤の前任の参謀佐久間亮三は病気のため山下大将はフィリピン着任後参謀なしで、視察する間も無く米軍の攻撃に対応しており、各参謀も新しく着任した者が多くフィリピンの状況に詳しいものはおらず、作戦準備は予想以上に悪かったという[51]

台湾沖航空戦で海軍による大戦果の誤報を誤報と知らず、レイテ島で防衛が可能であると誤認した大本営はレイテ島防衛の命令を出し、山下・武藤らは急遽レイテ島の防衛にあたることとなる。

レイテ島の戦いで苦戦していた中武藤は南方軍総参謀長を訪問し、海軍航空軍の決戦が失敗したことを率直に認識し以後の作戦を考え直さなければならないと進言し、南方総軍や大本営の作戦指導が動脈硬化症状を呈しており、それによって多くの生命が無駄に失われつつあると極言したが、受け入れられなかったという[52]

1944年(昭和19年)12月、ルソン島作戦計画を命じられる[53]

ルソン島ブロク山奥のアシン川上流域に司令部を移して抗戦していたところで終戦をむかえる[54]。山下に共に切腹することを提案するが、説得され、現地で降伏。

1945年(昭和20年)9月3日、バギオで山下、大川内、有馬とともに降伏文書調印式に臨む[55]

山下らが起訴されたマニラ軍事裁判では、逮捕起訴されないどころか、弁護人補佐として出廷し山下らの弁護につとめた。

東京裁判編集

この裁判の後、極東国際軍事裁判(東京裁判)に逮捕起訴されるため日本に戻される。

東京裁判で捕虜虐待の罪により死刑判決を受ける。東京裁判で死刑判決を受けた軍人の中で、中将の階級だったのは武藤だけである。

武藤の死刑の理由については、検察側の隠し玉的証人として法廷を驚かせた田中隆吉元陸軍少将の「軍中枢で権力を握り、対米開戦を強行した」という証言によるものだという説、また開戦時の東條の腰ぎんちゃく的存在だったとみられたからだという説などがある。

東條英機は判決後、武藤に「巻き添えに会わして気の毒だ。まさか君を死刑にするとは思わなかった」と言ったという[56]

また武藤と田中隆吉は互いに相手に対して嫌悪感をいだいており、田中がジョセフ・キーナン主席検察官への証言が元になったと説明されることが多い。 武藤は田中が軍部内の動きを法廷で暴露し自分を叩く証言をしたことについて、笹川良一に「私が万一にも絞首刑になったら、田中の体に取り憑いて狂い死にさせてやる」と語ったという。 これと関連があるのか不明だが、田中は晩年「武藤の幽霊が現れる」と精神不安定の状態に陥り、何度か自殺未遂を起こしている。

1948年(昭和23年)12月23日に巣鴨プリズン絞首刑に処された。享年57(満56歳没)。辞世の句は、

霜の夜を 思い切ったる門出かな
散る紅葉 吹かるるままの行方哉

であった。また、次のような詩を書き残している。

「西の御殿に 火急な御召し 陸は遠み 船には弱し ままよ船頭さん 夜中じゃあるが 向う岸まで お願い申す 西の殿様 気のよいお方 御馳走たくさん 下さるだろう 還りゃ気ままに 一人で渡る お酒みやげじゃ 寝てござれ」

1978年(昭和53年)、靖国神社に合祀された。

評価編集

  • 武藤が近衛師団長として赴任する際、副官に抜擢された稲垣忠弘中尉は小畑信良参謀長から次のように申し渡された。「武藤中将は陸軍にとってかけがえのない貴重な人でありどんな戦況になっても絶対に死なせてはならない。覚悟してお仕えしてくれ。それからもう一つ。武藤閣下は陸軍きっての秀才であると同時にうるさ型だ。閣下のお小言の防波堤になって適宜に参謀部に連絡してくれると参謀たちが助かるからなあ、ハッハッハ、しっかりやってくれ給え」。この発言から「武藤は陸軍の重鎮で決して死なせてはならない存在」「陸軍きっての秀才」「陸軍でもうるさ型(とても真面目で能力のある軍人でありそのためか部下などに対し小言が多くなってしまうところがあったようである、部下どころか自分に絶対の自信があったためか石原莞爾などの上司に対してもはっきりと自分の考えを述べていた。)」ということが分かる。

逸話編集

年譜編集

栄典編集

位階編集

勲章等編集

外国勲章佩用允許編集

著作編集

  • 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命
実業之日本社、1952年) 獄中の日記と夫人によるあとがきがある。
中公文庫、2008年) ISBN 978-4-12-205100-3  解説・日暮吉延
  • 上法快男 編『軍務局長武藤章回想録』(芙蓉書房出版、1981年) ISBN 4-8295-0010-7
  • 武藤章「クラウゼウヰツ、孫子の比較研究」『偕行社記事』昭和8年6月号(靖国偕行文庫所蔵)所載

脚注編集

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注釈編集

出典編集

  1. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. p. 10 
  2. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. p. 13 
  3. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. p. 15 
  4. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. p. 15 
  5. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. p. 15 
  6. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. pp. 16-17 
  7. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. p. 18 
  8. ^ a b c 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. p. 19 
  9. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. p. 20 
  10. ^ a b 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. p. 21 
  11. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. p. 22 
  12. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. pp. 22-23 
  13. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. p. 23 
  14. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. pp. 25-27 
  15. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. pp. 24-25 
  16. ^ 早瀬利之 (2015年10月10日). 石原莞爾. 潮書房光人社. pp. 107-108 
  17. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. p. 29 
  18. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. pp. 30-31 
  19. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. pp. 30-31 
  20. ^ 早瀬利之 (2015年10月10日). 石原莞爾. 潮書房光人社. pp. 184 
  21. ^ 早瀬利之 (2015年10月10日). 石原莞爾. 潮書房光人社. p. 292 
  22. ^ 早瀬利之 (2015年10月10日). 石原莞爾. 潮書房光人社. p. 292 
  23. ^ 早瀬利之 (2015年10月10日). 石原莞爾. 潮書房光人社. p. 293 
  24. ^ 早瀬利之 (2015年10月10日). 石原莞爾. 潮書房光人社. pp. 382-383 
  25. ^ 上法快男『陸軍省軍務局』
  26. ^ 早瀬利之 (2015年10月15日). 石原莞爾. 潮書房光人社. pp. 387,406 
  27. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. p. 330 
  28. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. pp. 33-34 
  29. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. pp. 34-36 
  30. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. pp. 38-42 
  31. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. p. 51 
  32. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. pp. 42-43 
  33. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. p. 46 
  34. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. pp. 46-48 
  35. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. p. 61 
  36. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. p. 62 
  37. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. pp. 63-65 
  38. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. p. 67 
  39. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. p. 68 
  40. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. pp. 69-70 
  41. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. pp. 72-73 
  42. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. p. 74 
  43. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. p. 75 
  44. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. p. 76 
  45. ^ Jurius Mader・Dr.-Sorge Report.1984
  46. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. p. 77 
  47. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. pp. 78-79 
  48. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. p. 80 
  49. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. p. 82 
  50. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. p. 82 
  51. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. pp. 91-92 
  52. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. pp. 90-103 
  53. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. p. 104 
  54. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. p. 199 
  55. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. p. 84 
  56. ^ 武藤章 (2008年12月20日). 『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』. 中公文庫. p. 308 
  57. ^ 杉本幹夫『大東亜戦争はルーズベルトの錯覚から始まった』
  58. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 法廷証第118号: [武藤章關スル人事局履歴書]
  59. ^ 『官報』第4793号、昭和18年1月7日
  60. ^ 『官報』1942年02月12日 敍任及辭令
  61. ^ 『官報』1941年12月15日 敍任及辭令

参考文献編集

関連項目編集