段 芝貴(だん しき)は、清末民初軍人北京政府安徽派の有力軍人である。香岩

段芝貴
プロフィール
出生: 1869年同治8年)
死去: 1925年民国14年)3月22日
中華民国の旗 中華民国天津市
出身地: 安徽省廬州府合肥県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 段芝貴
簡体字 段芝贵
拼音 Duàn Zhīguì
ラテン字 Tuan Chih-kuei
和名表記: だん しき
発音転記: ドゥアン ジーグイ
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事跡 編集

天津武備学堂を卒業。1895年光緒21年)、袁世凱が組織した新建陸軍に加入する。督隊稽査先鋒官、左翼歩兵第2営統帯、北洋常備軍軍政司参謀処総弁、天津南段警察局総弁などを歴任した。1908年光緒34年)、布政使署理黒竜江巡撫に就任し、さらに北洋第3鎮統制に就任した。

辛亥革命勃発時には、武衛右軍右翼翼長に就任する。1912年民国元年)、拱衛軍司令に就任した。1913年(民国2年)、江西宣撫使兼第2軍軍長となる。さらに、二次革命(第二革命)鎮圧の功績から、湖北都督に昇進した。

1914年(民国3年)、彰武上将軍に封じられ、督理湖北軍務(いわゆる湖北将軍)に就任した。1915年(民国4年)8月、鎮安上将軍に遷り、督理奉天軍務(奉天将軍)兼巡按使に就任した。袁世凱の皇帝即位を支持し、12月、一等公爵に封じられた。しかし、東北に地盤を広げようとする張作霖らから圧力をかけられ、段は1916年(民国5年)4月に、奉天将軍等を辞任した。

6月に袁世凱が死去すると、段芝貴は段祺瑞率いる安徽派に加わった。1917年(民国6年)7月の張勲復辟の際には、段芝貴は討逆軍東路司令に任命されて張勲を撃破し、輔威上将軍に封じられた。1918年(民国7年)1月、陸軍総長に就任した。翌年1月、京畿衛戍司令に異動した。

1920年(民国9年)7月の安直戦争では、定国軍西路総司令として直隷派と戦ったが敗北する。指名手配を受けた段芝貴は、天津の租界に逃げ込み、完全に政界・軍界から引退した。

1925年(民国14年)3月、死去。享年57。

参考文献 編集

  • 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
   中華民国北京政府
先代
(創設)
江西宣撫使
1913年7月 - 1914年
次代
(廃止)
先代
段祺瑞
湖北都督(署理)
1914年2月 - 6月
次代
(将軍に改称)
先代
(都督から改称)
湖北将軍
1914年6月 - 1915年8月
次代
張錫鑾
先代
張錫鑾
奉天将軍
1915年8月 - 1916年6月
次代
張作霖
先代
王士珍
京畿警備司令
1917年8月 - 1919年9月
次代
(京畿衛戍司令に改組)
先代
王士珍
陸軍総長
1917年12月 - 1919年1月
次代
靳雲鵬
先代
(京畿警備司令から改組)
京畿衛戍司令
1919年9月 - 1920年7月
次代
王懐慶