巌倉水電株式会社(巖倉水電株式會社、いわくらすいでん かぶしきがいしゃ)は、明治末期から大正にかけて存在した日本の電力会社である。中部電力パワーグリッド管内にかつて存在した事業者の一つ。

巌倉水電株式会社
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
三重県阿山郡上野町大字福居町56[1]
設立 1905年(明治38年)1月10日[2]
1904年2月6日開業)
解散 1922年(大正11年)9月11日[3]
三重合同電気へ合併し解散)
業種 電気
事業内容 電気供給事業
代表者 田中善助(社長)
公称資本金 60万円
払込資本金 45万円
配当率 年率12.0%
特記事項:代表者以下は1921年1月時点[4]
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比奈知川水電株式会社
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
三重県阿山郡上野町大字福居町56[5]
設立 1919年(大正8年)4月26日[5]
解散 1922年(大正11年)9月11日[3]
(三重合同電気へ合併し解散)
業種 電気
事業内容 発電事業
代表者 田中善助
公称資本金 50万円
払込資本金 12万5000円
特記事項:代表者以下は1921年1月時点[6]
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伊賀上野の実業家田中善助の個人電気事業を、開業翌年の1905年(明治38年)に法人化して発足。主として三重県阿山郡(現・伊賀市)へ電気を供給した。1922年(大正11年)、三重県内の電気事業統合により三重合同電気(後の合同電気)に合併された。

本項目では、田中善助が巌倉水電に続いて設立した系列発電会社の比奈知川水電株式会社(ひなちがわすいでん)についても記述する。こちらは1919年(大正8年)に設立され、巌倉水電と同時に合同電気へ合併された。

沿革 編集

明治期 編集

巌倉水電の創業者は伊賀上野の実業家田中善助(1858 - 1946年)である。田中の本業は金物商で、1879年(明治12年)に家を継いで新町で金物屋「金善」を経営していた[7]。店で洋鉄・洋釘などの輸入品の取り扱いを始めると好評で、資力に多少の余裕ができたため、家業以外の事業にも手を広げまず開墾事業に乗り出す[7]。そしてその次に田中が始めたのが電気事業であった[8]

1896年(明治29年)1月、上野の有志らが水力発電を企画していたので発起人に加わり、資本金を3万円とする予定で各方面へと出願した[8]。しかし途中で離脱する発起人が相次いだので失敗に終わった[8]。続いて名張の有志とはかって青蓮寺川(淀川水系、名張川支流)の開発を試み、名張へと供給してから増資を行い上野へと遠距離送電するという計画を立てて1896年6月会社設立に着手するが、やはり資金が集まらず失敗した[8]。田中は引き続き青蓮寺川の開発を目論み1897年(明治30年)にも上野・名張双方から発起人を集め「伊和電力」を設立しようとするが失敗する[8]

失敗続きのため田中は単独での起業を決意し、適地を物色の末に巌倉(現・伊賀市岩倉、木津川沿岸)での発電計画を立案、水利権を申請した[8]。県当局の許可が2年経っても下りないため無断で工事を始め、その結果罰金刑に処せられるものの、直後に工事が許可された[8]。工事を進めるうちに後援者が現れ、資金の獲得に成功[8]。そして発電所を完成させて1904年(明治37年)2月6日事業開始に漕ぎ着けた[9]。発電所竣工により上野の町にはじめて電灯が点灯した[10]。この巌倉発電所の出力は50キロワットであった[11]

開業翌年の1905年(明治38年)、田中の電気事業は株式会社組織に改められ、「巌倉水電株式会社」が発足した[8]。会社設立は1月10日付、設立登記は11月27日付である[2]。本社は上野町大字福居町56番屋敷に設置[2]。取締役田中善助のほか役員には全員伊賀地方の人物が名を連ねる[2]。資本金は設立時7万5000円であったが[2]、その後事業拡大に伴う増資により1912年(明治45年)7月より15万円となった[8]

巌倉水電の成功の後、田中は改めて青蓮寺川を開発すべく1906年(明治39年)に水利権を申請する[12]。この計画にはシーメンス・シュッケルト電気(ドイツシーメンスの日本法人)も参入して「三重共同電気」として会社設立が実現する[12]。同社は1910年(明治43年)8月に開業し、津市津電灯への供給を始める[13]。同年10月にはその津電灯を合併し、半年後には2代目の津電灯へと発展した[13]

大正期 編集

巌倉水電については、事業拡大に伴う増資が続いて資本金は1916年(大正5年)9月より30万円、1920年(大正9年)3月より60万円と、徐々に増加していった[8]。発電力も同様であり、まず1913年(大正2年)12月に巌倉発電所の出力が150キロワットに引き上げられた[11]。次いで需要増のため島ヶ原村において2番目の水力発電所新設を計画するが、許可を得られず、代わりに1915年(大正4年)ごろ小田村にガス機関によるガス力発電所(出力75キロワット、後に増設され225キロワット)を建設している[14]

田中善助は青蓮寺川に続いて名張川上流部の比奈知川(ひなちがわ)の開発を試み、1914年(大正3年)に水利権を出願した[15]。当初は宇治山田市(現・伊勢市)方面への送電を企画し、同地の伊勢電気鉄道と電力供給契約を締結していたが、許可が下りないのでこの契約を取り消し、送電距離が半分になり有利ということで奈良県関西水力電気と供給契約を結びなおした[15]1919年(大正8年)4月26日[5]、事業認可に伴い資本金50万円で「比奈知川水電株式会社」が発足した[15]。本社は巌倉水電と同じ上野町大字福居町56番屋敷に構えた[5]

1920年代に入ると、三重県知事山脇春樹の主唱で三重県内の電気事業統合への動きが出現する。知事の勧告により、県内の主要電気事業者5社、津電灯(津市)・北勢電気四日市市)・松阪電気松阪町)・伊勢電気鉄道(宇治山田市)と巌倉水電は、合併に向けた協議を進めた[16]。だが巌倉水電は合併に参加せず、北勢電気も関西電気(後の東邦電力)との合併を選んだため、津電灯・松阪電気・伊勢電気鉄道の3社だけで合併が成立、1922年(大正11年)5月に三重合同電気株式会社(後の合同電気)の設立をみた[16]。しかし三重合同電気設立後、巌倉水電は比奈知川水電とともに同社と合併することとなり、1922年9月11日付で合併が成立[17]、同日をもって両社とも解散した[3]

三重合同電気との合併直前の1922年6月、比奈知川水電は比奈知発電所を完成させて開業式を挙げていた[15]。送電先は関西水力電気の予定であったが、三重合同電気との統合にあたって三重県外への送電が認められなかったため、関西水力電気との契約は解除して県内へと送電した[15]

供給区域 編集

 
三重県下の主要電気事業者供給区域図(1921年)。水色の部分が巌倉水電の供給区域

1919年12月末時点での巌倉水電の電灯・電力供給区域は以下の通り[1]。すべて三重県内である。

上記地域を供給区域として、1921年度末時点では、電灯については需要家1万2,830戸に対し計2万4,058灯を供給、電力については計130.4キロワット(うち電動機用電力は128.6キロワット)を供給していた[18]。なお、これらの地域は1951年(昭和26年)に発足した中部電力の供給区域にすべて含まれている[19]

発電所 編集

巌倉発電所 編集

巌倉水電最初の水力発電所は巌倉発電所(岩倉発電所)という。所在地は阿山郡新居村大字西山(現・伊賀市西山)[9]。会社設立前年の1904年(明治37年)2月に、田中善助の個人経営事業の発電所として運転を開始した[9]。出力は当初50キロワットで、1913年(大正2年)12月以降は150キロワットである[11]

現在「岩倉大橋」がかかる場所の近くに堰堤を築き、木津川(伊賀川、発電所付近は「岩倉峡」と称す)より毎秒1.14立方メートルを取水[9]。川の右岸に沿った約2.2キロメートルの水路で13.0メートルの有効落差を得て発電した[9]水車発電機ともに芝浦製作所製であったが、大正期の更新により水車はフォイト(ドイツ)製、発電機はシーメンス(同)製となった[9]。発生電力の周波数は60ヘルツである[9]

巌倉水電から合同電気東邦電力中部配電を経て1951年(昭和26年)以降は中部電力に帰属した[11]。この間、1937年(昭和12年)3月に巌倉発電所から「新居発電所」へと改称している[11]1953年(昭和28年)に洪水で水没し、2年後1955年(昭和30年)2月1日に廃止となった[9]

比奈知発電所 編集

比奈知川水電の発電所は比奈知発電所と称する。所在地は名賀郡比奈知村大字上比奈知(現・名張市上比奈知)[20]1922年(大正11年)5月21日に竣工した[20]

名張川(比奈知川)に堰堤を築き、毎秒1.95立方メートルを取水、川の左岸に通した約2.9キロメートルの水路で57メートルの有効落差を得て発電した[20]。発電所は現・比奈知ダムのやや下流にあった[20]エッシャーウイス(スイス)製のフランシス水車ウェスティングハウス・エレクトリック(アメリカ)製の発電機各2台を備え、出力は800キロワットである[20]。発生電力の周波数は巌倉発電所と同様60ヘルツ[20]

比奈知川水電から合同電気、東邦電力、中部配電を経て1951年以降は中部電力に帰属した[11]水資源開発公団による比奈知ダム建設に伴い1991年(平成3年)2月19日に廃止されており、現存しない[20]

ガス力発電所 編集

巌倉水電は水力発電所に加えてガス力(内燃力)発電所も運転していた。発電所名は第二発電所といい[21][22]、阿山郡小田村字上沢ノ谷(現・伊賀市小田町)に位置した[1]

逓信省の資料によると、1915年度下期から第二発電所の運転が確認できる[23]。発電所出力は当初75キロワット[21]、1919年末時点では225キロワット[22]原動機として吸入ガス機関を2台、大阪電灯製75キロワット発電機・芝浦製作所製150キロワット発電機を各1台備えた[22]。発生電力の周波数は巌倉発電所と同じく60ヘルツの設定である[22]

三重合同電気時代の1924年(大正13年)に送電線新設に伴い発電所構内に上野変電所が設置されると運転休止状態となり[14]1928年(昭和3年)6月に廃止された[14][24]

脚注 編集

  1. ^ a b c 『電気事業要覧』第12回60-61頁。NDLJP:975005/55
  2. ^ a b c d e 商業登記」『官報』第6728号、1905年12月2日付。NDLJP:2950066/22
  3. ^ a b c 「商業登記」『官報』第3077号、1922年11月2日付。NDLJP:2955195/25
  4. ^ 『日本全国諸会社役員録』第29回下編107頁。NDLJP:936470/515
  5. ^ a b c d 「商業登記」『官報』第2078号附録、1919年7月9日付。NDLJP:2954191/16
  6. ^ 『日本全国諸会社役員録』第29回下編116頁。NDLJP:936470/520
  7. ^ a b 田中善助自叙伝『鉄城翁伝』(『田中善助伝記』135・143頁)
  8. ^ a b c d e f g h i j k 『鉄城翁伝』(『田中善助伝記』175-186頁)
  9. ^ a b c d e f g h 『三重の水力発電』77-78頁
  10. ^ 『名張市史』741-742頁
  11. ^ a b c d e f 『中部地方電気事業史』下巻333-334頁
  12. ^ a b 『鉄城翁伝』(『田中善助伝記』192-198頁)
  13. ^ a b 浅野伸一「戦前三重県の火力発電事業」129-130頁
  14. ^ a b c 浅野伸一「戦前三重県の火力発電事業」127-128頁
  15. ^ a b c d e 『鉄城翁伝』(『田中善助伝記』198-201頁)
  16. ^ a b 『東邦電力史』239-241頁
  17. ^ 『東邦電力史』242-243頁
  18. ^ 『電気事業要覧』第14回334-335・362-363頁。NDLJP:975007/194
  19. ^ 三重県は南牟婁郡の一部以外中部電力の供給区域である(『中部地方電気事業史』下巻4-5頁)
  20. ^ a b c d e f g 『三重の水力発電』85-86頁
  21. ^ a b 『電気事業要覧』第9回204-205頁。NDLJP:975002/122
  22. ^ a b c d 『電気事業要覧』第12回220-221頁。NDLJP:975005/135
  23. ^ 『電気事業要覧』第9回420-421頁。NDLJP:975002/230
  24. ^ 『電気年鑑』昭和4年13頁。NDLJP:1139383/59

参考文献 編集

  • 企業史
    • 中部電力電気事業史編纂委員会(編)『中部地方電気事業史』 上巻・下巻、中部電力、1995年。 
    • 東邦電力史編纂委員会(編)『東邦電力史』東邦電力史刊行会、1962年。 
  • 逓信省関連
    • 逓信省電気局(編)『電気事業要覧』 第9回、逓信協会、1917年。NDLJP:975002 
    • 逓信省電気局(編)『電気事業要覧』 第12回、逓信協会、1920年。NDLJP:975005 
    • 逓信省電気局(編)『電気事業要覧』 第14回、電気協会、1922年。NDLJP:975007 
  • その他文献
    • 『田中善助自伝』財団法人前田教育会、1998年。 
    • 黒川静夫『三重の水力発電』三重県良書出版会、1997年。 
    • 商業興信所『日本全国諸会社役員録』 第29回、商業興信所、1921年。NDLJP:936470 
    • 電気之友社(編)『電気年鑑』 昭和4年、電気之友社、1929年。NDLJP:1139383 
    • 中貞夫『名張市史』名張市役所、1974年。 
  • 記事
    • 浅野伸一「戦前三重県の火力発電事業」『シンポジウム中部の電力のあゆみ』第10回講演報告資料集 三重の電気事業史とその遺産、中部産業遺産研究会、2002年、111-143頁。 

関連項目 編集