毛利高定
毛利 高定(もうり たかさだ)は、江戸時代前期の武士。豊後佐伯藩の家門、のち旗本。
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長8年(1603年)[1] |
死没 | 元禄元年12月26日(1689年1月17日)[1] |
別名 | 高明、次郎八、数馬[1] |
戒名 | 全英[1] |
墓所 | 保善寺[1] |
幕府 | 江戸幕府 書院番[1] |
主君 | 徳川家光、家綱 |
氏族 | 藤姓毛利氏 |
父母 | 父:毛利高政、母:吉田氏[2] |
兄弟 | 高成、高定、松平重長の妻[3] |
子 | 十郎左衛門、高信、間宮盛俊の妻、石川政之の妻[1] |
経歴
編集佐伯藩初代藩主・毛利高政の次男、庶子[2]。慶長17年(1612年)父とともに前将軍・徳川家康に御目見し、江戸在府料として月俸70口を付される(元和4年(1618年)帰国)[1]。
寛永10年(1633年)異母兄の2代藩主・高成が急死すると、その嫡男・高直が4歳と幼かったため、高成の叔父・吉安に後継として擁立された。しかし翌年に幕府は高直の相続を正統と認めたため、高定は佐伯藩を去って旗本に転じ、書院番300俵となった[4][5][1]。延宝5年(1677年)家督を次男・高信に譲り、元禄元年(1689年)87歳で没[1]。
脚注
編集参考文献
編集- 大分県総務部総務課 編『大分県史 近世篇』 1巻、大分県、1983年。
- 梅木幸吉『佐伯文庫の研究』1989年。
- 『寛政重修諸家譜』 17巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0221-5。