エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによる2016年の民主主義指数の世界地図。青色(9-10)が最も指数が高い。
アダム・プシェヴォルスキによる2008年の「民主主義-独裁制」の世界地図。緑色:議会制民主主義、水色:混合民主主義(半大統領制)、青色:大統領制民主主義、黄色:君主独裁制、橙色:文民独裁制、赤色:軍事独裁制。

民主主義(みんしゅしゅぎ、: democracyデモクラシー)とは、国家など集団の支配者が、その構成員(人民民衆国民など)である政体、制度、または思想や運動[1]。日本語では、主に政体を指す場合は民主政(みんしゅせい)、制度を指す場合は民主制(みんしゅせい)とも訳される。対比語は貴族制寡頭制独裁制専制全体主義など。

目次

用語編集

「デモクラシー」(democracy)の語源は古代ギリシア語δημοκρατίαdēmokratía、デーモクラティアー)で、「人民・民衆・大衆」などを意味する δῆμος古代ギリシア語ラテン翻字: dêmos、デーモス)と、「権力・支配」などを意味する κράτος古代ギリシア語ラテン翻字: kratos、クラトス)を組み合わせたもので、「人民権力」「民衆支配」、「国民主権」などの意味である [2]。この用語は、同様に「優れた人」を意味する ἄριστος古代ギリシア語ラテン翻字: aristos、アリストス)と κράτος を組み合わせた ἀριστοκρατία古代ギリシア語ラテン翻字: aristokratía、アリストクラティア。優れた人による権力・支配、貴族制寡頭制)との対比で使用され、権力者や支配者が構成員の一部であるか全員であるかを対比した用語である。

古代ギリシアの衰退以降は「デモクラシー」の語は衆愚政治の意味で使われるようになった。古代ローマでは「デモクラシー」の語は使用されず、王政を廃止し、元老院市民集会が主権を持つ体制は「共和制」と呼ばれた。

近代の政治思想上で初めて明確にデモクラシー要求を行ったのは、清教徒革命でのレヴェラーズ(Levellers、平等派、水平派)であった[3]近代啓蒙主義以降は、「デモクラシー主義」は自由主義思想の用語として使われるようになった(自由民主制主義)。更にフランス革命後は君主制貴族制神政政治などとの対比で、20世紀以降は全体主義との対比でも使用される事が増えた。なお政治学では、非民主制(の政体)の総称は「権威主義制(権威主義制政体)」と呼ばれる。

日本語で「デモクラシー」は通常、主に政体を指す場合は「民主政」、主に制度を指す場合は「民主制」、主に思想・理念・運動を指す場合は「民主主義」などと訳し分けられている。なお政治学では、特に思想・理念・運動を明確に指すために「デモクラティズム」(: democratism、民主主義(思想))が使用される場合もある。

なお現代ギリシャ語ではδημοκρατία(ディモクラティア)は「民主主義」を表すと同時に「共和国(共和制)」を表す語でもあり、国名の「~共和国」と言う場合にもδημοκρατίαが用いられる。

概要編集

民主主義(デモクラシー、民主政、民主制)は、組織の重要な意思決定を、その組織の構成員(人民、民衆、大衆、国民)が行う、即ち構成員が最終決定権(主権)を持つという政体制度政治思想であるが、その概念、理念、範囲、制度などは古代より多くの主張や議論がある。

古代ギリシアの民主主義は、寡頭制(少数派支配)に対する人民支配(民衆支配、多数派支配)であり、法の支配自由自治法的平等などの概念と関連していた。しかしその後は長く衆愚政治を意味するようになり、17世紀以降に啓蒙主義による自由主義の立場から再評価され、社会契約論により国民主権の正統性理念となり、名誉革命アメリカ独立革命フランス革命などのブルジョワ革命に大きな影響を与えた。民主主義は功利主義経験主義の立場からも評価されるが、同時に古代より多数派による専制や、民衆の支持を背景に少数独裁に転じる危険性も存在する。

民主主義の種類は大別して、構成員が直接参加する直接民主主義と、構成員が代表を選出して代表が議論や意思決定を行う間接民主主義(代表制民主主義)があり、組織の規模や、意思決定の重要度などによって選択や組み合わせが行われている。直接民主主義的要素には、構成員全体による会議の他にイニシアティブ(住民発案、国民発案)、レファレンダム(住民投票、国民投票)、リコールなどがあり、間接民主主義の代表例には議会大統領などがある。これらの制度は組織全体の統合機能を持つため、仮に形骸化した場合には統合機能が低下する。また自由な議論の前提には、言論の自由、少数派の尊重、情報公開なども必要とされる。

民主主義を実現するための制度にはその組織や国の歴史的経緯などにより、議会主義による議院内閣制、二元代表制による大統領制、あるいはその組み合わせ(半大統領制)などがある。また権力による独裁を防ぐための三権分立など各種の権力分立がある。また現代の大衆社会では政党圧力団体マスメディアなどの役割や影響力も増加した。

種類編集

民主主義の代表的な種類・分類には以下があるが、その分類や呼称は時代・立場・観点などにもよって異り、多くの議論が存在している。

直接民主主義編集

 
スイス・グラールス州の州民集会。2014年。

直接民主主義は、集団の構成員による意思が集団の意思決定に、より直接的に反映されるべきと考える。直接民主主義の究極の形態は、構成員が直接的に集合し議論して決定する形態であり、高い正統性が得られる反面、特に大規模な集団では物理的な制約や、構成員に高い知見や負担が必要となる。また議員など代表者を選出する形態でも有権者の選択が重視され、議員は信任されたのではなく有権者の意思を委任された存在であり、有権者の意思に反する場合はリコールや再選挙の対象となりうる。

古代アテナイでは民会が実施された。現代ではイニシアチブ(国民発案、住民発案など)、レファレンダム(国民投票、住民投票など)、リコール(罷免)が直接民主主義に基づく制度とされ、都市国家の伝統を受け継ぐスイスアメリカ合衆国タウンミーティングなどでは構成員の参加による自治が重視されている。

間接民主主義編集

間接民主主義(代表民主主義、代議制民主主義)は、主権者である集団の構成員が、自分の代表者(議員、大統領など)を選出し、実際の意思決定を任せる方法・制度である。主権者による意思決定は間接的となるが、知識や意識が高く政治的活動が可能な時間や費用に耐えられる人物を選出する事が可能となる。選挙制度にもより、議員の位置づけ(支持者や選挙区の代表か、全体の代表か)、選挙の正当性(投票価値の平等性、区割りなどの適正性など)、代表者(達)による決定の正当性(主権者の意思(世論、民意)が反映されているか)などが常に議論となる。

自由民主主義編集

自由民主主義(自由主義的民主主義、立憲民主主義)は、自由主義による民主主義。人間は理性を持ち判断が可能であり、自由権私的所有権参政権などの基本的人権自然権であるとして、立憲主義による権力の制限、権力分立による権力の区別分離と抑制均衡を重視する。古典的には、選出された議員は全員の代表であり、理性に従い議論と交渉を行い決定する自由を持つと考える。

宗教民主主義編集

宗教における民主主義。キリスト教民主主義会衆制、仏教民主主義、イスラム民主主義など。

社会主義編集

社会主義における民主主義には、フェビアン協会等による社会民主主義の潮流、マルクス・レーニン主義(いわゆる共産主義)によるプロレタリア民主主義人民民主主義新民主主義などがある。

ジェファーソン流民主主義編集

アメリカ合衆国大統領トーマス・ジェファーソン等による民主主義。共和制、自立を重視し、エリート主義に反対し、政党制と弱い連邦制(小さな政府)を主張した。

ジャクソン流民主主義編集

アメリカ合衆国大統領アンドリュー・ジャクソン等による民主主義。選挙権を土地所有者から全白人男性に拡大し、猟官制や領土拡張を進めた。

草の根民主主義編集

市民運動住民運動など一般民衆による民主主義。ジェファーソン流民主主義を源泉とし、フランクリン・ルーズベルトが提唱した[4]

戦う民主主義編集

第二次世界大戦後のドイツ等、自由を否定する自由や権利までは認めない民主主義。

歴史編集

古代より多くの時代や地域あるいは共同体で、多様な合議制や、ルールに基づいた合意形成意思決定が存在したが、一般的には民主主義(デモクラシー、民主政、民主制)の起源は古代ギリシャおよび古代ローマとされ、また近代的な意味での民主主義は17世紀以降の啓蒙思想自由主義、それらの影響を受けたフランス革命アメリカ独立革命などを経て形成され、20世紀に多くの諸国や地域に拡大した。

古代ギリシア編集

 
アテナイ民主主義の父」と呼ばれるクレイステネスの像(オハイオ州議事堂)

古代ギリシアアテナイでは、民会による直接民主主義が行われた。民会の参加はアテナイ市民権を持つ全成人男性で、奴隷・女性・移住者は対象外であり、議論の後に多数決で決定された。

アテナイでは王制から貴族制に移行後は、貴族のアレオパゴス会議(元老院)による支配が行われ、民会の権限は限定的であった。紀元前7世紀にドラコンが従来の不文法を成文化し、貴族による法知識の独占が崩された。紀元前6世紀、ソロンが全ての市民が民会に参加することを認める法律を制定した。紀元前5世紀、クレイステネス僭主ヒッピアスを追放し、従来の血縁による部族制から居住区(デーモス、デモクラシーの語源となった)制への移行、五百人評議会の設置、陶片追放の創設など、民主制の基礎を確立した。更に紀元前462年、ペリクレス等がアレオパゴス会議の権限を剥奪した。

しかしペルシア戦争後、ソフィスト等の批判でソクラテスが処刑されると、弟子のプラトンアリストテレスは民主主義は衆愚政治に陥る危険があると考えた。アテナイを含む古代ギリシア衰退後は、民主主義(大衆支配)は合理的な統治形態ではないと考える時代が長く続いた。

古代ローマ編集

 
レッジョ・エミリアにあるSPQRの紋章。共和制ローマの主権者である「元老院とローマの人民(市民)」を表す。

古代ローマでは、古代ギリシアで使われたデモクラシーという言葉は衆愚政治を意味すると考え使用しなかったが、共和制移行後は貴族中心の元老院と平民の民会が意思決定機関となり、ローマ法が整備され、王政復活や独裁を防止するために執政官などの政務官は任期等が制限された。いわゆる帝政ローマへの移行後も、名目上は共和制で、ローマ皇帝元首プリンケプス)であった。

紀元前509年、古代ローマは王を追放し共和政ローマとなったが、貴族と平民の身分闘争が続き、紀元前494年 平民を保護する護民官が創設されて拒否権が与えられ、紀元前287年 ホルテンシウス法で民会が独自の立法機関となったが、グラックス兄弟などの改革は失敗した。またローマ市民権は被征服民族などに拡大され、212年のアントニヌス勅令で帝国内の全自由民(成人男性)に拡大された。

キケロは元老院(統治機関)、執政官(元首)、民会(議会)を権力分立と考えた。近代以降、元老院は上院、民会は下院プリンケプス元首となり、ローマ法はヨーロッパ法(普通法、ユス・コムーネ)に影響を与えた。

中世編集

中世ではローマ教会など宗教的権威や王権神授説など絶対王政が支配的となったが、ヨーロッパでは都市国家古代ローマの影響、各地の商業都市発達などもあり、多様な場所や形態で選挙君主制議会自治など民主的な概念や制度も存在した。古代からのものも含め、主な例には以下がある。

近代国家の成立と啓蒙思想編集

 
1215年に作られた、マグナ・カルタの認証付写本

13世紀、イングランド王国マグナ・カルタにより王権の制限が定められた。16世紀以降、ジャック=ベニーニュ・ボシュエロバート・フィルマー王権神授説を唱えて政治権力の教会権力からの独立を宣言し、ジャン・ボダンが「国家主権論」を唱え、1648年 ヴェストファーレン条約により中世とは異なる近代的な主権国家が成立した[5]

17世紀以降、啓蒙思想による自由主義が主張され、ヴォルテールは自由主義や人間の平等を主張した。17世紀、清教徒革命でリヴェラベーズ(平等派)が社会契約や普通選挙を要求した。また人民主権の理論として社会契約論が唱えられた。ホッブスの社会契約論は、権力の正統性を神ではなく被支配者である人民に求めたが、国民による統治は構想しなかった。次にジョン・ロックの社会契約論は、更に国民の抵抗権(革命権)を認め、アメリカ独立革命に影響を与えた[6]。またジャン・ジャック・ルソーの社会契約論は、堕落した文明社会を変革する方法として人民が一般意思(公共我)を創出するとし、また代表制を批判し直接民主主義の理念を提示し[7]、後のフランス革命に影響を与えた。モンテスキューはブルジョワジー、特に知識階級の自由を権力の専制からいかに保障するかを考え、権力分立の形態として三権分立を構想した[8]

アメリカ独立革命編集

 
独立宣言への署名」(ジョン・トランブル画)

1775年、アメリカ独立革命が発生した。北アメリカのイギリス植民地では、植民地への重税や植民地からの輸入規制等への不満から、ミルトン、ハリントンロックの理論を学び、基本的人権と代表制(「代表なくして課税なし」)を確立した。1776年 トーマス・ジェファーソンが起草したアメリカ独立宣言では社会契約論、人民主権、革命権が明文の政治原理として採用された。各植民地は憲法制定など共和国としての制度を整え、タウンミーティングなど直接民主主義の伝統が形成されていった。特にペンシルベニアバージニア等の共和国憲法は、人民の意思の反映、議会の優位を強く打ち出し、連邦の強化は専制に繋がるものとして警戒された[9]

独立戦争後の財政危機、無産階級の台頭による政治不安の中、有産階級は各植民地共和国の独立・自治を見直し、強力な中央連邦政府の樹立へ向かった。1787年採択のアメリカ合衆国憲法は、多数派の権力もまた警戒すべしとの考えから、権力分立の徹底と社会秩序の安定を重視し、議会の二院制、議会から独立した強力な大統領による行政権、立法に優位する司法権を確立した。この結果、ブルジョワジー中心の体制が確立した[9]。その後、ジェファーソン流民主主義ジャクソン流民主主義が2大潮流となり、また大衆社会による議会制度の形骸化を受けて草の根民主主義も提唱された。

われわれは、以下の事実を自明のことと考えている。つまりすべての人は生まれながらにして平等であり、すべての人は神より侵されざるべき権利を与えられている、その権利には、生命、自由、そして幸福の追求が含まれている。その権利を保障するものとして、政府が国民のあいだに打ち立てられ、統治されるものの同意がその正当な力の根源となる。そしていかなる政府といえどもその目的に反するときには、その政府を変更したり、廃したりして、新しい政府を打ちたてる国民としての権利をもつ。 — アメリカ独立宣言 (1776年)
これまで英国の王が有していたすべての憲法の権威は、社会全体の共通の利益のため契約によって人民から由来し、人民が保持するものとなった。 — バージニア憲法 (1776年)

フランス革命編集

1789年からのフランス革命では、1791年憲法で人民主権、一般意思、主権の分割譲渡不可が明記された。更に1793年憲法ジャコバン憲法)で、抵抗権、直接民主主義的要素などルソーの影響を強く受けた憲法が制定されたが、施行されずに終わった。

(人および市民の権利の宣言)

  • 第1条 人間は、自由かつ権利において平等として生まれ、かつ生存する。(後略)
  • 第3条 すべての主権の根源は、本質的に国民にある。(後略)
  • 第6条 法律は一般意思の表明である。すべての市民は、個人的、または彼らの代表者によって、その作成に協力する権利を持つ。(後略)

(憲法[10]

  • 第11条 主権は1つで、分割できず、譲り渡すことができず、かつ時効にもかからない。主権は国民に属する。(後略)
  • 第56条 フランスには、法律の権威に優越する権利は存在しない。国王は、法律によってのみ統治し、かつ国王が服従を強要することができるのは、ただ法律の名においてのみである。
— フランス1791年憲法[11]

(人間および市民の権利の宣言)

  • 第33条 圧政にたいする抵抗は、人間のほかの権利の当然の結果である。

(憲法)

  • 第7条 主権者人民は、フランス市民の総体である。
  • 第10条 主権者人民は、法律を審議する。
— フランス1793年憲法[12]

現代編集

 
The Polity IV projectによる、1800年から2003年までの民主主義国の数[13]

18世紀から20世紀にかけて、主要各国で男性普通選挙や、女性も含めた完全普通選挙が普及した。特に第一次世界大戦第二次世界大戦総力戦となり女性の社会進出が進み、また民族自決を掲げて植民地の独立が続き、多数の主権国家が誕生した。

19世紀以降、社会主義の潮流の中より、従来のブルジョワ民主主義を欺瞞として暴力革命を唱える共産主義マルクス・レーニン主義)が登場すると、共産主義陣営は資本主義陣営を帝国主義と批判し、資本主義陣営は共産主義陣営の共産党一党独裁を批判した。更に第二次世界大戦後、イタリアではファシズムドイツではナチズムが台頭し、国家主義民族主義を掲げて民主主義を批判した。

2007年、国際連合総会は9月15日を「国際民主主義デー」とし、すべての加盟国および団体に対して公的意識向上のための貢献を感謝する決議を行った[14]

思想編集

民主主義に関する思想、見解、発言には多数のものがあるが、世界的に著名なものには以下がある。

デマラトス編集

紀元前5世紀ペルシア戦争の際、ペルシャ大王のクセルクセス1世と、ペルシャに亡命中の元スパルタ王のデマラトスの対話より。当時は一般的な専制政治のペルシャ王は統治の基本原則は恐怖であり、自由とは放任状態で統制のとれない状態と考えるが、例外的に法(ノモス)の権威の下に団結して自由を唱える市民団からなるポリスでは、法の下での平等な関係を踏まえた自治があり、言論が人を動かす道具で、ポリスの自由により市民が政治に参加できていた[15]

(クセルクセス1世)デマラトスよ、一千の兵がこれほどの大軍を相手に戦うなど、そなたは何という笑止なことを申すのか。(中略)それたの者たちが一人の指揮者の采配の元にあるのではなく、ことごとくが一様に自由であるとするならば、どうしてこれほどの大軍に向かって対抗し得ようか。(中略)一人の統率下にあれば、指揮官を恐れる心から実力以上の力も出そうし、鞭に脅かされて寡勢を顧みず大軍に向かって突撃もしよう。しかしながら自由に放任しておけば、そのいずれもするはずがなかろう。

(デマラトス)彼らは自由であるとはいえ、いかなる点においても自由であると申すのではありません。彼らは法(ノモス)と申す主君を頂いておりまして、彼らがこれを怖れることは、殿のご家来が殿を怖れるどころではないのでございます。いずれにせよ彼らはこの主君の命じるままに行動いたしますが、この主君の命じますことは常に一つ、すなわちいかなる大軍を迎えても決して敵に後ろを見せることを許さず、あくまでも己の部署にふみとどまって敵を制するか自ら討たれるかせよ、ということでございます。

— ヘロドトス歴史[15]

ペリクレス編集

紀元前5世紀、古代アテナイの指導者ペリクレスによる葬送演説より。多数者の公平法的平等、私生活の自由法の支配などをポリスの理想と主張した。

われらの政体は他国の制度を追従するものではない。ひとの理想を追うのではなく、ひとをしてわが範を習わしめるものである。その名は、少数者の独占を排し多数者の公平を守ることを旨として、民主政治と呼ばれる。わが国においては、個人間に紛争が生ずれば、法律の定めによってすべての人に平等な発言が認められる。だが一個人が才能の秀でていることが世に分かれば、無分別なる平等の理を排し世人の認めるその人の能力に応じて、公の高い地位を授けられる。またたとえ貧窮に身を起こそうとも、ポリスに益をなす力を持つ人ならば、貧しさゆえに道を閉ざされることはない。われらはあくまで自由に公に尽くす道を持ち、また日々互いに猜疑の目を恐れることなく自由な生活を享受している。(中略)私の生活においてわれらは互いに掣肘を加えることはしない、だが事公に関するときは、法を犯す振る舞いを深く恥じおそれる。時の政治をあずかるものに従い、法を敬い、とくに侵された者を救う掟と、万人に廉恥の心を呼ぶさます不文の掟とを、熱く尊ぶことを忘れない。

まとめて言えば、我等のポリス全体はギリシア人が追うべき理想の顕現であり、われら一人一人の市民は、人生の広い諸活動に通暁し、自由人の品位を持し、己の治世の円熟を期することができると思う。

— トゥキディデス戦史[16]

プラトン編集

紀元前4世紀プラトンは著作『国家』で、国家の寡頭制の次の段階は民主制だが、行き過ぎた自由により崩壊して僭主制になるとし、理想を「哲人政治」と記した[17]

(民主制国家の)人々は自由であり、その国家は行動の自由と言論の自由に満ちている。そこでは何人(なんぴと)も、自分のしたい放題のことをすることが許されている、ということになるのではないか。(中略)あまりに行き過ぎた自由は、個人と国家を問わず、行き過ぎた隷属以外のどこへも変化しない。僭主制とは、民主制以外の国制から生まれてくるものではないようだ。思うに、極端な自由から、最も大きく最も激しい隷属があらわれてくるようだ。 — プラトン国家』第八巻[18]

アリストテレス編集

紀元前4世紀アリストテレスは著作『政治学』で政治体制を、支配者の数と、共通の利益に基づくかどうか、によって6政体に分類した[19]。 アリストテレスは民主政を、「自由人の生まれで財産の無い者が多数であって支配者である」政体だが、「悪い政体」の中では「最も悪くないもの」であり、民主政では法の支配が確保されるために民会は例外的にのみ開かれる事が大事で、民衆が農民ならば権利はあっても政治に参加する閑暇が無いため民主政は穏健なものとなるが、民衆が職人・商人・日雇いから成る場合は民主政は極端な形態に陥りやすい、と記した[19]。また民主政治の前提条件に「自由」、「政権や権力の交代」、「平等」、「多数決原理」などを挙げた[20]

一人による支配 少数者による支配 多数者による支配[21]
共通の利益に基づく政体(良い政体) バシレイア(王政 アリストクラティア(貴族政 ティモクラティア、ポリテイア(共和制、国制)
共通の利益に基づかない政体(悪い政体) テュランニス(僭主政 オリガルキア(寡頭政 デモクラティア(民主政
民主制的国制の根本原理は自由である。そして自由の一つは順番に支配されたり、支配することである。というのは民主制的「正」は、人の値打ちに応じてではなくて、人の数に応じて等しきものを持つことであるが、(中略)大衆は必然的に主権者であり、また何事によらず、より多数の者が決定することが最終的なものであり、またそれが正しいことである。(中略)次のようなことが民主制的なことである - すなわちすべての人々がもろもろの役人をすべての人から選挙すること、すべての人々が一方において個々の人を支配し、他方において個々の人が順番にすべての人を支配すること、もろもろの役は財産を全然その資格としないこと、あるいはできるだけ小額を資格とすること、同一人がどんな役にも二度と就かないこと...(中略)貧乏な人々が裕福な人々よりも少しも多く支配に与らないこと、あるいはただ貧乏人だけ主権者であることなく、すべての人々が数に応じて等しくそうであることが、(中略)そうであってこそ国制には平等と自由が存在すると人々は信ずるだろうからである。 — アリストテレス政治学』第6章[20]
国家共同体でも中間的な人々によって支配されているものが最善であり、(中略)未熟粗暴な民主制からも寡頭制からも独裁制は生じてくるものであるが、中間的な国制やそれにちかいものから生じることははるかに少ない。 — アリストテレス政治学』第4巻 第11章[22]

キケロ編集

紀元前1世紀、共和政ローママルクス・トゥッリウス・キケロは、カエサルによる独裁を警戒し、法治理念を中心とした共和制を目指した。後の18世紀にモンテスキューやヴォルテールによって民主主義の先導者として評価された[23]

  • 武力がものを言えば、法律は沈黙する[24]
  • 我々が自由であるために、我々全員が法律の奴隷となる[25]
— マルクス・トゥッリウス・キケロ

マキャヴェッリ編集

16世紀 ニッコロ・マキャヴェッリは著作『君主論』で現実主義的な政治理論を主張した。

大衆は常に、外見だけを見て、また出来事の結果だけで判断してしまうものだ。 — ニッコロ・マキャヴェッリ君主論』第18章[26]

ホッブス編集

17世紀清教徒革命の時代にトマス・ホッブズは従来の王権神授説に対して社会契約論を唱え、権力の正統性を人民に求めた。ホッブスは著作『リヴァイアサン』で「人間の人間としての権利」として自然権を主張し、全ての人間は生まれながらにして自由平等だが、自然状態は万人の万人に対する闘争のため、法の支配を実現するために支配服従契約を結んだと主張し、後の基本的人権に繋がった[27]。ただしホッブスは、各個人は自然権行使権の全てを放棄して国家主権者(国王)に委ねたとし、契約により成立した国家への抵抗権参政権は否定した[28]

自然権とは、各人が、彼自身の自然すなわち彼自身の生命を維持するために、彼自身の欲するままに彼自身の力を用いるという、各人の自由である。従って、かれ自身の判断と理性において、そのために最も適当と思われるあらゆる事を、行う自由である。 — トマス・ホッブズリヴァイアサン』第14章[27]

ロック編集

17世紀名誉革命時代にジョン・ロックは著作『統治二論』等で、人間は自然権を持つが、社会の秩序を守るために国民の信託により政府を設立したのであり、仮に政府が国民の意思に反する場合には抵抗権(革命権)を行使して政府を変える事が可能とした[29]。ロックは人間は理性により自然法に従って生きる事が可能であり、社会契約により自然権の一部(解釈権)を国家に委ねたが、それ以外の自然権は留保しており、公権力が私人の生命・自由・財産を侵害する場合には統治契約違反として抵抗して戦う権利を肯定した[30]。またハリントンの提唱した権力分立制を発展させ、立法権と行政権を分離し、立法権を有する国会が最高権を有すると主張し、イギリスで伝統的に形成されてきた立憲主義権力分立議会主義を社会契約論から理論づけた[31]

ルソー編集

18世紀ジャン=ジャック・ルソーは著作『人間不平等起源論』、『エミール (ルソー)』、『社会契約論』などで、人間は生来自由であるが、社会秩序のために社会契約を結んで国家成立したため、その政府は人民の一般意思に従う必要があるとした。一般意思とは「ただ共通の利益だけを考慮する」もので、特殊意思の総和である全体意思とは異なり、「常に公明正大であり、公共的な功利に向かっている」ものとした[32]主権は一般意思の行使であり、譲渡や分割や、一般意思からの逸脱はできない。ルソーは主権者である人民は立法権を行使し続けるべきと主張し、代表者(議員)という発想を、中世以来の政治的堕落の産物として批判した[33]。また、すべての政体には特色と欠点があるが、最低限執行権と立法権の分離が必要で、定期的集会により政府の形態や執行者について投票で決めるべきとした[34]。ルソーの社会契約論はホッブスやロックとは大幅に異なり、ギリシャのポリスを理想とし、社会契約による変革が不可能な時は天才的立法者の独裁による一般意思の強制的創出をも提唱しているが、代表制の欺瞞を指摘し直接民主主義の理念を提示した[35]

人間は生まれながらにして自由であるが、しかしいたるところで鉄鎖につながれている。あるものは他人の主人と信じているが、事実は彼ら以上に奴隷である。国家的秩序は神聖な権利で、他のあらゆる権利の基礎をなしている。それにもかかわらず、この権利は自然から由来するものでなく、したがっていくつかの合意にもとづくものである。(中略)最強者であっても、自己の力を権利に、彼に対する服従を義務に変えなかったならば、いつでも支配者でいられるほど強力なわけではない。(中略)自己保存のためには、力を集合して力の総和をつくって、障害の抵抗を克服できるようにし、ただ一つの原動力でこれらの力を動かし、そろって作用させるよりほかに方法はない。 — ジャン=ジャック・ルソー社会契約論』第1編[36]
(イギリス人は)自らが自由だと思っているが、それは大間違いだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるや否や、彼らは奴隷となる。(中略)主権が譲り渡すことができないと同じ理由で、主権は代表されることはできない。それは本質的に一般意思に存する。そして意思は代表されない。意思は自分のものか、あるいは他人のものである。その中間はない。それゆえに、人民の代議士は一般意思を代表しているものでもないし、代表することもできない。彼らはその用達人でしかない。彼らは決定的に何ものも決めることはできない。人民が誰も批准しなかった一切の法律は無効である。それは法律ではない。 — ジャン=ジャック・ルソー[37]

モンテスキュー編集

18世紀シャルル・ド・モンテスキューは多くの統治制度を比較研究し、ブルジョワジー特に知識階級の自由を権力の専制から保障するために立法・行政・司法を同一人物または団体に独占させない権力分立(三権分立)を構想した。更に立法を庶民院貴族院に分け、行政は国王が担い、司法は恣意を排した純粋に理論的操作であり権力性は無いと考えたため、庶民院・貴族院・君主の三権に当時のブルジョワジー・貴族階級・絶対王権の三階級が対応した[38]

ヴォルテール編集

18世紀 ヴォルテール啓蒙主義として自由主義や人の本質的な平等を主張した。

  • あらゆる人は同等である。それを異なるものにするのは生まれではなく、徳である[39]
  • 近代的な政治をするために、民衆も賢明にならなければならない[40]
  • 私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る。
— ヴォルテール

フランソワ・ギゾー編集

フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー普通選挙を求めるデモ隊に以下の発言を行い、フランス2月革命の要因の一つとなった。

選挙権が欲しければ金持ちになりたまえ! — フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー[41]

リンカーン編集

エイブラハム・リンカーンは1863年のゲティスバーグ演説で有名な以下の演説を行った。

これらの勇敢な父祖たちの死を無駄にしないために、神のもとで新しい自由を生み出し、そして、人民の人民による人民のための政治・統治がこの地上から失われてしまわないよう高らかに決意しなければならない。 — エイブラハム・リンカーン

ベンサム編集

18世紀後半から19世紀前半にかけて、ジェレミ・ベンサムは自然権や社会契約などの抽象的理論を斥け、功利主義の立場から政治の目標を「最大多数の最大幸福」に置き、国家は個人の安全に必要な限度で存在すべき必要悪として、男子普通選挙などを提案した[42]

ミル編集

19世紀ジョン・スチュアート・ミルは、ベンサムと同じく功利主義に立ったが個人の精神的自由を重視し、少数者の自由を抑圧する多数者による専制に危惧を抱き、教養ある人々に複数の投票権を与える不平等選挙や、少数者も代表を選出しうる比例代表制を提案した[43]

トクヴィル編集

19世紀 アレクシ・ド・トクヴィルは、自由主義的政治家として社会主義や急進的共和主義に反対し、著作『アメリカのデモクラシー』で民主政治の平等性を評価する半面、個人の平等化が集団的匿名的専制主義につながるという大衆デモクラシーの傾向を指摘した[44]

合衆国においては誰でも法に遵う(したがう)ことに一種の個人的利益を見出しているという事実がある。今日、多数(派)に属さない人も、おそらく明日にはその列にあるだろうという期待があるからである。 — アレクシ・ド・トクヴィルアメリカのデモクラシー』第6章[45]
(アメリカ合衆国では)多数が疑念を抱いている限り議論があるが、しかしいったん断固として多数が意見を表明すれば、各人は沈黙する。(中略)(アメリカを支配する力は)僅かの非難にさえ傷つき、少しでも痛いところをつかれると猛り立つ。(中略)多数は常に自讃の中に生きている。(中略)精神の自由がアメリカにはないからである。 — アレクシ・ド・トクヴィルアメリカのデモクラシー』第7章[44]

レーニン編集

ウラジーミル・レーニンは、著作『国家と革命』で、国家は階級対立とともに発生した支配階級の被支配階級抑圧のための機関で、ブルジョワ議会主義などの小ブルジョア民主主義は欺瞞であり、社会主義の実現のためにはブルジョア国家を暴力革命によって粉砕してプロレタリア独裁を行う必要があり、その後の社会主義国家コミューン型国家で、そのもとで民主主義はいっそう発展し、更に共産主義社会への移行とともに国家は死滅すると主張した[46]

資本主義社会における民主主義は、常に少数者、有産階級、金持ちだけのためにある。 — ウラジーミル・レーニン[47]
  • 支配階級のどの成員が議会で人民を抑圧し、蹂躙するかを、数年にただ一度決めること - この点に議会制立憲国をはじめ最も民主的な共和国においてもブルジョア議会主義の真の本質がある。(中略)議会制度からの活路は、もちろん、代議機関と選挙制の廃棄にあるのではなく、代議機関をおしゃべり小屋から「行動的」団体へ転化することにある。「コンミューンは、議会ふうの団体ではなくて、執行府であると同時に立法府でもある行動的」団体でなければならなかった。[48]
  • (国家が社会の名において生産手段を掌握した後の、すなわち社会主義革命後の時代では)この時期の「国家」の政治形態がもっとも完全な民主主義であることを、われわれはみな知っている。(中略)民主主義もまた国家であり、したがって、国家が死滅するときには民主主義もまた消滅する。(中略)あらゆる国家は、被抑圧階級を「抑圧するための特殊な力」である。だから、あらゆる国家は不自由で、非人民的である[49]
— ウラジーミル・レーニン国家と革命

トロツキー編集

レフ・トロツキーは、スターリン主義を批判し、社会主義に民主主義が必要と述べた。

社会主義は民主主義を必要とする。人間の身体が酸素を必要とするように。 — レフ・トロツキー[50]

ムッソリーニ編集

ベニート・ムッソリーニ自由主義社会主義の両方を批判し、ファシズムを提唱した。

民主主義は理論上は美しく、実践上は誤り。諸君はいつかそのようなアメリカの姿を見るだろう。 — ベニート・ムッソリーニ - 1928年

ヒトラー編集

アドルフ・ヒトラーは著書『我が闘争』で、大衆は理性的ではなく、効果的なプロパガンダによって操作できる存在で、議会制民主主義は欺瞞であり、ドイツには指導者原理による指導者が必要と主張した。権力掌握後は独裁を行い、国民投票による事後承認を多用した。

大衆の圧倒的多数は、冷静な熟慮でなく、むしろ感情的な感覚で考えや行動を決めるという、女性的な素質と態度の持ち主である。だが、この感情は複雑なものではなく、非常に単純で閉鎖的なものなのだ。そこには、物事の差異を識別するのではなく、肯定か否定か、愛か憎しみか、正義か悪か、真実か嘘かだけが存在するのであり、半分は正しく、半分は違うなどということは決してあり得ないのである。 — アドルフ・ヒトラー『我が闘争』

カール・シュミット編集

法学者のカール・シュミットは、民衆の望む政治を行う事こそが民主主義と考え、アドルフ・ヒトラーを最も民主主義的と評価した[51]

  • 民主主義とは治者と被治者の同一性を基礎とする統治原理である[52]
  • 民衆が望む方向性と、政治家が目指す政治の方向性が一致していることが民主主義[53]
— カール・シュミット

チャーチル編集

1947年、ウィンストン・チャーチル下院演説で、民主主義は酷いが、過去の君主制や独裁制はもっと酷いと述べた。

これまでも多くの政治体制が試みられてきたし、またこれからも過ちと悲哀にみちたこの世界中で試みられていくだろう。民主主義が完全で賢明であると見せかけることは誰にも出来ない。実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。 — ウィンストン・チャーチル、1947年 下院演説[54]

ハイエク編集

フリードリヒ・ハイエク自由主義の立場から、「理性主義」を批判し、法の支配市場経済を二大原理と主張した。

民主主義の下では、共同社会の道徳上の伝統、多数の人が共有する共通の理念を形成しない限り、法の支配は普及しない。[55]

フランシス・フクヤマ編集

フランシス・フクヤマは1991年のソ連崩壊で、国際社会において最終的に民主主義が勝利し「歴史の終わり」となったと述べたが、その後も民族紛争や宗教紛争などが発生している[56]

ソ連崩壊以降、社会制度を巡るイデオロギーの対立が終わり、民主主義が政治体制の最終形態となり、永遠に存在し得る制度となった。 — フランシス・フクヤマ[57]

制度編集

少数者支配の集団では制度は支配者の効率や都合次第でも良いが、多数者支配である民主主義では多数者による支配(意思決定)を実現し、独裁や専制の発生を抑止するための制度が必要となるため、歴史的にも多数の理念・制度・議論が存在している。近代国家の政治制度論は近代政治思想の影響を受けて、国民の自由を妨げないための相互牽制(権力分立)、国民のための機関であるという正統性、国民の統合などを目指しているが、具体的な制度は必ずしも理論的産物ではなく、多様な伝統・歴史の産物でもある[58]

近代以前編集

 
アテナイで有名な葬送演説をするペリクレスを描いた絵(19世紀、Philipp Foltz)

古代ギリシアアテナイでは、市民が主権者で、民会を中心とした直接民主主義が行われた。また僭主など独裁の発生防止に陶片追放などが行われた。共和制ローマでは、ローマ市民が主権者で、元老院ローマ民会が意思決定機関となり、独裁の発生防止に執政官や非常時の独裁官等は任期制とされた。13世紀 イングランド王国では王権制限のためマグナ・カルタが制定され、立憲主義の先駆となった。

議会編集

議会主義編集

議会主義は政治的主導権が議会に与えられる政治運営の体制で、この場合の議会とは「国民の代表」とされる選挙された議員から成る会議体であり、政治的主導権とは立法権更には行政監督権限である[59]。中世身分制議会は、国民代表ではなく、諮問機関にすぎないため、議会主義における議会ではない。また憲法上で議会の主導権が認められていても、実際の運用上で行政権を制御できない独裁国家などは議会主義と言えず、逆に制度上は諮問機関でも議会が内閣を選出する慣習ができれば議会主義が成り立っているといえる[60]。議会は中世ヨーロッパの各国で貴族・僧侶・平民などの身分制議会が定期的に招集されるようになった事に始まり、中世封建制度が崩壊と絶対王政確立により廃止され、ブルジョワ革命による王政打倒後に近代議会が誕生した。ただしイギリスではブルジョワ革命の比較的穏やかな進展により、身分制議会が国民を代表する近代議会に成長した[60]

多数決原理編集

近代議会は個々人の政治的主張を調整する事により社会を統合する機関であり、その統合は社会全体の代表者である議員達の自由で理性的な討論と説得、そして妥協の積み重ねによるが、現実に解決すべき政治的課題の緊急性から意見の一致が得られぬ場合には、集団的意思決定手段として、相対的多数者の意見が暫定的に議会の意思とされる[60]。しかし議会による統合の観点より、多数派と少数派の差異は常に相対的とされて将来の状況変化や討論進展による逆転可能性が留保されている必要がある。議会制を採用していても、(a)相対主義的価値観の社会への浸透(複数の価値観が承認されうる社会) (b)議員とその背後の社会構成員の一体的同質性(階級宗教イデオロギー等の対立が激しくない社会) (c)理性的かつ客観的な判断ができる議員 (d)意見発表の自由とその機会の均等、などの条件が揃わない場合には議会主義は変質または形式化する[60]

代表制原理編集

近代議会を構成する議員は「国民の代表」のため、彼らの意思が国民全体の意思とされるが、この「代表」の意味はブルジョワ革命期より根本的な思想的対立がある[60]

イギリスのホイッグ党の主張、エマニュエル=ジョゼフ・シエイエスらによるフランス1791年憲法などが起源。各議員は全国民の代表として全国民のために政治活動し、自分の選挙区や出身階級などの利害のためには活動してはならないと考え、リコールなどの直接民主主義的制度は禁止される。この原理の代表は、具体的に現実の国民の意思と結びついている必要は無いため、身分制選挙や制限選挙により選出された議員でも国民を代表できる[60]
起源は中世身分制議会の諸身分代表で、議員の地方代表性を強調したイギリスのトーリー党、道徳的市民が直接民主制の人民集会で一般意思を表示すべしとしたルソー、その思想を反映したフランスの1793年憲法などに例が見られる。各議員は現実に存在する一定の人民から委託を受けた代表で、議会は社会全体の縮図と捉える。議員は全て直接普通選挙で選ばれ、選出母体の意思を忠実に議会で代弁し主張すべきため、選出母体の意思に反した場合はリコールが認められる。討論による説得や妥協は困難なため、同質性の高い小共同体など以外では採用が難しいが、アメリカ合衆国タウンミーティングなどが精神を受け継いでいる[60]

二院制編集

議会政治の母国とされるイギリスでは、中世身分制議会が連続的に近代議会に発展した歴史より貴族院庶民院二院制だが、二院制の目的や性格は各国により異なる[61]

二院制は権力分立、自由主義を背景とした制度であり、フランス革命社会主義コミューン理論など自由主義よりも民主主義を代表する立場からは批判される。また政党の発達による両院の性格相違の減少もあり、新たに二院制を採用する国は少ない[61]

一院と同じ決議をするなら無用、違う決議をするなら有害 — エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス (1789年)[61]

権力分立編集

近代国家はブルジョワ革命の産物のため、自由主義の理念と専制的な権力に対する警戒から何らかの権力分立制度が採用されているが、国家の運営と行政の効率上は立法権と行政権の協働も要請され、その調和が課題となるが、各国の沿革や事情により複数のパターンがある[62]

  • 議院内閣制 - 行政府(内閣)を議会の信任により成立・存立させ、議会に対して責任を負わせる[62]
  • 大統領制 - 行政府(大統領)を独立して選挙し、直接国民に対して責任を負わせる[62]
  • 議会統治制 - 行政府を完全に議会に従属させ、その責任を認めない (スイスなど)

議院内閣制編集

18世紀のイギリスで形成された。国王の行政権が次第に大臣に移り、1742年に国王の信認を得ていたロバート・ウォルポール首相が議会の不信任により辞職し、大臣も議会の信任なくしては在職できない慣習が確立した。その後に連帯責任の原則、議会の首相指名による内閣成立制度などが整備された[62]。議院内閣制では内閣成立の指名と内閣の責任追及において議会が内閣をコントロールし、内閣は議会の解散により議会に対する選挙民の信任を問いうる事で、両者間に抑制と均衡が成立する[62]。このようなイギリス型の議会制度はウェストミンスターモデルとも呼ばれる。

  • 長所 - (1)議会主義の貫徹が達成できる (2)議会と内閣の共働で政策を推進できる (3)内閣の責任 = 議会の多数派の責任が明瞭で国民の選挙による責任追及が容易[62]
  • 短所 - 議会の多数派が内閣を組織するため、内閣の予算や法案が容易に通過し、野党の追求が困難(権力分立が不十分。二大政党制では政権交代による権力分立でこの弊害を緩和)[62]

大統領制編集

アメリカ合衆国の政治体制として創始された。大統領は国民の間接選挙(実質的には直接選挙)により選出され、任期の間は弾劾決議成立を除き免職は無い。議会は大統領の責任を追及できない反面、大統領は議会を解散できない。また大統領は議会への法案提出権が無いが、議会で成立した法案の施行への拒否権がある(両院が3分の2以上の多数で再可決すれば拒否にかかわらず成立)。

  • 長所 - 徹底した権力分立(全国民から直接選ばれるとの強い正統性を背景にした、大統領への強力な行政権限の集中)[62]
  • 短所 - (1)立法府と行政府の対立による非効率 (2)失政責任を大統領と議会多数派が押しつけ合う事が可能 (3)民主主義の未定着国で大統領が独裁者と化す危険性[62]

アメリカ型の純粋な大統領制を採用する国は少ないが、儀礼象徴的な大統領制はドイツ、イタリア、スイスなど多数ある。フランスは直接国民投票によって選ばれ、首相任命権、議会解散権などの強大な権力を持ち、議院内閣制と大統領制の混合形態と考えられる[62]

政党編集

政党は、17世紀のイギリス名誉革命の前後に生まれたトーリー党ホイッグ党が最初とされるが、19世紀後半迄の政党はいわゆる貴族政党(名望家政党)で、「財産と教養」ある階層によるサロン的なグループで、特に綱領や組織を持たず、個々の議員に対する拘束力は非常に緩かった[63]普通選挙実施後の現代の大衆政党(組織政党)は、議員以外にも多数の一般党員を全国的に組織し、綱領や役割組織も備え、党費により財政を賄い、議員や党員は党議に拘束され違反には除名などの罰則が設けられているが、これら拘束は「議員は全く自由な個人として討議し議決する」との近代議会主義の原則からは本来は認められないため、ルソーワシントンジェファーソンらは政党否定論を唱えた[63]

普通選挙が進み近代ブルジョワ国家から現代大衆国家へ変質すると、従来の「理性的な個人」とされた財産と教養あるブルジョワジーによる議会主義が形骸化し、有権者と候補者を政治的に組織する媒体として政党(大衆政党)が登場した。政党は私的結社として生まれたが、一定の条件((1)普通選挙制と議会主義 (2)複数政党制の存在 (3)党内民主主義)を満たす場合には公的役割を果たしていると言える[63] 。また近代議会制民主主義の自由委任制は大衆社会では修正を余儀なくされ、有権者の意思を正しく議会に反映させるために選挙制度における人口比例が重要となった[63]

政党は混沌たる候補者群の中に秩序をもたらす。 — ジェームズ・ブライス『近代民主政治』[63]

利益団体編集

 
20世紀の著名な社会運動であるアメリカ公民権運動を指導したマーティン・ルーサー・キング・ジュニア

利益団体(圧力団体)は、政党以上に近代的な議会主義から離れており、特定の利益集団により民意や政治を歪める存在とも批判されるが、議会の統合機関としての役割低下に伴い大衆の直接的な要求を議会や行政府に働きかける側面も持つ。利益団体の発生は19世紀のアメリカでのロビイストで、利益団体の機能には、職能代表的機能、政策に対するチェック機能、政治家養成機能、団体構成員への教育機能、などがある。利益団体の分類はR・T・マッケンジーによる以下の3分類が一般的である[64]

議論編集

民主主義(民主政、民主制)に関する議論は、その用語や概念自体に関する解釈を含めて多数の議論が存在するが、主な議論の要素には以下があり、各要素は相互に関連している。

構成員編集

民主主義では集団の重要な意思決定を構成員が行うため、構成員の正統性や範囲などが議論となる。民主主義は特定の範囲のもの(同質性)を平等に扱うため、全人類を範囲としない限り、その範囲外のもの(異質性)は区別し排除する事になる[65]

古代ギリシアポリスでは、市民はポリスの軍務を担える者とされ、そのため重装歩兵などの装備や軍務を自費で担える、一定資産を持つ成人男性の自由民のみが市民とされ、無産者、奴隷、女性、他のポリスからの移住者や子孫などは原則として除外された。しかしサラミスの海戦ガレー船の漕ぎ手が貢献すると無産市民も発言力を高めた。共和制ローマではローマ市民権が被支配民族や被支配地域に徐々に拡大され、アウグストゥス以降は兵役満期後の属州民の子供にも拡大され、更にアントニヌス勅令でローマ帝国内の全自由民に拡大された。

近代のブルジョワ民主主義による議会制民主主義では、「理性や教養を持つ市民」が議会で議論し決定するとされ、そのため「理性や教養を持つ市民」とされた有産階級の成人男性のみが参政権を持つ制限選挙が行われた。フランス人権宣言では全ての人間は普遍的に人権を持ち平等とされたが、以後も無産者、女性、植民地住民などは参政権は無く、各国で徐々に普通選挙女性参政権、あるいは植民地独立などが進んだ。またフランス革命以降、多くの時代や地域で言語民族宗教などの社会的同質性によるナショナリズムを統合の理念とした国民国家が普及したが、その反面として少数民族異教徒外国人難民などへの差別や排斥も発生している。現代の現実的な民主主義は国民的な同質性原理により、国民意識が普遍的人権より上位におかれている[66]。現代でも一部の植民地保護国属領などでは本国に対する参政権は無い。外国人参政権の範囲は国により対応が異なる。

代表制編集

議会制民主主義(代表制民主主義、間接民主主義)では、選挙や議員の位置づけについて複数の潮流がある[60]

古代ギリシアのアテナイでは、市民全員参加の民会や、選出された評議員による五百人評議会などがあった。共和制ローマでは、元老院民会があり、現在の貴族院上院)と庶民院下院)の起源となった。

代表制原理には多数の議論がある。間接民主主義を重視する観点からは、有権者は適切と考える人物に投票し、選出された議員や大統領は全構成員の代表として信任されたとされ、自己の理性と知見に従い自由に議論し決定する。この観点からは、次の選挙まで議員の身分は保証され、次の選挙まで民意反映の機会もなく、選挙制度や政党は重視されない。他方、直接民主主義を重視する観点からは、理想は直接参加であるが、議員を選出する場合でも信任ではなく限定的な委任であり、議員が有権者の意思に反する場合にはリコール等も認められる。

近代の自由主義によるブルジョワ民主主義では権力による独裁を警戒し、当初の選挙は「理性と教養ある市民」とされた有産階級の成人男性のみによる制限選挙で、選出された議員は全体の代表として自由に議論でき、また権力分立として三権分立や二院制も採用された。この観点からは、普通選挙は無産階級による多数派支配が警戒された。ルソーワシントンジェファーソンらは政党否定論を唱えた[63]。しかし普通選挙が進展した大衆社会となり、階級対立など社会の同質性が低下して議会の形骸化が進展し、支持する勢力を議会に送り込むために選挙制度や政党、更には圧力団体の重要性が増大した。

人民の意思の反映(人民主権)をより重視する立場からは、普通選挙女性参政権など公民権の拡大、議会の優越(議会主義)、直接民主主義的要素(イニシアティブリコールレファレンダム)などが唱えられる。ジャン=ジャック・ルソーは議会制民主主義(間接民主主義)の欺瞞を主張し、フランス1793年憲法ジャコバン憲法)は直接民主主義的要素を採用した。また多くの国や組織で、特に重要な意思決定にはレファレンダムが併用されるようになった。

ウラジーミル・レーニン前衛党共産党)が多数派の労働者・農民を代表するとして一党独裁を行った(レーニン主義党の指導性)。またアドルフ・ヒトラーは自己をドイツ民族の指導者と主張して独裁を行い(指導者原理)、カール・シュミットアドルフ・ヒトラーを最も民主主義的と評価した。これらの独裁を批判する立場や理念には、自由主義多元主義経験主義保守主義や、法の支配権力分立などがある。

意思決定方法編集

民主主義は構成員全体による意思決定のため、全構成員による集会や、代表者による議会のいずれの場合でも、合意形成方法が議論となる。

大別して以下の決定方式がある。

  • 全会一致 - 全構成員または全出席者の賛成をもって決する。民主主義の理念上、最大の正統性が得られる。各構成員が拒否権を持つ事と同等で多数派による専制の懸念が無いが、説得や調整が重要となり、対立を含む議案では合意形成の困難性が高い。(国際連盟の総会、国際連合安全保障理事会常任理事国拒否権など)
  • 多数決(過半数) - 全構成員または全出席者の、過半数をもって決する。効率的な意思決定が可能だが、多数派による専制となり議会が形骸化する、過半数で勝敗が分かれるため僅かな状況変化により結論が二転三転する、過半数形成のための駆け引きや取引が重要となる、などの懸念もある。(古代アテナイの民会、多くの近代議会における通常の立法など)
  • 多数決(特別多数) - 全構成員または全出席者の、過半数よりも更に多い特定の数などをもって決する。特に重要な意思決定を慎重に行う目的で採用される(国際連合憲章改正の発議[67]硬性憲法の改正など)

一般的には、議論による説得・妥協・交渉などを続けて全会一致となるまで合意形成を図る事が理想的だが、意見集約が困難で期限が求められる場合には多数決も採用される。しかし多数決は「多数派による専制」(トグウィル)ともなり、特に階級や民族など同質性が低い集団では、多数派と少数派が固定化し、議会における実質的な審議機能が低下すると、民主主義による全体の統合機能が形骸化する。

また自由な議論には言論の自由多元主義情報公開などが前提となるため、形式的には民主主義でもこれら前提が実質的には不十分な場合には非自由主義的民主主義などとも呼ばれる。自由主義や多元主義の観点からは、複数の意見が存在して議論や選択の余地がある事自体が健全であり、説得や状況によって現在の少数派も将来は多数派になる可能性が確保されている事が、議会や民主主義の統合機能には必要となる。

古代アテナイでは議論を行った後に、決着しない場合には多数決が行われた。モンテスキューは二院制による慎重な審議を主張し、ルソーは人民主権を重視して一院制を主張した。多くの近代憲法では、憲法改正など重要な意思決定には単純過半数より厳しい、過半数を超える成立要件やレファレンダム要件などが定められている。

独裁との関連編集

 
玉座のナポレオン1世ナポレオン・ボナパルトフランス革命戦争に際して軍事独裁政権を樹立し、国会の議決と国民投票を経てフランス人民の皇帝に即位した。

民主主義と独裁や専制は、歴史的にも多数の議論が存在している。古代より民主政の一部では非常時における独裁の制度があり、また人民の意思の実現には革命や独裁なども含めた強権が必要との主張も存在する。他方で独裁の実施者の多くは、非常事態における民主主義の防衛などを独裁の理由として主張している。

古代アテナイの民主政では、独裁の発生を防ぐため公職の抽選や陶片追放が行われた。ソクラテスが市民による公開裁判で死刑になった後、プラトンは民主政は衆愚政治に陥ると考えて哲人政治を主張し、アリストテレスは民主政(共和制、国政)が堕落すると王政(僭主政)になると考えた。共和制ローマでは非常時に任期限定の独裁官を設置できたが、カエサルが民衆人気を背景に終身独裁官となり帝政ローマの基礎を築いた。

ロックモンテスキューらは独裁を防ぐため権力分立を主張したが、ルソー人民主権のためには強制的な力の創出が必要とも主張した。フランス革命では民衆を支持基盤とするジャコバン派恐怖政治を行い、ナポレオン・ボナパルトは国会の議決と国民投票を経て「フランス人民の皇帝」となった。またバブーフ完全平等社会の実現のため私有財産制の廃止と独裁を主張し、後のブランキカール・マルクスに影響を与えた。エドマンド・バークらはフランス革命を批判し保守主義の潮流となった。

マルクスは資本主義社会から社会主義社会への過渡期にはプロレタリア独裁が必要として独裁を肯定したが、その独裁は短期間で激しくないと考えていた[68]。レーニンはブルジョワ民主主義を欺瞞と批判し、社会主義革命後に「最も完全な民主主義」が実現すると記し、ロシア革命後に独裁を行い、約10年で共産主義社会は実現すると約束したが、1年後に約束を撤回した[69]。レーニンの後継者となったヨシフ・スターリンは「社会主義建設が進むほど階級闘争も激化する」との階級闘争激化論を掲げた(スターリニズム)。

第一次世界大戦後、「世界で最も民主的な憲法」と言われたヴァイマル憲法下のドイツで、アドルフ・ヒトラー率いるナチス党がドイツ民族の危機を訴えて1932年7月ドイツ国会選挙で大躍進し、更に国民投票で「総統」となった。法学者のカール・シュミットは、民衆の望む政治を行う事こそが民主主義と考え、アドルフ・ヒトラーを最も民主主義的と評価した。エーリヒ・フロムは後に「自由からの逃走」と呼んだ。第二次世界大戦終結後、アメリカ合衆国では共産主義による脅威を背景に赤狩りとしてマッカーシズムが発生した。

現代でも中華人民共和国などは共産党による独裁人民民主主義を掲げている。また憲法などで形式的には民主制が採用されている国家を含め、多くの国家や地方で治安維持や戒厳令などの緊急事態制度を使用して開発独裁権威主義的な政治が実施されている。

世論編集

民主主義は構成員(人民、民衆、国民)による意思決定であるため、構成員全体の意思(世論、輿論、民意、人民の意思)が反映されるべきだが、それが正しいまたは適切であるか、更には世論とは存在し提示可能なものか、などの議論がある。

プラトンは民主主義は衆愚政治に陥ると考えた。マキャベリやヒトラーは、大衆は愚かであると考えた。ロック、モンテスキュー、ジェファーソンなどは自由主義の観点から多数派による専制を警戒し、権力分立が必要と主張した。

ジェームズ・ブライスは著書『近代民主政治』で、近代デモクラシーでは「世論」こそ政治が従わねばならない基準とした。またジャン=ジャック・ルソーによる一般意思も理想化された世論と言える[70]

しかしアメリカ合衆国で選挙予測から始まった世論調査の進歩もあり、1922年 ウォルター・リップマンは著作『世論』で、世論は先入観によるステレオタイプ的思考に影響され、マスメディアが現実には情報を意識的・無意識的に取捨選択して大衆のステレオタイプ的思考を促進しており、世論は容易に操作され、変化されると述べた[70]。他方でポール・ラザースフェルドは著書『人々の選択』で、マスメディアによる投票者への影響は直接的ではなく間接的で、有権者はオピニオンリーダーとのパーソナル・コミュニケーションにより自らの意思を形成していく、と述べた[70]

参照文献編集

脚注編集

  1. ^ 民主主義(デジタル大辞林、ブリタニカ国際大百科事典、大辞林 第三版)
  2. ^ Demokratia, Henry George Liddell, Robert Scott, "A Greek-English Lexicon", at Perseus
  3. ^ 杉田 p14
  4. ^ 草の根民主主義 - コトバンク
  5. ^ 浅羽 p60-61
  6. ^ 浅羽 p64
  7. ^ 浅羽 p65-66
  8. ^ 浅羽 p66-67
  9. ^ a b 浅羽p68-71
  10. ^ 条文番号は編別ではなく通番
  11. ^ 山本 浩三「一七九一年の憲法(一)訳」『同志社法學』11巻(4号)、同志社法學會、124-136頁、1960年1月20日、NAID 110000400935
  12. ^ 山本 浩三「一七九三年の憲法(訳)」『同志社法學』11巻(6号)、同志社法學會、103-112頁、1960年3月20日、NAID 110000400948
  13. ^ The Polity IV project
  14. ^ United Nations General Assembly Resolution 7 session 62 Support by the United Nations system of the efforts of Governments to promote and consolidate new or restored democracies page 3 on 8 November 2007
  15. ^ a b 佐々木 p15-21
  16. ^ トゥキディデス『戦史』(久保正彰訳、岩波文庫)第2巻37、41より
  17. ^ 野上p30-46
  18. ^ 野上p30-46
  19. ^ a b 佐々木 p31-36
  20. ^ a b 野上p148-150
  21. ^ 良い政体を民主政、悪い政体を衆愚政治とする出典も存在する(浅羽 p57、など)
  22. ^ 野上p131-132
  23. ^ 宇山
  24. ^ 宇山
  25. ^ 宇山
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関連項目編集

外部リンク編集