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民雄郷(ミンシオン/みんゆう/たみお[1]-きょう)は台湾嘉義県嘉義都市圏の中にあって、嘉義市衛星都市で、嘉義県内最大の都市である。

中華民国 台湾省 嘉義県の旗 嘉義県 民雄郷
別称: 打猫
National Radio Museum, Minxiong, Chiayi (Taiwan).jpg
地理
Kagiken-tamiokyou.svg
面積: 85.4969 km²
各種表記
繁体字: 民雄
日本語読み: たみお、みんゆう
漢語: Mínxióng
通用: Mínsyóng
注音符号: ㄇㄧㄣˊ ㄒㄩㄥˊ
片仮名転写: ミンション
台湾語: Bîn-hiông
客家語: Mìn-hiùng
行政
行政区分:
上位行政区画: 台湾省 嘉義県の旗 嘉義県
下位行政区画: 28村522鄰
民雄郷長: 何嘉恒
公式サイト: 民雄郷公所
情報
総人口: 71,926 人(2016年3月)
世帯数: 24,417 戸(2016年3月)
郵便番号: 621
市外局番: 05

地理編集

民雄郷は嘉義県北中部に位置し、北は大林鎮渓口郷と、西は新港郷と、西南は太保市と、東は竹崎郷梅山郷と、南は嘉義市と接し、嘉義県内で最も人口が多い郷鎮である。嘉義市ヘの通勤率は約17.5%。嘉南平原に位置し地勢は平坦であり、気候は亜熱帯に属し季節風の影響を強く受ける地方である。

歴史編集

元々台湾原住民平埔族ホアニア族ロツァ支族の集落タアニャウ社があったところで、台湾語音によって打猫(ターニャウ)と宛てられた。しかし台湾総督府はこれを地名にふさわしくないと考え、1920年に音の近い和風の民雄(たみお)に改変し、戦後、台湾を支配した国民党政権もそれを踏襲して北京語音で呼んだ。民雄の旧称である「打猫」と高雄の旧称である「打狗」は台湾人には一対の地名と考えられており、新名の「民」と「高」もそれに因んで一対の和語地名として考案されたものである[2]

信仰編集

経済編集

銀行編集

行政区編集

東栄村、中楽村、西安村、福権村、寮頂村、頂崙村、東湖村、西昌村、平和村、中和村、菁埔村、豊収村、三興村、双福村、東興村、北斗村、鎮北村、福楽村、大崎村、秀林村、松山村、中央村、山中村、文隆村、福興村、金興村、興南村、興中村

歴代郷長編集

氏名 任期 備考
1 何甘棠 4年
2 許水閣 4年
3 劉存養 4年
4 許水閣 4年
5 許水閣 4年
6 陳瓊瑤 4年
7 劉梧桐 4年
8 劉梧桐 4年
9 何明哲 4年
10 劉郁彦 4年
11 張松樹 4年   中国国民党
12 涂文生 4年   中国国民党
13 何宗義 4年  民主進歩党
14 何宗義 4年  民主進歩党
15 陳福成 4年   中国国民党
16 陳福成 5年   中国国民党
17 何嘉恒 103~  民主進歩党籍,現任郷長

教育編集

交通編集

路線バス編集

路線番号 運行会社 運営区間 主なバス停 その他
102 嘉義県公車処 嘉義 - 松仔脚 後湖、民雄、頭橋、北勢子
106 嘉義県公車処 嘉義 - 高鉄嘉義站 後湖、民雄、頭橋
6187 台中客運 嘉義 - 台中 民雄、頭橋、呉鳳科技大学
6880 員林客運 嘉義 - 西螺 民雄、頭橋、呉鳳科技大学
7005 台西客運 民雄 - 台北 民雄、国立中正大学
7202 嘉義客運 嘉義 - 北港 民雄、頭橋、菁埔 7202Cは「呉鳳科大校内」站経由
7203 嘉義客運 嘉義 - 土庫 民雄、頭橋
7204 嘉義客運 嘉義 - 渓口 民雄、頭橋
7217 嘉義客運 嘉義 - 蒜頭 宏仁女中、民雄、頭橋 新港月眉潭経由
7304 嘉義県公車処 嘉義 - 梅山 民雄、頭橋 大林経由
7305 嘉義県公車処 嘉義 - 檳榔宅 市府站、中庄、渓底寮、十四甲 行き先は復原荘
7306 嘉義県公車処 民雄 - 梅山 民雄火車站、中正大学 大林経由
7309 嘉義県公車処 嘉義 - 中正大学 頭橋、民雄、中正大学 南華大学まで延長運行
7315 嘉義県公車処 嘉義 - 瑞峰 民雄、頭橋
7316 嘉義県公車処 嘉義 - 崙仔 頭橋、嘉義大学民雄校区 渓口経由、嘉義大学民雄キャンパス経由
7700 嘉義客運、台西客運 嘉義 - 斗六 民雄、頭橋
7701 嘉義客運、台西客運 嘉義 - 麦寮 民雄、頭橋

鉄道と道路編集

種別 路線名称 その他
鉄道 縦貫線 民雄駅(中心となる駅)
省道 台1線 大林鎮 - 民雄郷 - 竹崎郷
IC 国道1号 嘉義市 - 民雄郷 - 大林鎮

催事編集

観光編集

 
内埔子ダム湖([[虎頭崁埤]])

出典編集

  1. ^ 「州、廳ノ位置、管轄區域及郡市ノ名稱、位置、管轄區域」大正九年八月十日、臺灣總督府令第四十七號
  2. ^ 水越幸一「市郡の區域稱呼其所在地並街庄の稱呼等に就て」『臺灣時報』第十六號、大正九年、一四五頁。

外部リンク編集