水国事件(すいこくじけん)は、1923年(大正12年)3月、奈良県全国水平社大日本国粋会帝国公道会)とが衝突した事件。水国争闘事件下永事件とも呼ばれる[1]

概要 編集

発端 編集

大正12年1923年3月17日奈良県磯城郡川西村下永(現・川西町下永)で起きた事件。婚礼道具が運ばれる道中、森田熊吉が行った指のしぐさに対し水平社の者が、差別的行為であると一方的に糾弾、私的謝罪ではなく公的謝罪を要求したため騒動となる。老人は誠意を尽くしたが容れられず、やむを得ず、融和団体帝国公道会の関連組織である大日本国粋会の幹部であった土建業者・中西常蔵に相談。中西は水平社に和解を求めるが、全国水平社はこれを拒否して、中西も糾弾。一触即発の状況に発展し、双方とも奈良県内外から援軍を動員。3月18日朝、国粋会勢は日本刀、鳶口、拳銃で武装して鏡作神社へ集まり、水平社勢は竹槍で武装し光明寺へ集結。午前9時40分、両者は警察の警戒線を突破し「鍵ノ辻」附近で衝突。国粋会側は水平社の森島駒次郎と梅津米蔵を日本刀で斬り重軽傷を負わせるが、警察隊の制止により一旦両者は引き上げた[2]

事件の拡大 編集

水平社は関西全域に応援を要請、武器も猟銃、棍棒、日本刀などを増やし、総勢2000名となる。国粋会も全国に応援を要請。総勢1200名を動員し、翌3月19日午後3時頃、大和川水系の寺川を挟んで両岸に両勢が対峙した。奈良県知事木田川奎彦清水徳太郎警察部長を現場へ派遣、大阪府警も300人の警官隊を急行させ、さらに奈良歩兵第38連隊も出動した。衝突で両者負傷者を出したが、官憲の制止により鎮圧[2]

調停 編集

清水警察部長が両者を調停し、事の発端となった森田熊吉に水平社へ提出する代わりに、本件に関して「以後一切の協議、禍根を残さない」ことを両者が誓い手打ちとなった[3]この時検挙されたのは、水平社側は駒井喜作、泉野利喜蔵、佐渡長八、松本松太郎ら35名に対し、国粋会側は中西常蔵ら8名。奈良地方裁判所での審議の結果、水平社側の幹部・駒井喜作が有罪判決(悪質)であったのに対して、国粋会側の首謀者と見なされていた中西常蔵は無罪判決(正当防衛)を勝ち取った[2][4]

評価 編集

従来、この事件を全国水平社側の視点から、右翼団体と同和団体の衝突かのように描き、実際には防戦側であった国粋会を悪者のように潤色して解説したものがあった。しかし、大日本国粋会の母体は、水平社より先に作られ融和運動を行なってきた帝国公道会であり、現在では同和運動における思想対立が、争いの淵源にあったと考えられている[1]。 その後、帝国公道会がのちに自由同和会となり、全国水平社はのちに部落解放同盟となり現在に至っている[1]

関連項目 編集

脚注 編集

  1. ^ a b c 『日本史大事典』13頁(平凡社1993年ISBN 4582131018
  2. ^ a b c 『水平社対国粋会争闘事件求刑』大阪毎日新聞、大正12年(1923年12月8日
  3. ^ 『部落史ゆかりの地 奈良県寺川「水国争闘事件」水平社と国粋会の激突』解放出版社編、2005年
  4. ^ 『部落解放運動について(2)』木村京太郎著(所収『燎原』1982年6月1日号)