水沼貴史
水沼 貴史(みずぬま たかし、1960年5月28日 - )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市浦和区)出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)、サッカー解説者。現役時代のポジションはフォワード、ミッドフィールダー。元日本代表。
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名前 | ||||||
愛称 | タカシ、ジジ水沼 | |||||
カタカナ | ミズヌマ タカシ | |||||
ラテン文字 | MIZUNUMA Takashi | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
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生年月日 | 1960年5月28日(63歳) | |||||
出身地 | 埼玉県浦和市(現:さいたま市浦和区) | |||||
身長 | 173cm | |||||
体重 | 65kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW / MF | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1977-1979 | 浦和市立南高等学校 | |||||
1980-1983 | 法政大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1983-1992 | 日産自動車 | 161 | (33) | |||
1992-1995 | 横浜マリノス | 42 | (5) | |||
通算 | 203 | (38) | ||||
代表歴 | ||||||
1979 |
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1984-1989 |
![]() | 32 | (7) | |||
監督歴 | ||||||
2006 | 横浜F・マリノス | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
Jリーグ発足前に、人気が低迷していた日本サッカー界を支えた人物の一人。
略歴 編集
選手として 編集
本太少年団でプレーし、浦和市立本太中学校(現:さいたま市立本太中学校)では3年生の時に全国制覇。その後進学した浦和市立南高等学校(現:さいたま市立浦和南高等学校)では、名将・松本暁司監督の指導の下で1年生の時からレギュラーに定着。全国高等学校サッカー選手権大会決勝では静岡学園高等学校を破って優勝。
卒業後は法政大学に入学しサッカー部に所属。総理大臣杯を2度制した。その後、関東大学サッカーリーグ2部へ降格するが、4年生時に自らのゴールで1部復帰を果たした。
1979年にはU-20サッカー日本代表として、日本で開催された1979 FIFAワールドユース選手権に出場。1次リーグ最終戦となったメキシコ戦でチーム唯一の得点を記録している。
1983年に日産自動車サッカー部へ入部。主戦場の右ウイングには日本代表の木村和司がいたが、加茂周監督が木村を攻撃的MFにコンバートし、水沼が右ウイングのポジションでレギュラーを獲得[1]、1983年、1985年の天皇杯優勝を始め、1988-89、1989-90シーズンの2年連続三冠に貢献するなど、金田喜稔、木村和司らと共に日産の黄金期を築いた。なお、水沼は、Jリーグ以外の各カテゴリー(小中高大、社会人)の全国大会で優勝を経験した数少ない選手である。1989年元旦、第68回天皇杯全日本サッカー選手権大会決勝のフジタ戦では先制ゴールを挙げて勝利に貢献した。1991年、これまでレギュラーを務めてきたが、前期リーグ戦でチームは低迷したため、後期のリーグ戦ではオスカー監督の決断でベンチ要員となることもあった[2]。
日本代表としては、1984年3月8日のブルネイ戦で代表デビュー、同年の9月30日、日韓定期戦にて挙げたAマッチ初ゴールはこの試合の決勝点となり[3]、アウェーで初めて韓国を下す歴史的な勝利に貢献[4]。1986 FIFAワールドカップ・アジア予選では1次予選第4節のシンガポール戦で決勝点となった先制ゴールを[5]、2次予選の香港戦第1戦でゴールを挙げ[6]、最終予選進出に貢献したが、最終予選の韓国戦第1戦では先発フル出場したが決定的な仕事が出来ず1-2と敗れ、第2戦ではベンチ外となり、チームは0-1と敗れ[7]、ワールドカップ出場権は得られなかった。1987年のソウルオリンピック予選ではトップ下を任され、アウェー中国戦で、原博実の決勝ヘディングゴール(1-0で勝利)を演出するなど、本大会出場王手に貢献したが、引き分けでもオリンピック出場権が得られるホームでの第2戦で0-2と敗れ本大会出場はならなかった[8]。1989年の1990 FIFAワールドカップ・アジア1次予選では初戦の香港戦、第2戦のインドネシア戦では僅かな出場時間しか得られなかったが、北朝鮮との第3戦で先発起用されると0-1から同点ゴールを挙げ[9]、2-1での勝利に貢献した。1989年8月4日、エヴァートンFCとの親善試合に出場してゴールを挙げたが、この試合が代表最後の試合となった。
1993年、元旦の天皇杯決勝、読売戦では先制ゴールを決めて優勝に貢献した[10]。5月15日、Jリーグ開幕戦となったヴェルディ川崎戦に先発出場、マリノスの決勝点に繋がるシュートを放つなど、勝利に貢献[11]、11月17日、セカンドステージ第13節のガンバ大阪戦でJリーグ初ゴールを決める[12]。12月1日、16節の名古屋グランパス戦のゴールはJリーグ500ゴール目のメモリアルゴールとなった[13]。
翌1994年は第4節のヴェルディ戦でゴールを挙げて勝利に貢献したが[14](第7節のジェフ戦で挙げたゴールが現役最後のゴールとなった[15]。)、セカンドステージからはベンチスタートあるいはベンチ外となるなど、15試合、2得点に終わった。
1995年、自らの希望でチームとの契約を半年間だけ結び[16]、1stステージの開幕戦鹿島アントラーズ戦で先発し51分までプレーしたが[17](この試合が現役最後の試合となった。)、この試合で負傷したこともあり、以降ホルヘ・ソラリ監督の下では出場機会が訪れず、また後任の早野宏史監督から引退を勧める様な言葉をかけられたこと、マリノスの選手として引退したいという希望もあり、引退を決めた[17]。1995年7月30日に木村和司の引退試合に出場、この試合は水沼にとっても事実上の引退試合となり、翌日には正式に引退を表明した[18]。奇しくも、この年の横浜マリノスは、サントリーシリーズで初のステージ優勝を果たすと、Jリーグチャンピオンシップでヴェルディ川崎と争い、Jリーグ発足後初めて年間チャンピオンになった。
引退後 編集
現役時代から、ゲストとして試合の解説を務めることもあったが、引退後はサッカー解説者として活動、また1996年から2006年1月までTBS『スーパーサッカー』(現役選手だった第2回放送でゲスト出演歴がある)のご意見番役として出演。また『ニュースの森』毎週月曜日に「ワールドサッカーパラダイス」のコーナーも担当した他、昼のワイドショー番組『ジャスト』の月曜日コメンテーターとしても出演していた。テレビ神奈川、ニッポン放送サッカー解説者で、2006年1月までテレビ神奈川では『キックオフ!!F・マリノス』のパーソナリティーも務めていた。また2002年10月から2003年3月にはTBSラジオ『水沼貴史のスポーツボンバー!』等も担当した。2003年から2005年までは、母校の法政大学コーチとして後輩を指導した。また2004年にS級ライセンスを取得した。
2006年2月1日から2007年1月31日の1年契約で、横浜F・マリノストップチームのコーチに就任。それに伴い、『スーパーサッカー』『キックオフ!!F・マリノス』の両番組は降板(卒業)となった。さらに2006年8月24日には成績不振で辞任した岡田武史の後を受け、監督に就任。J2降格は免れたが、具体的な戦略がない状態での就任という事もあって不振は続き、天皇杯終了後に辞任する事が決定した。2007年は再び横浜F・マリノスのコーチに就任したが1年で退任となった。なお、マリノス出身の元選手が横浜F・マリノスの監督になったのは、水沼が初めてであった。
2008年2月、法政大学体育会サッカー部のコーチに再び就任する事が発表された。
2010年2月、東京23サッカークラブのテクニカルアドバイザーを務めている。
その他、スカパー!、J SPORTSなどでサッカー解説、夕刊フジに毎週土曜(日曜付け)のコラム「蹴球7Days」、NumberWebで「水沼貴史のNice Middle!」を執筆
2012年1月22日、松田直樹メモリアルゲームにて、横浜F・マリノス・OBの監督に選出された。
2020年3月8日、蹴球メガネーズとして北條聡、川端暁彦と共にYouTube登録。『水沼貴史のウィキペディア検証』企画を不定期更新。
プレースタイル 編集
所属クラブ 編集
現役時代 編集
指導者時代 編集
- 2003年 - 2005年 法政大学:コーチ
- 2006年 - 2007年 横浜F・マリノス
- 2006年2月 - 8月:コーチ
- 2006年8月 - 12月:監督
- 2007年:コーチ
- 2008年 - 法政大学:コーチ
個人成績 編集
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1983 | 日産 | 12 | JSL1部 | 12 | 3 | 4 | 0 | 5 | 2 | 21 | 5 |
1984 | 17 | 8 | 0 | 0 | 4 | 3 | 21 | 11 | |||
1985 | 22 | 3 | 4 | 2 | 5 | 4 | 31 | 9 | |||
1986-87 | 22 | 3 | 5 | 2 | 4 | 3 | 31 | 8 | |||
1987-88 | 8 | 22 | 7 | 1 | 0 | 3 | 2 | 26 | 9 | ||
1988-89 | 20 | 4 | 5 | 7 | 4 | 2 | 29 | 13 | |||
1989-90 | 16 | 2 | 4 | 2 | 2 | 0 | 22 | 4 | |||
1990-91 | 10 | 1 | 4 | 0 | 5 | 2 | 19 | 3 | |||
1991-92 | 20 | 2 | 3 | 0 | 0 | 2 | |||||
1992 | 横浜M | - | J | - | 3 | 0 | 5 | 4 | 8 | 4 | |
1993 | 26 | 3 | 3 | 0 | 4 | 3 | 33 | 6 | |||
1994 | 15 | 2 | 1 | 0 | 1 | 0 | 17 | 2 | |||
1995 | 1 | 0 | - | - | 1 | 0 | |||||
通算 | 日本 | J | 42 | 5 | 7 | 0 | 10 | 7 | 59 | 12 | |
日本 | JSL1部 | 161 | 33 | 30 | 13 | 18 | 64 | ||||
総通算 | 203 | 38 | 37 | 13 | 25 | 76 |
・JSL東西対抗戦(オールスターサッカー) 7回出場:1983年、1984年、1986年、1987年、1988年、1989年、1991年
・JSL東西対抗戦(オールスターサッカー) 1得点:1988年
その他の公式戦
- 1990年
- コニカカップ 6試合1得点
- 1991年
- コニカカップ 7試合2得点
- 1992年
- ゼロックス・チャンピオンズ・カップ 1試合0得点
代表歴 編集
試合数 編集
- 国際Aマッチ 32試合 7得点(1984-1989)
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1984 | 5 | 1 | 2 | 1 | 7 | 2 |
1985 | 8 | 3 | 5 | 1 | 13 | 4 |
1986 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 |
1987 | 8 | 2 | 9 | 3 | 17 | 5 |
1988 | 3 | 0 | 14 | 3 | 17 | 3 |
1989 | 8 | 1 | 5 | 1 | 13 | 2 |
通算 | 32 | 7 | 36 | 9 | 68 | 16 |
得点数 編集
# | 年月日 | 開催地 | 対戦国 | スコア | 結果 | 試合概要 |
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1 | 1984年9月30日 | 大韓民国、ソウル | 韓国 | 2-1 | 勝利 | 日韓定期戦 |
2 | 1985年5月18日 | 日本、東京 | シンガポール | 5-0 | 勝利 | 1986 FIFAワールドカップ・アジア予選 |
3 | 1985年6月4日 | 日本、名古屋 | マレーシア | 3-0 | 勝利 | キリンカップ |
4 | 1985年8月11日 | 日本、神戸 | 香港 | 3-0 | 勝利 | 1986 FIFAワールドカップ・アジア予選 |
5 | 1987年6月14日 | シンガポール | シンガポール | 1-0 | 勝利 | ソウル五輪予選 |
6 | 1987年9月26日 | 日本、東京 | タイ | 1-0 | 勝利 | |
7 | 1989年6月4日 | 朝鮮民主主義人民共和国 | 2-1 | 勝利 | 1990 FIFAワールドカップ・アジア予選 |
獲得タイトル 編集
学生時代 編集
- 第6回全国中学校サッカー大会優勝(1975年) -浦和市立本太中学校 (現:さいたま市立本太中学校)
- 第55回全国高等学校サッカー選手権大会優勝(1976年)- 浦和市立南高等学校 (現:さいたま市立浦和南高等学校)
- 第4回、第6回総理大臣杯全日本大学サッカートーナメント優勝(1980年、1982年)- 法政大学
日産自動車/マリノス 編集
個人タイトル 編集
- アシスト王 (1986-87年、17アシスト)
監督成績 編集
年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
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順位 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | |||
2006 | J1 | 横浜FM | 9位 | 15 | 22 (45) | 7 | 1 | 7 | ベスト4 | ベスト8 |
J1通算 | - | 15 | - | 7 | 1 | 7 |
- 2006年は8月からの就任 (カッコ内はシーズン通算の勝点、ナビスコ杯の指揮は準決勝のみ。)
脚注 編集
- ^ “代表クラスが6人加入。1983年の日産大補強【連載◎J前夜を歩く第14回】”. soccermagazine. 2020年4月17日閲覧。
- ^ ストライカー 1991年7月号 付録 オスカーのインテリジェントサッカー全科 p.3-10
- ^ “1984.9.30 日韓定期戦 韓国vs日本”. samuraiblue. 2020年4月17日閲覧。
- ^ “サッカー日韓戦“激闘の歴史” 好ゲームもあれば「猿まね」「独島メッセージ」の問題”. dot.asahi. 2021年3月10日閲覧。
- ^ “1985 FIFAワールドカップ・アジア予選 日本vsシンガポール”. samuraiblue. 2020年4月17日閲覧。
- ^ “1985 FIFAワールドカップ・アジア予選 日本vs香港”. samuraiblue. 2020年4月17日閲覧。
- ^ “1985 FIFAワールドカップ・アジア最終予選 韓国vs日本”. samuraiblue. 2020年4月17日閲覧。
- ^ “1988ソウルオリンピック予選 日本vs中国”. samuraiblue. 2020年4月17日閲覧。
- ^ “1990 FIFAワールドカップ・アジア1次予選 日本vs北朝鮮”. samuraiblue. 2020年4月17日閲覧。
- ^ サッカーマガジン 1993年2月21日号 no.409 p.5-10 ベースボールマガジン社
- ^ “柔らかな左足を駆使したラモン・ディアス”. soccermagazine.jp. 2020年4月9日閲覧。
- ^ “水沼貴史”. data.j-league. 2020年4月9日閲覧。
- ^ “Jリーグ記念ゴール”. data.j-league. 2020年4月9日閲覧。
- ^ 94Jリーグサントリーシリーズ 第4節
- ^ 94Jリーグサントリーシリーズ 第7節
- ^ “水沼貴史のJリーグ発足秘話 あえて半年契約の現役ラストイヤーで抱いた想い”. ザワールド. 2021年3月5日閲覧。
- ^ a b “95Jリーグサントリーシリーズ 第1節”. soccermagazine.jp. 2020年4月9日閲覧。
- ^ 憧れのMF、木村和司と水沼貴史の去り際に 質問がなかったらどうしようかと-サッカーマガジン
- ^ サッカーマガジン 1993 5月22日号特別付録 p.24
- ^ 憧れのMF、木村和司と水沼貴史の去り際に-サッカーマガジン
関連項目 編集
外部リンク 編集
- 水沼貴史 - National-Football-Teams.com (英語)
- 水沼貴史 - WorldFootball.net (英語)
- 水沼貴史 - Transfermarkt.comによる選手データ (英語)
- 水沼貴史 - Transfermarkt.comによる指導者データ (英語)
- 水沼貴史 - FIFA主催大会成績 (英語)
- 水沼貴史 - J.League Data Siteによる選手データ
- 水沼貴史 - J.League Data Siteによる監督データ
- 蹴球メガネーズ - YouTubeチャンネル
- オヤジのためのサッカー塾
- パスインターナショナル(所属事務所)